村上龍「オールド・テロリスト」
文芸春秋 2015年6月
大分感想を書くのが遅くなったが、この本を買ったのが6月29日で7月2日にはもう読了している。足掛け4日だけれど、間の二日間の夜には会があったことを考えると、まあ早いほうかと思う。面白い。この「面白さ」がたとえばディーヴァーの小説を読む面白さとどのように関係するか、小説とは? といったことを何となく以下考えてみたいと思う。(なお、最後のほうにネタばれの部分があるので、未読で読む予定がある方は注意をしてください。) 別にディーヴァーの小説をたくさん読んでいるわけではなく、たまたま「白紙委任状」という007を主人公にした小説を読んだだけだが、とにかくストーリー展開で読ませる小説である。もちろんそれをささえる描写の技術ということがあるのであろうが、読んだあとは「ああ、面白かった!」で終わりで、後に何か考えるというようなことはない。船戸与一さんのものとか北方兼三さんのものは男はかくあるべしとか体制に歯向かう心情とかのメッセージが作者としてはあるのかもしれないが、善玉悪玉、敵と味方がはっきりしているわけで、読者としてはスカッとするとかはあるかもしれないが、読後に深く思いをいたすというようなことはないように思う。しかし、この「オールド・テロリスト」の読後感は何かそれとは違うものがあることは明らかである。その違う何かを読後に残すものが「文学」なのだろうか?
昔、三島由紀夫がアイラ・レヴィンの「ローズマリーの赤ちゃん」を論じて、作者の技量は恐るべきものである。日本の純文学雑誌に書いている「作家」の何百倍もの技術がある。しかし内容のなさも恐るべきものである。まったく何もない。内容の一切ない小説を技術だけで読ませてしまうという一種の産業としての娯楽小説という分野ができてしまっているというようなことを論じていた。
以下に書くことは加藤典洋氏の「小説の未来」のなかの「七合目での下山―村上龍『希望の国のエクソダス』」と、中島梓「夢見る頃を過ぎても」の「ムラカミは電気ヒツジの夢を見るか」などの論に非常に大きく影響されていて、格別に新しい論ではないと思う。
村上龍氏はいつのころからか、小説を情報の容器として書いているというようなことをいうようになっている。おそらくそういうことは「愛と幻想のファシズム」あたりから始まったはずで、氏は「あとがき」にこんなことを書いている。「私はこの作品でシステムそのものと、そのシステムに抗する人間を描こうとしたが、それは大変な作業で、困難の連続だった。/ 私には自分でもわからないのだがシステムへの憎悪といったものがあり、これまでの作品でもそのことは必ずメインテーマとなってきた。/ そして、本書でついにシステムを全面的に支え、ある時にはシステムそのものとなる経済と出会ったのである。/ この小説は週刊現代に二年余にわたって連載されたが、その間私はドロナワ式に経済にとりくんだ。/ ありとあらゆる経済書を読み、東にレーガノミックス研究会があれば潜り込んでメモをとり、西にカントリー・リスクのシンクタンクがあると聞けば教えを乞い、数えきれないほどの人々と会った。/ リスケ、モラトリアム、デフォルトなどとスラスラ口をついて出るようになった頃、単行本になった時のあとがきで読破した数百冊の本を、「参考文献」として列挙するのを楽しみにしていた。「ボクってこんなにお勉強しましたよ」と示したかったのである・・。」 というようなことが1987年に書かれ、さらに3年後の1990年には「三年が経った。/ その間、株の暴落があり、天安門事件が起こり、ペレストロイカが始まって、東西ドイツの壁が崩れた。・・だが私は未来予測をしようと、この小説を書いたわけではない。/ 私が書きたかったのは、ある種の「閉塞感」である。/ この国に充満する、「世界から切り離されて、自ら閉じられた円環に収束しようとする」不健康なムードについてである。・・」という補足が書かれている。
この時の「お勉強」はその後も続いて、「JMM」というメールマガジンを発行し、「だまされないために、私は経済を学んだ」といった本を出す。その「はじめに」で氏は「ある状況下では、情報の有無が生死を分ける場合がある」と書き「『希望の国のスクソダス』という小説を書くために、金融・経済の情報が不可欠だった」としている。そして「リストラされて中央線のホームに佇む中高年の男たちは、近代的自我の崩壊によってではなく、経済的要因によって、プライドが危機に瀕しているのだ」という。この「だまされないために・・・」は2002年の刊行で、『希望の国のエスソダス』は2000年の刊行であるが、この『オールド・テロリスト』はその続編のような小説である。「リストラされて中央線のホームに佇む中高年の男たちは、近代的自我の崩壊によってではなく、経済的要因によって、プライドが危機に瀕しているのだ」のだとすると、文芸雑誌に掲載されている大半の小説など村上氏にとっては馬鹿らしさ極みということになるのではないかと思う。氏がいまだに芥川賞の選考委員などをしているのが不思議である。ということで、この『希望の国・・・』も『オールド・テロリスト』も『文藝春秋』誌に連載された。
「私が書きたかったのは、ある種の「閉塞感」である。/ この国に充満する、「世界から切り離されて、自ら閉じられた円環に収束しようとする」不健康なムードについてである」と氏はいう。この国というのはもちろん日本で、だから書きたいのは個人ではなく日本に充満する不健康なムードだとすると、もともと個人を描く装置である小説をその手段として用いることはどうなのだろうかという疑問が生じる。
加藤典洋氏は『希望の国・・・』を論じて「村上さんは、この作品を書くために、「現代日本」の抱える問題を「描きつくす」つもりで、問題を整理した上、各界の専門家に取材したのです。その上で一つの日本社会のシミュレーションを試みました。でも、これは小説です。こういう問題をとりあげる場合、小説は、論文とか評論とか社会批評といったものとどのように違う問題のさしだし方をするのか」という問題を提示している。いまわたくしが『オールド・テロリスト』で考えてみたいと思うのもまったく同じことである。二つの小説はともにテツ(関口テツジ)というジャーナリストが語り手である。『希望の国・・』では語り手というか観察者というか批評するひとというか基本的には傍観者であるが、『オールド・テロリスト』ではもう少し巻き込まれて参加していくことになる。
ここで思い出すのが大塚英志氏の「物語の体操」で紹介されている蓮見重彦氏の「小説から遠く離れて」の中の以下のような文である。かなり長くなるが引用する(わたくしは「小説を遠く離れて」は読んでいない。大塚氏の本で紹介されているこの一節を知っているだけである)。「いかにも天涯孤独といった言葉の似合いそうな一人の男が、ふいにそそくさと旅装など整え始めたなら、ほとまず警戒してかかるにこしたことはない。誰かにある用件を「依頼」されてちょっとした旅に出るとでも漏らした場合には、なお一層、警戒を強めるべきであろう。・・この冒険の手助けになるのは、血をわけた兄弟なり姉妹に限られている。そうつぶやきながらひそかに連絡をとりあうこの二人組は、とうてい局外者の入り込む余地はなさそうにみえる。・・やがて目的が達せられてのち、首尾よく生還しえた者の権利としてわたしが語るであろう物語に耳を傾けることだけが、あなた方に許されている唯一の楽しみなのだ。・・この「宝探し」はひたすら個人的な動機にうながされた冒険だとはいえ、あなた方が等しく囚われている世界の隠喩として、なにがしかの意味をおびているのだから、心して聞くがよい。これはたんなる思いつきや嘘出鱈目ではなく、ある種の現実感さえ帯びた教訓的な物語なのだ。・・人びとが何の屈託もなく日を送っているこの世界にも、それ相応の権力機構というものがそなわっており、現実の政治的な制度の影に隠れたかたちで人びとの生活を律している。そこには「黒幕」じみた策謀家もいればパルチザンと呼ぶべき闘士もおり、ふだんは人目に触れぬ水面下で過酷な葛藤を演じたてているのである。わたくしが選ばれた者の特権として「宝探し」の旅に出るのは、その不可視の闘争がある決定的な破局に直面し、そこでの権力維持に重大な危機が生じているからだ。」
本当に笑ってしまうくらい「オールド・テロリスト」はこの通りの話である。主人公は妻に捨てられた天涯孤独な男で、血をわけた姉妹ではないが奇妙な女性とペアを組んで、ある用件を依頼されて冒険の旅に出る。そして何とか生きて帰って、自分が見聞きしたことをこれから語ろうと決意するところで話がおわる。その冒険の旅の途中で「黒幕」じみた策謀家も、パルチザンと呼ぶべき闘士(オールド・テロリスト)もでてきて、「人びとが何の屈託もなく日を送っているこの世界」の背後にある危機を示すというのがこの小説の構造である。
大塚氏はこのような「物語」の構造は「貴種流離譚」などとも共通する、歴史の古層に根ざすものなのだという。蓮見氏は井上ひさし「吉里吉里人」、村上龍「コイン・ロッカーベイビーズ」、丸谷才一「裏声で歌へ君が代」、村上春樹「羊をめぐる冒険」といったその当時評判になった小説の背後には共通してそのような物語の構造があることを指摘したらしい。つまり「ハリー・ポッター」と同じだよ、と(まだ「ハリポタ」はでていなかったかもしれないが)。
丸谷才一氏は「冒険小説について」というエッセイで、ダヴィッドソンの「モルダウの黒い流れ」(1960年)とホープの「ゼンダ城の虜」(1894年)という二つの娯楽読み物の構造がいかに類似しているかということを述べている。丸谷さんは文学の伝統ということが大好きなひとだからそういうことをいうのだが、いわく、どちらも「イギリスにおける怠け者の青年が、ひとたび外国にゆけばどんなに見事な働きをするかという、勇猛果敢にしてかつ愉快な冒険の話である」と。両方の語り手=主人公は「読者と同じように怠け者であって、しかも怠け者でありながら、一旦緩急あれば、ぼくやあなたがたぶんそうするであろうと同じように、颯爽として活躍するから、ぼくたちは彼のなかに自己を投影して、うっとりといい気持ちになるのである」と。
小説というのは、一見平凡でさえないように見える人間であっても、実はその内面には英雄たちにも比することができるような大きな物語が蔵されているといった考えを根っこにもって出現してきたのだと思う。それは19世紀の産物であるが、20世紀になると国民国家とか社会体制の大きさにくらべれば個人はいかに小さく無力な存在であるかという方向が主流となってきたので(オーウェルの「1984」とか、カフカの「城」とか)、当然、小説は大きな流れの中では衰微していくことになる。とすれば、現代において小説を書こうとする作家たちが、物語の回復の方向を探るは当然のことなのかもしれない。
問題は、村上氏の関心が、「人びとが何の屈託もなく日を送っているこの世界の背後にある危機」を描くことにあって、小説執筆の動機もそこにあり、読者が興味をもって話を追っていけるように作中人物も造形されているし、物語も構成されているが、しかしその人物を造形し示すために小説が書かれているとは思えないという点にある。同じ村上の春樹さんは、氏のいう「卵と壁」という比喩に従えば「卵」を描くことに関心があって、壁の構造がどうなっているかの探求にはあまり興味をもっていない。つまり春樹さんのほうが小説の王道をいっている。龍さんにくらべて春樹さんのほうに読者が多いのもそのためであろう。春樹さんの書くものは翻訳を通じて世界で読まれているが、龍さんの小説は現代の日本という場を離れてはほとんどリエリティを失うので、日本を離れればまず読者を期待できない。「村上(龍)さんの近未来小説には、いつの頃からか、「危機を煽る」扇情的な性格がつきまとうようになりました。そこはこの小説の通俗的な部分と言えるでしょう」と加藤典洋氏がいうように、つねに日本は《ある種の「閉塞感」》があることになり、《この国に充満する、「世界から切り離されて、自ら閉じられた円環に収束しようとする」不健康なムード》を根源的に覆そうとする話が書かれるが、現実の日本は《ある種の閉塞感》と自閉した《不健康なムード》のもとでも、(今のところは)何とか生きながらえているので、村上氏の書く話が段々と狼少年的に見えてきてしまうことである(本当に近未来の日本は、今のギリシャのようになってしまうかもしれないのだが)。
そして村上氏の立ち位置が微妙なのは、「しかしこれ(「五分後の世界」)見る限りじゃ村上龍って完全な右翼ね」と中島梓氏がいうように、村上氏には愛国者という顔もあるように見えることで、龍さんは「閉塞し」「自閉した」日本を嫌いならがも、その日本を救いたいという気持ちも同時に持っているように見える点である。つまり日本人に今ある危機を伝えて、日本人が目覚めてその危機から脱出するための情報を提供するためのものとして小説が書かれているように見える点である。
龍さんは、日本がどうなろうとひとは世界のどこかで生き延びていけばいいというリバタリアンではない(春樹さんは、日本の外でも生きていけるひとで、龍さんにくらべれば、ずっと個人主義者であると思う)。といっても日本の「村落村落共同体的なもの」への嫌悪を最大のバネにしている龍さんであるから、そこに矛盾が生じる。「私には自分でもわからないのだがシステムへの憎悪といったものがあり、これまでの作品でもそのことは必ずメインテーマとなってきた。/ そして、本書でついにシステムを全面的に支え、ある時にはシステムそのものとなる経済と出会ったのである」と1987年に書いた村上氏は、ここでのシステムに二つの意味を持たせることになった。「システムへの嫌悪」という時にシステムは「個」を圧迫してかかる様々な日本の村落共同体的な何か、「日本的システム」とでも呼ぶべき何かである。一方、「システムそのものである経済」という時には「世界を根のところで動かしているシステム」である。つまりある時に村上氏は世界を動かすシステムである「経済」によって日本の自閉したシステムを破壊することができるのはないかと考えた。『希望の国・・』は目覚めた中学生たちが「経済」の知識を駆使して日本を変えようとする話であった。
加藤氏の「小説の未来」で紹介されている『「希望の国のエクソダス」取材ノート』で村上氏がいっているように「自分は日本の村八分とか差別のある村落共同体あり方が嫌いなので、はじめグローバリズム(市場原理主義)というものに「期待感」を持ってい」た、でもこれは弱者切り捨ての強者の論理であって、やはりこれでは困ると思うようになった。つまり、日本社会が村落共同体的なもので支えられてきたことを一部、「認めざるをえな」くなった」というのが村上氏が当時抱えた根本的な矛盾であったはずで、それを克服するために出てきた第三の道が強者が弱者を救うという路線だったのではないかと思う。現在において「経済」を支配し「情報」を持つものは強者である。強者は弱者を救済する責務がある。「ノブレス・オブリージュ」? 「ハーヴェイ・ロードの前提」? 「ブルームズベリーの世界観」?、日本流に翻訳すれば、「霞ヶ関の前提」「東大出身者の世界観」(竹内靖雄「経済思想の巨人たち」)、端的にいえばケインズの世界観。そこででてくるのがエリートに任せれば経済は、あるいは世界はうまく運営できるのか、という問題である。どうも村上氏はそちらに傾いているような気がする。
『オールド・テロリスト』を読んでいて気になったのが「陰謀史観」的な見方というか「人びとが何の屈託もなく日を送っているこの世界にも、それ相応の権力機構というものがそなわっており、現実の政治的な制度の影に隠れたかたちで人びとの生活を律している。そこには「黒幕」じみた策謀家もい」てという見方で、世界は黒幕が動かしているとの見方である。おそらく「お勉強」の過程で村上氏は多くの「情報をもつエリート」たちと知り合うことになり、日本を動かしているのはそのひとたちであるという思いを強くすることになったのはないだろうか? 「霞ヶ関の前提」「東大出身者の世界観」にとりこまれてしまったのではないだろうか?
橋本治さんの「ロバート本」というふざけたタイトルの本(出自は「0011ナポレオン・ソロ」というテレビ番組)にある「石川淳『荒魂』を読めなくて」と、その続編「その後の江戸―または石川淳のいる風景」(「江戸にフランス革命を」所収)はこの辺りの問題をあつかっているように思う。「ロバート本」から。「ロッキード事件で何に驚いたかっていうとサ、結局、政界の“黒幕”ってのが児玉誉士夫だったってとこね。なんかサ、そういう思い込みって、みんな持ってたじゃない。世の中には腐敗が渦巻いててサ、その頂点に保守党政治家と財界の大物とかがいてサ、もう、美女は裸にされて奴隷市場に売り飛ばされて、そんで、なおかつそういう状況を「フォッフォッフォッ」って笑っている“未だかつて一度たりともその存在を世に知られたことはないけれども、実は陰で日本を牛耳っている謎の老人”とかサ。その人が“御前”とか呼ばれたりしてたりしてサ、・・そういういかがわしくもロマンチックで、うっかりそういう“影”に立ち向かおうとすると、やっぱり明日、電車に轢かれて死んでるかもしれないとかサ、そういう人物は、・・絶対に誰だか分からない存在であってほしいというサ、そういうロマンチックな願望って、日常に不満を抱いている国民の間ではあったと思うんだ。だもんだからサ、ロッキードで、“絶対に口が裂けても言えないような謎の黒幕”が“児玉誉士夫”っていう有名な人間だった時、みんなガッカリしたんだよねェ・・」
なにしろ「荒魂」の書き出しは素敵で、「佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた。そして、これに非情の手を下したものは父親であつた。だたし、このおやぢ、もともと気のちいさいやつで、コロシなどといふすさまじい気合いはみぢんも見られず、またそれがとくに人情に反する行為のやうにおもふわけもなかった。山国の村の風あらく、家の中は吹きさらし同然、さうでなくても、やぶれ畳の上に余計なガキがすでに五個もころがつてゐるところに、また一個ふえたとすれば、・・林檎の実は大きくあかあかと照つて、決してこの土地にはとまつたことのない汽車が遠くにがーつとはしり過ぎて、村は晴天であつた。」 何が「林檎の実はあかあかと照つて・・村は晴天であつた」であろうか、というようなものだが、この〈穴の底から這いあがって来る〉殺されても死なない佐太という「人間ゴジラ」(橋本氏)が都会に出て、「フォッフォッフォッ」って笑っている“未だかつて一度たりともその存在を世に知られたことはないけれども、実は陰で日本を牛耳っている謎の老人”と対峙したりする話が「荒魂」であったと思う。(わたくしが読んだのは筑摩書房版の「石川淳全集 第7巻」で昭和43年の刊行となっているけれども、ほとんど内容は覚えていない。記憶にあるのは書き出しの部分だけである。) 橋本氏はそういう石川淳の見方は“古い”という。
「だまされないために・・」の最後のほうで村上氏は「わたしは実は感慨に弱いほうです。要するにセンチメンタリストだということ・・」と書いている。センチメンタリストとロマンチストは通底していて、だからこそ“実は陰で日本を牛耳っている謎の老人”みたいな人物がこの「オールド・テロリスト」にも出て来ることになる。
「私家版・ユダヤ文化論」で内田樹氏は「陰謀史観はある意味で人間の善性の現れ」といっている(これを書いていたころの内田さんは冴えていたなあ、と思う。今は単なる進歩的文化人の一人になってしまった。群れたら駄目になる一つの例なのだろうか?)。龍さんも善いひとなのだろうなあと思う。
中島梓は「(村上龍と村上春樹は)双子の男の子が同じ環境でグレはじめたんだけどかたっぽの龍くんは硬派のヤクザになり、もういっぽうの春樹くんは退行してナンパなおタクになりました、という感じ」といっている。「その出発点のスタンスは「いまあるこの世界に対する根本的な不信感と疑惑」である。・・「団塊」以降の人間で表現にたずさわろうとしてそれを持ち合わせていないとしたらそれはあまりにもめだたい人間である」と梓さんはいっている。村上龍は「五分後の世界」で真の「物語作家」となった中島氏はいうのだが、同時に「もしかしたら完全に〈純〉文学を離脱して物語り業界へ向かってしまうかもしれない」ともいっている。
加藤典洋氏は『希望の国・・』を「恐竜のような小説」といっている。「身体はとてつもなく大きいけれど、脳の部分がきわめて小さい」、つまり「物語の外枠を作るのに膨大な力を発揮しているわりには、そこに搭載されることになる小説的部分―小説でしか書けない種類のドラマの部分―はほんの少ししかなく、・・展開されずに終わっている」ということである。この「オールド・テロリスト」では小説的部分を担うのは語り手のテツが妻に逃げられフリージャーナリストとしての仕事もほとんどなくという部分に限られているように思う。「オールド・テロリスト」での一番の問題点はこの老人テロ集団が一向に共感を呼ばない魅力のない存在となっていることにあるのではないだろうか? わたくしには単なる軍事オタク・兵器オタクの愉快犯のようにしか思えなかった。あるいは戦争で死ねなかったことの悔恨をずっと胸に秘めて、いまだに死に場所を求めてさ迷っている人たち、とか。『希望の国・・・』の中学生たちのほうがまだある種の魅力があった。それでは龍さんは、このオールド・テロリストたちに共感しているのか? わたくしには、旧ドイツ軍の「88ミリ対戦車砲」のほうにずっと思い入れが深いように思えた。龍さんには軍事オタクとか兵器オタクの側面があるのではないだろうか? 一番、書きたいのが旧ドイツ軍の「88ミリ対戦車砲」であるとすると、そこから「小説でしか書けない種類のドラマの部分」を構築するのは容易なことではないだろう?
そして最後に老人テロリストたちを成敗?するのがアメリカ軍であるという設定はどうなのだろう? ここに自衛隊がでてきたら大問題になることは明かであるが、自衛隊にはそのような設備もなく訓練もできていないということなのだろうか? それとも愛国者である龍さんとしては、そのようなことは書けないのだろうか? 日本を牛耳る謎の老人、実はアメリカ軍というのでは何だか身も蓋もないような気がする。
本屋さんの店頭をみても、この「オールド・テロリスト」はそれほど売れているようには思えない。「半島を出よ」あたりまではそうでもなかったように思うのだが、「歌うクジラ」あたりからそうなってきたのだろうか? 日本人の危機意識がかつてよりは弱まって来ていて、それで、龍さんの持つ危機意識と波長があわなくなってきているのだろうか? どうでもいい芥川賞にあれだけ騒いでいるのだから、確かに危機意識は乏しくなってきているのかもしれない。
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