R・クーパー「DSMー5を診断する」

   日本評論社 2015年2月
 
 DSMとはアメリカ精神医学会が出版している「精神疾患の診断・統計マニュアル」のことで、「DSMー5」は、その第5版をさす。第1版は1952年に出たがほとんど読まれなかった。1968年の第2版もあまり注目されなかった。1980年の第3版から重要なものとなりはじめ、1994年の第4版で影響力が決定的となった。改版のたびにぶ厚く高価なマニュアルとなっていった。
 第5版の改訂作業は2006年にはじまったが作業に2500万ドルもの費用がかかったとされ、2013年になってようやく出版された。
 何が問題なのか? 1980年の第3版では「心的外傷ストレス障害」が疾患の項目に加わった。これはベトナム戦争復員兵の団体とその心的外傷の治療者のロビー活動のたまものである。注意欠如多動症もまた同じである。以前は病気とは思われていなかったものが、DSMにとりあげられることで「病気」となっていった。逆に以前は疾患であるとされていたものが今では正常とされているものもある。代表的なものとしては「同性愛」がある。ここに登録されることにより「病気」となり、ここから外れると病気ではなくなるのであれば、製薬会社にとって、DSMがきわめて大きな利害関係をもつ書物であることは当然である。
 注意欠陥多動症ADHD)という診断が普及してくると、授業を妨害する子供の説明がそこに集約していくことになった。環境が問題なのではなく、脳が原因ということになった。このような「医療化」の動きには様々な批判があるのは周知のことである。今回のDSMの付録に、はじめて「インターネットゲーム障害」が収録された。第4版では親しい人の死による悲哀の反応はうつ病から除外されたが、第5版ではそれがなくなった。あまりに長く悲しむひとは病的とされることになった。
 性的倒錯は第4版では、「臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害」を経験している場合にのみその診断とするとされていた。それでは自らの行為に満足している小児性愛者は正常なのか?という批判に答えて、第5版では「その性的衝動を行動に移している、または、それのために著しい苦痛が生じている時」に診断されるとなった。そうすると今度は、性犯罪を犯したものが、その事実によって病気とされることになってしまった。もしも精神疾患であるゆえにその行為が犯罪として処罰されないのであれば、この変更の結果は重大なものとなる。また多くのアメリカの州で、性的倒錯者と診断される犯罪者の身柄は無限に拘束できるとしていることからも、これは重要である。この改訂はたくさんの正常者を病理的としてしまったという批判が多数だされている。
 DSM4で導入されたアスペルガー障害は第5版では自閉スペクトラム症のなかに組み込まれることになった。アスペルガー障害と認定されたひとはさまざまなサービスや手当を受けることができた。もしも自閉症スペクトラムではないと診断されると、それらが打ち切られてしまうのだろうかと恐れているひとは多い。
 この改訂は製薬会社にもきわめて大きな利害の関係が生じる。しかも改訂の母体は私的な団体であり、その運営費の多くは製薬会社からでている。また改訂を担当する医師の多くも製薬会社とかかわりがある。医者同士の病気についての見解も様々である。外部からの圧力もある(「同性愛は病気ではない」という活動家からの抗議、あるいは慢性疲労症候群患者からの「これは身体疾患であってメンタル疾患ではない」というの懸念の表明などなど)。ウエブ上からの意見も参照される仕組みがある。
 本書では具体的なケースの検討として「ためこみ症」というのが検討されている。いってみれば「ゴミ屋敷の主人は精神疾患なのか?」である。DSM5では、これが独立した障害となった。(それ以前は強迫性パーソナリティの一部としてあつかわれていた。) この障害と認定されるためには単にため込んでいるだけではなく、ためこみによって本人に有意な苦痛あるいは機能の障害が生じていることが必要である(だから、いくらわたくしの部屋が本の山であろうと、わたくしは「ためこみ症」ではない)。これが疾病と認定されると当然病気なのだから薬物療法がこころみられることになる。著者はこの論理が延長されると、健康に悪いとわかりながら運動をおこたり不摂生をしているひともまた精神疾患とされていくのではないかと懸念している。老後に備えて十分な貯蓄をしないひとは精神疾患だろうか? ためこみ症のひとは病識を欠いているのかもしれない。しかし本人が苦痛を感じていないが病気と認定される精神疾患はたくさんある。ためこみ症には認知行動療法が有効というデータもあるそうである。
 DSM5ではアルペルガー症候群が独立した診断ではなくなり、自閉症スペクトラムの中の一つとされた。自閉症あるいはアスペルガー症候群と従来なら診断されていたものも、今後は広い意味での「自閉症スペクトラム症」の中にふくまれることになる。従来からアスペルガー症候群が独立した疾患であるのか自閉症の軽症例なのであるかについては議論が絶えなかった。1960年〜70年代にかけて自閉症は「冷たい母親」によっておこされるという理論が大きな力をもっていたので、親は子供が自閉症であると診断されることに積極的ではなかった。今日、自閉症の児童へのサービスはとても充実してきている。バロン=コーエンの本などを読んでいて、自閉症スペクトラムは「男性性」の過剰であるように理解していたのだが、これも仮説に過ぎないのだろうか?
 しかしいずれにしても、すこしでも奇妙なひとがみな自閉症スペクトラムとかアスペルガー障害とされてしまうのは問題だとして、その傾向に警鐘をならすひともいる。
 DSMの信頼性のどのくらいあるのだろうか? ある患者が受ける診断は、診断を行う人の主観によってではなく症状によって決まるべきである、というのがDSMの目指したところである。1980年にDSM3が出版されたときには、その達成のために、カッパ係数(二人の臨床医が診断について一致する率)が診断の正確性の指標とされた。しかしDSM5にいたってこのカッパ係数の目標が大幅に引き下げられた。そうなったのはDSM5の診断基準がきめ細かいものとなったからかもしれない。
 だが、一番の問題は厳密な診断が必要であろうかということである、と著者は主張する。違った病名に同じ処方が投与される場合がしばしばあるのだとすると、診断の厳密化にどれほどの意味があるのか、と?
 
 結核症という病気がある。これは結核菌により引き起こされる。しかし、結核菌があれば結核という病気にみななるわけではない。これは昔から、コッホのような細菌学者とペッテンコーファーなどの公衆衛生学者の対立としてあったもので、目の前の患者をみることをしている臨床家からいえば、結核症をおこしたのは結核菌であるが、もっとマスの視点からみている公衆衛生学者の視点からは結核症の原因は衛生環境のの悪さや貧困であり、その対策は衛生環境の改善であり、経済状態の改善である。しかし、そのような対立はあるとしても、結核菌は最後の砦である。とてつもない貧困の状態であっても、結核菌のないところでは結核症はおきない。それがあるから、結核症とそうでない病気の区別の議論は多くのものに受け入れ可能なものものとなりうる。
 統合失調症が何らかのウイルスの感染によりおきると仮定する。そうであるならば、あるひとを統合失調症であるかどうかについての議論はどこかで決着がつく可能性が残される。ウイルスはいるかいないかである。いたからといって病気になると限らないにしても、いなければこの病気の診断は否定される。現在、このウイルスに相当するものが脳内伝達物質である。現在一番有力視されているのはドーパミン仮説かと思うが、それが支持される根拠は抗精神薬の効果であるらしい(クロルプロマジンなどの効果)。脳内に一定の方向の働きをする物質の投与で症状が変化するなら、脳内の何らかの変化が病状にかかわっているとするわけである。
 しかしこれはあるかないかではなく、量的あるいは質的な変化であるからこれによりクリアに疾患の有無を区別することはできない。現在の生物学的精神医学といわれる立場は精神疾患の背景に何らかの脳内物質の変化を想定するわけである。そうだとするとこれは脳という臓器に生じる身体疾患であることになる。脳内物質の異常が原因であるならば、それを修正する薬の投与が治療である。精神疾患も何ら特別な病気ではなく、[普通の」病気である。
 一方わたくしが若いころは、母親が統合失調症の原因であるというような説が広く流布していた(Schizophrenogenic mother)。その頃に読んだG・ベイトソンダブル・バインド仮説を唱えていた。もちろん、母親の育て方が悪いと子の脳内伝達物質に何らかの変化をおこすと考えれば、生物学的精神医学と精神分析派を一元化することは理屈の上からは可能である。しかし、病気が脳内伝達物質でおきると思っている医者と母親が悪いと思っている医者がいたときに、同じ病名を用いているとしてもそれについてどう理解しているかはまったく異なるはずである。
 精神医学の分野では結核菌に相当する議論にどこかで終止符をうたせることが可能な客観的な指標が存在しない。”深い”議論をはじめると泥沼になる。表面的に外から観察可能な症状、客観的に判定可能な指標(症状の持続時間、その誘因・・)などを用いて”浅い”ところで病気の定義をとりあえずしようというのがDSMなのであったと思う。
 だから、とりあえずの参考資料の一つとして用いるというのであれば大きな問題は生じない。しかしこれが絶対的な権威をもったりすると、とんでもない事態が起きるのは必定である。たたけば埃がでるにきまっているものがあちこちでをどんどんと叩かれることになる。
 買ったけれどもまだよく読んでいない「[正常]を救え」を書いたA・フランセスはDSM4の編集責任者であるが、このDSM5を強く批判している。こんなことをしていたらみんな精神疾患とされてしまうぞ、というようなことらしい。
 健康に悪いと知りながら喫煙を続けて人は精神疾患なのではないだろうか? コンピュータゲーム依存が精神疾患であるならばニコチン中毒もそうではないのだろうか? 原因がニコチンという物質なので身体疾患なのだろうか?
 嫌煙運動の旗を振っているWHOの偉いかたは、タバコのけりがついたら今度はアルコールの成敗と思っているのだそうである。さすがに禁酒法をつくった国である。わたくしなどは必死の形相で皇居のあたりでランニングをしているひとなどをみると、なんだか強迫神経症患者のようだと感じてしまう。もっと一般的にいえば、ピューリタニズムというもの自体が実は強迫神経症なのではないかと思っている。
 内科の外来にきているひとのかなりは「「健康」強迫神経症」であると思う。「大丈夫ですよ。そんなことは心配ありませんよ」というのが医者の大きな仕事になる。本当は大丈夫かどうかは少しもわからないのだが(ガン・ノイローゼのひとがガンにならないという保証は少しもない)、「大丈夫」という言葉は少しは神経症症状を軽減はできるかもしれない。
 臨床の場で保険病名という言葉ある。ある臨床的行為をしたときに、そのことをすることが認められている病名をつけることをいう。ちょっとした胃炎だねと思ったときに消化性潰瘍にしか使うことが認められていない薬を使った場合には病名は胃潰瘍
 あるいは診断書というのは社会の交通手形みたいなところがある。ある人が「風邪で三日会社を休みました。すみません、3日間の休養を要したという診断書を書いてください」と初診でくる。「この位で3日も休むなよ!」と思っても、「病名:感冒 付記:上記診断のため3日間の自宅安静を要した」などと書く。それがないと会社のほうでもあつかいが困るようなのである。しかし最近では「病名:うつ病 付記:上記のため少なくとも3ヶ月の休職を要する」などという診断書がどんどんとでてくるようになった。これはこれで大きな問題である。
 著者のクーパーは科学哲学の専門家であり臨床家ではない(公衆衛生の専門家でもない)。医療という井の中にいると見えなくなるものは多々あり、こういう部外者の目は大事であると思うが、同時に、臨床の場にいれば問題とは特に思えないことを過大に重要視しているように思える点も多くあった。A・フランセスは内部の人であるから、時間のあるときに「正常を救え!」も読んでみようかと思う。
 

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