今日入手した本 日本文学全集22「大江健三郎」(池澤夏樹氏による「解説」)

 

  
 大江健三郎の本は最近のものはほとんど読んでいない。ちゃんと読んだのは「万延元年のフットボール」までで、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」や「洪水はわが魂に及び」あるいは「「雨の木」を聴く女たち」までは買ったような気もするが、読み通した記憶がない。
 読んでいないものがたくさんあるのに、こんなことをいうのはいけないのだろうが、大江氏のものでいいのは「飼育」とか「芽むしり仔撃ち」であると思う。その叙情は天性のもので、それがあるからこそ氏は世に出られたのだと思う。読んだ中では最悪だったのが「われらの時代」。「個人的な体験」はまあまあという印象が残っている。「万延元年・・」はその書き出しの文章の晦渋なことに閉口したが、氏がそれを書くことを必要としていることは何となくわかるような気がした。
 「われらの狂気・・」(ひどい日本語のタイトルである)や「洪水はわが魂・・」(なんとも大袈裟なタイトルである)になると、作家の姿勢ばかりが目立つ気がしてついていけなくなった。
 本巻におさめられた二つの長編「人生の親戚」と「治療塔」は1989年と1990年のもので、1967年までのものしか読んでいないわたくしはともに未読である。いくらなんでも喰わず嫌いはいけないかなということで買ってきた。この二つの長編、ちらっと見たところでは随分と平明な文で書かれていて、「万延元年・・」のころとは様変わりしている。
 わたくしが大江氏の小説についていけなくなったのは、一つには氏の長編に同じ登場人物が繰り返し現れるようになったのを知ったためである。そういうやりかたは自分の前の作を読者が読んでいるのを前提にしているとしか思えず、傲岸であると思えた。大江氏の姿は、自分の信者にむけてのみ語る教祖のようにも見えた。そしてもう一つが息子さんの大江光氏が作曲家として登場してきた時で、どう考えても親の七光りで脚光を浴びているとしか思えないのに、光氏自身が作る音楽それ自体が世に評価されていると思っているような言動があり、驚いた(この大江光氏の音楽の扱われ方は、後年の佐村河内氏の「交響曲「広島」」の扱いとどこか通じるものがあると思う。障害ということが批判を封じるのである)。その頃、「自分の家族の問題が解決した、小説をやめる」というようなことを大江氏は言い出した。「結局、家族のことだったのかと思う」(荒川洋治文芸時評という感想」)というのは本当にその通りである。「なんだ、自分の家族だけで生きてきた作家なのか」(同)ということである。おそらくその直後にノーベル賞をとっていなければ、大江氏は小説の筆を折り、今頃はもう過去の作家になっていたのではないかと思う。そしてノーベル賞をとった後の大江氏はアンタッチャブルな存在になってしまった。
 というようなことで大江氏を敬して遠ざけていたのだが、今ここで論じたいと思うのは、大江氏の諸作ではなく、巻末に付された池澤夏樹氏の「解説」のほうなのである。書いてあることがほとんど何から何まで気に入らない。それで、われながら大人げないと思うのだが、そのどこが気に入らないのかということを以下くどくどと書いていきたい。わたくし自身の心づもりとしては、池澤氏個人を論じたいのではなく、ある種の知識人のあり方を論じてみたいと思っている。
 
 まず池澤氏はいう。「大江健三郎の文学の根底には、人間は自分たちの叡智で安定した幸福な社会を作ることができるか、という大きな問いがある。」
 仮にそういう問いがあるとしても、だからどうだというのだろうか。そういう問いを持つ誇大妄想傾向のひとはたくさんいるし、街角でだれもきくひともいないのに演説しているひともいる。新興宗教のようなものをはじめるひともいる。驚くべきことに、こういう一般論のあとに、「幸福な社会」という語を軸に、池澤氏の論はなんと社会主義に飛ぶのである。
 「社会主義は幸福な社会を目指した。社会の形をうまく設計しそれに沿って運営すれば国は繁栄して人々は充ち足りた日々を送ることができる。勝手な欲望に任せた支配ではなく、理性による経営を古代以来すべての革命家たちは目標とした。その運動を担ったのは現状に不満を持つもっぱら若者たちで、だから社会主義はいつでも理想主義によって駆動された。」
 これはもう滅茶苦茶な議論である。古代から「幸福な社会」を目指した運動など無数にあったであろう。その多くは「理性による経営」とは正反対の方向を目指したはずである。なぜその中で「幸福な社会」をめざす運動が社会主義に限局されるのかがまずわからない。
 「資本主義のもとでは貨幣ないし資本という魔物が人知の外から干渉して社会をあるべき姿とは別の方向へ動かしてゆく。それに気付いたのはマスクスの慧眼だった。・・戦後の日本で言えば、ある時期まではみんなが中流社会に属するという思いが共有されていたけれど、今は露骨な格差社会になった。資本+資本家による暴政が国を動かしている。」
 日本の「ある時期まで」は資本主義ではなかったのだろうか? もちろん、戦後の日本の体制を社会主義社会とみる見方は多数ある。岸信介社会主義者であったという見方もあろう(国家社会主義である。であるならば、安倍首相も社会主義者)。ナチスドイツもまた国家社会主義ではなかっただろうか? しかしそれはマルクスが考えた社会主義とは縁もゆかりもないものであることは確かである。
 社会主義圏が現実の対立勢力として存在したので、戦後の日本においては資本の側にも緊張感があり、結果として一億総中流時代が出現したのかもしれない。冷戦が終結したら後は資本の側のやり放題で、格差は拡大する一方であるのかもしれない。だからピケティの本も読まれる。
 ところで、ある本にこんなところがある。『世を動かすのは欲望だ。と官兵衛に異を立てるようなことをいった。愛よりも欲望ではないか、と秀吉はいうのである。「さに候わず」と、官兵衛はいった。愛でござる。もとは愛でござる。筑前守どのに愛あればこそ播州三木城攻めにおいても因幡鳥取攻めにおいても無用に敵を殺さず、味方を殺さず、まるで造物主のような工夫をもってころりと敵をおとし給うた。それ以後、因幡播州両国の人間どもは筑前守どのをしたい、まだ獲って間もなしの新国であるにもかかわらずそよともそよぎもませぬ。・・・』(司馬遼太郎「新史 太閤記」 わたくしは司馬氏の「新史 太閤記」を読んでいるわけではなくて、「人間というもの」というアンソロジーから引用している。) 戦後しばらくの資本主義には愛があって、最近の資本主義からはそれが消えたのであろうか?
 いずれにしても、ここでの池澤氏の論は杜撰の極みである。論じるならば検討すべき他の事例にまったく言及していない。
 さらに池澤氏はいう。「今や社会主義は勢いがない。二十世紀にそれを標榜したソ連という国はもっぱら経済の失敗で崩壊した。人間は率先してみんなのために働くはずだという前提がたぶん間違っていたのだ。・・利で釣らなければ人は動かない。」 司馬氏の小説で秀吉が同じようなことを言っていた。
 だが、ソ連が崩壊したのはもっぱら経済のためなのだろうか? もっともっと大きな理由があるのではないだろうか? 「愛」が欠けていたためではないのか? 今の中国は社会主義なのだろうか? それを動かしているのは「利」であり、「欲望」なのではないだろうか? 経済がうまくいっているならば国というのは肯定されるのだろうか?
 池澤氏は社会主義がうまく機能しなかったのは、人間が己を捨てて他人につくすような存在ではないこと、要するに経済活動においては人間が利己的であることを、十分に見通せなかったことが原因であるとしている。だがそんなことはとっくにヒュームが言っている。
 問題はそのような些末なことではなく、もっと別のところにあるはずである。「ある優れた人間には世界の動きの原理を理解することができて、その原理を知れば、それに基づいた社会設計が可能で、その設計図に則って社会が作られるならば、世の中から悪や不正がなくなるはずである」という思想、前衛の思想、エリートの思想、すぐれた知識人は世界を導くことができるという思想、それこそが否定されたのだと思う。ハイエクがいう「構成的主知主義」である。「革命の背後にあるもっとも根本的な思想は、全く人間の知恵に頼って国家を思いのままに作り変えることができる、という構成的主知主義であり、人知に対する全くの信頼なのである。」(渡辺昇一「不確実性の哲学」(「新常識主義のすすめ」所収)
 ハイエクの盟友のポパーはいう。「(ベトナム難民、ポル・ポトの犠牲者、イラン革命の犠牲者、アフガニスタン難民などの)筆舌に尽くし難い出来事を阻止するために、われわれには何ができるでしょうか。そもそもわれわれは何かをなしうるのでしょうか。またわれわれにはそもそも何ごとかを阻止しうるのでしょうか。/ この問いに対してわたくしは、できる、と答えます。われわれは多くをなしうるとわたくしは信じています。/ わたくしが「われわれ」と言うとき、念頭においているのは、知識人、つまり、理念に関心をもつ人間、とりわけ、読書しそしておそらくは著述するであろう人間のことです。/ なぜわたくしは、われわれ知識人は助けることができる。と考えるのでしょうか?/ 単純です。われわれ知識人は何千年となく身の毛もよだつような害悪をなしてきたからです。理念、説教、理論の名のもとでの大虐殺ーこれがわれわれの仕事、われわれの発明、つまり知識人の発明でした。人々が相互に迫害しあう―しばしば最良の意図をもってなされているわけですが―ことがやむならば、それだけでも確かに多くのことが獲得されるでしょう。われわれにはそれができない、と言う人はいないはずです。」(ポパー「寛容と知的責任」(「よりよき世界を求めて」所収))
 「しばしば最良の意図をもってなされているわけですが」というのが重要で、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉もある。「社会主義はいつでも理想主義によって駆動された」ということは社会主義を擁護するものでは少しもない。
 池澤氏は知識人であって、その知識によって、知識を持たないひとにはできない「世界についての理解」に到達することができ、それによって世の中に何らかの寄与することができる、あるいはすべきであるという知識人としての責務あるいは使命感あるいは自負をもっている人なのだと思う。そして大江健三郎もまたまさにそういう人なのだと思う。知識人としての意識が池澤氏と大江氏では非常に近いと思う。井上ひさしとか、高橋源一郎とかもまたそうである。(大江健三郎井上ひさし坂本龍一といったひとたちが、なんでみな同じような変な眼鏡をかけているのだろうというのが昔からの疑問である。普通のひとがあのような眼鏡をかけているのはまず見ることがない。そこに何か自分は他とは違うという意識(無意識?)を感じてしまう。久野収も同じような眼鏡だったような気がする。池澤氏についてはあの髭。)
 丸谷才一も、知ったものが世を指導するという思いも持ち続けたひとだと思うけれど、その「世」とは文学の世界に限局されていたと思う。吉田健一が信用できるのは「世」を導くとか徒党を組むとかに一切無縁であった人であるからである。
 だからといって小林秀雄のように「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。今は何の後悔もしていない。・・僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」なんて啖呵をきればいいかというと、それも問題である。もしも知識人というものに何らかの意味がわずかでもあるとすれば、付和雷同しないこと、異物であり続けることのなかにこそあるのだと思う。吉田健一は戦後、帝国海軍の悪口を一切言わなかった数少ないひとの一人であったのだそうだけれども、あれほど軍人として役に立ちそうもないひともないわけで、軍というものに徹底的に違和感を感じ続けたに違いない。しかし悪口はいわなかった。
 池澤氏は「ぜんたいの幸福のために社会を設計し運転する倫理的な能力がそもそも人間には欠けているのではないか。ソ連の失敗にはそういう深刻な問いがつきまとう」というのであるが、「倫理的な能力」ではないはずである。それは人間の知性の範囲をそもそも超えているということである。「慧眼の士はそれを早くに見抜いていた」として、池澤氏はジッドの「ソヴィエト紀行」やオーゥエルの「動物農場」や「1984」を挙げる。これらは文学作品であるが、もっと根本的な懐疑の書には言及しない。
 さらに変なことをいう。「知的設計による社会構築は、ナチス・ドイツ日本赤軍オウム真理教も無残に終わった。」 ナチス・ドイツは知的設計による社会構築だったのだろうか? 日本赤軍が? オウム真理教が? それらは知性とは縁もゆかりもないものではないか?
 池澤氏は宗教にもふれて、「宗教によって個人の魂は救われても、安定した幸福な社会を築くことはできていない」という。しかし、個人の魂を救う宗教のほうが例外で、宗教は多くの場合、集団のためのもので、そこで「安定した幸福な」人々の集まりを作り出すことは多くあったのではないだろうか?
 そしてこれらの問題点を列挙した後、池澤氏は「ではどうしたらいいのか?」と問い、この問いが大江健三郎の文学の基礎にあると仮定する。しかし、大江氏の書くものは文学であるから、「どうしたらいいのか?」と悩む個人を描き、「自分たちの叡智で安定した幸福な社会を作」ろうと模索する集団を描くことになる。つまり現実の世界では実現できないことを文学作品の中で作り上げようとするのが大江氏のしていることなのだ、と。
 しかし、わたくしにはそれは端的に現実逃避であると思われる。その点については池澤氏は重要な指摘をしている。大江氏の文学において特異なのは、「家族の外はすぐ社会であって、その間をつなぐ世間という遷移領域がないことだ」という。池澤氏は「絶海の孤島」という。「魂があって、政治があって、その間が空っぽ。詩集があって、新聞があって、その中間がない。もっとも卑俗な領域がすっぽり抜けている」という。これは大江氏の小説が自閉していて、開かれていない、という根源的な批判であると思うのだが、池澤氏は「俗悪を入れない形で彼は彼なりの世間を作ってきた。近くには善意の仲間たち、遠くには悪意の権力」という。これは大江氏の文学のほぼ全否定につながる言葉のように思えるのだが、「いや、そんな風に単純化してしまうのは間違いだ」として池澤氏は論を打ち切ってしまうのである。池澤氏の社会主義論というのも随分と単純化した議論だと思うのだが。
 もう随分と前に読んだので記憶が曖昧であるが、「万延元年・・」においては密三郎と鷹四という二人の人間の対立があって、描かれる世界は大江氏の夢であっても、それがそのまま肯定されることはなかった。今、本棚から「万延元年・・」を引っぱりだして見ていたら、「想像力の暴動」という章があった。何か象徴的である。大江氏の作品で描かれるのはすべて「想像力の・・」なのだと思う。現実にはおきないことを作品の中で想像力で実現させる。それでもかつての大江氏の作品が読めたのは「森の力」を感じ取れる大江氏の独自の感受性のためで、次第に四国の人から都会の人になるにつれて、地霊の助けをえることができなくなってしまうと、足がまったく地から離れてしまい、氏の書くものも現実との接点を一切持たない空想の空回りになっていったのではないかと、読まないでいうのはいけないのだが、思う。
 現実では実現できないことを作品の中で実現させてしまう。それが文学なのだろうか?
 どうも池澤氏の考える小説というのは作者の思想を読者に伝えるものとして存在しているように思える。しかし現実と何ら接点を持たない思想に何か意味があるのだろうか?
 池澤氏のような大知識人、大読書家がハイエクなどの本を読んでいないはずがない。それなのに何で安手のアジテーターのような杜撰な論を平気で「解説」として書くのか、それがどうしてもわからない。文筆を業とするものの書くものとはとても思えなかった。それで口を尖らせていろいろ書いて見た。暴言多謝。
 
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