渡辺京二対談集「近代をどう超えるか」(1)

   弦書房 2003年
 
 最近、思うところがあって、渡辺京二氏の本を少し読み返すことをしている。数えてみたら本棚には20冊ほど氏の本があった。手始めにまず、この対談集から。
 
 榊原英資氏との対談「“江戸の平和”とグローバリズム
 榊原:江戸250年の平和の時代はヨーロッパでは戦争と革命の時代だった。明治維新のころにようやくヨーロッパも「パックス・ブリタニカ」の時代となった。同じ日本でも、江戸の時代は鎌倉・室町の戦乱の時代の日本とは大分異なる。
 渡辺:室町期に村が成立する。それにより領主制と領国が成立する。守護大名とは違って、戦国大名は自分の領国を持ち、領民もまた国民意識的なものをもつようになる。統治者と被統治者がいる国家のようなものが形成され、そこで契約がおこなわれる。その形が完成したのが江戸期である。鎌倉武士がつくった制度は当事者主義だった。つまり一人一人が国家で、自己責任の世界である。村ができあがるとそれは小国家であり、そのなかに上下関係と支配の構造ができた。村が形成される以前の一人一人が国家の時代には日本人は猛々しかった。16世紀の日本は東アジアにおける傭兵の最大の供給源だった(山田長政倭寇、海賊)。
 信長と秀吉は村という小国家の体制から中央集権的国家への転換をした。一人一人が国家の時代は、自由ではあるが、アナーキーな恐ろしい時代でもあった。織田豊臣政権は一つの平和をつくりあげたのである。しかし、その平和で失われたものもある。
 幕末のままごとのような幻想的な美しさをもつ日本人、桃源郷のような夢のような文明という日本の像は江戸の産物である。それは鎖国の産物で、明治30年くらいまでは江戸が残っていた。
 江戸は負の面ももつ。それはたとえば江戸文学をみればわかる。人情の世界であって、人が持つさまざまな可能性を開花させうる体制ではなく、精神の飛翔を許す世界ではなかった。「てめえはばかあだろう、おれもばかなんだ、お互いにそんなにえらくないぞ」というリアリズムの世界で、観念的な志向は乏しく、人間の精神はどこまでも高く飛翔できるものだとか、物事を徹底的に抽象していってそこから理論を作るとかいった志向はなかった。だからこそ明治期に西洋が魅力的に映った(たとえば、恋愛。わけしりの色事の世界から霊の表現としての恋愛へ・・北村透谷)。
 国家については複眼的にみるべきである。1)国家なんて知らないよ。自分の暮らしが大事だよ、という方向と、2)しかし日本という民族国家は存在する。そこから逃れられるというのは幻想、という方向である。現実の世界はやはりまだ民族国家からなりたっている。とすると国に個性がないとグローバリズムのなかで押しながされるだけになる。
 榊原:新渡戸稻造や岡倉天心の「武士道」とか「茶」は理念の産物であり、現実の武士とか茶道とは関係がないものである。しかし、そういう理念がないと西洋に押しつぶされると思ったからこそ、彼らはあえて主張した。
 渡辺:岡倉天心のアジアも詩的なイメージである。天心はアジアを特に研究したわけではない。天心の「アジア」とは、「西洋に対して自分は違和感を持つ」という気持ちの表明である。
 江戸はきわめて特殊な文明であり、時代の流れとともに滅びるしかないものであったのかもしれないが、そうであるなら、それに代わる文明がほしい。人情があって、粋で、洗練された文明を作りたい。グローバリズムは地域をこわし、環境を破壊する。そして、それ以上に人間のこころを壊す。人間が抽象的な存在になっていく。商品集中社会がある限界を超えてしまったのである。(ある意味では、ある時期には)いいものでもあった資本主義は、しかし変質した。いらないものを作りだすだけの体制となった。そこで失われた人間の輪、基本的な人間のつきあいを取り戻さなければいけない。
 
 中野三敏氏との対談「江戸文明は世界史の奇跡」
 中野:「逝きし世の面影」に、江戸末期に日本にきたオールコックなどの外国人は「日本人は幸福で、満足そうな顔をしている」と思ったことが記されている。女性は独立の人格を認められていなかったとしても、自由で、気さくであり「幸福な従属」があった。子どもも親切に注意深く扱われていた、と。
 渡辺:江戸の庶民は貧しく、不当な支配の下に置かれていたという従来からの定説にそれは反したので、異国趣味からの発言と思われた。
 中野:江戸の身分制度の根幹には倫理があった。上位の者の倫理観がしっかりしていた。信頼感があれば、身分制度はうまく機能するものである。
 渡辺:多くの外国人が明治20年ごろに「古きよき日本は死んだ」といっている。荷風は「社会の中に洗練された美意識が照り輝いているような時代」を文明の時代とした。
 中野:近代はまだ百数十年の歴史しかない。これから成熟するのではないか?
 渡辺:わたくしはそうは思わない。昭和10〜30年、庶民が生活を楽しめるようになった、その時代が成熟の時期で、あとは崩壊の一途ではないのか?
 江戸は近代とは異次元の時代、アナザーワールドの世界だった、そのことの理解が大事。人と人の垣根の低さ。情の深さ。人同士の信頼がそこにはあった。近代の目でも芭蕉、蕪村はわかるし、馬琴もなんとかなるのかもしれないが、洒落本、黄表紙はわからない。
 中野:江戸の人間は人間を特別視していなかった。コスモスの中で人間が生きていた。
 渡辺:宇宙論的に自分が生きて死ぬことを納得させてくれるコスモロジーが江戸にはあった。現代では人間は進化の結果、偶然生まれたということしかない。自分の限界をしることが大事なのである。
 中野:江戸の人間は分というものを知っていた。
 渡辺:農民が威張っていた。江戸は奇跡なのである。近代とは庶民がぜいたくをできるようになった時代である。しかし、その反動としての虚しさもある時代である。西洋近代の達成は偉大である。それは認めなくてはならない。芸術であり、宗教の相対化であり、人権という思想であり、デモクラシーというシステムである。すべてが普遍性を持つ。しかし、人間は世俗化されてしまうと、道徳的、倫理的な内発性な心情をもてなくなる。まず、自分が幸福になることからはじめなければならない。
 
 ここで、とりあえず一区切り。
 山本七平の本などを読んでいて、今の日本人は鎌倉から以後に出来たのではないかという印象を持っていた。一所懸命の武士である。武士とは武装農民であり、額に汗して開墾した土地に徹底的に固執するひとである。少し前に「会社は誰のものか?」という議論がでたことがあったが、会社は株主のものなのだと知って驚愕した。会社はそこで働く従業員のものだと思っていたのである。
 日本人像の典型として、たとえば二宮尊徳などをあげることもできるのかもしれないが、尊徳はおよそ飛躍のない人、形而上の思考を持たないひとであった。
 渡辺氏の「逝きし世の面影」で多く紹介されている江戸末期から明治のはじめにかけて日本に来た外国人が描く“絵のように美しい”日本と“小さい、かわいらしい、夢のような”日本人の像は、明らかに、一所懸命の武士とか、二宮尊徳の刻苦勉励とは違っている。
 渡部昇一氏の「教養の伝統について」のなかに「スペンサー・ショックと明治の知性」という章があって、ラフカディオ・ハーン夏目漱石へのスペンサーの影響を論じている。スペンサーはハーバート・スペンサーで、進化論を社会に応用して、「適者生存」とか「弱肉強食」とかいった概念で世界を説明しようとした人で、明治のインテリに甚大な影響をあたえたのだという。その著書は1861年から1896年辺りに出版されているので、まさに江戸末期から明治半ばまでである。
 ハーンは1850年にイギリス領の島(今はギリシャ領)で生まれダブリンで育っているが、16歳の時に渡米、新聞記者になっている。ルポ・ライターになったということは生存競争の勝者にはなれなかったということで、世界のローカルな風俗の報告者として身をたてることになった。日本にきたのもローカル・カラーの報告のためである。しかし松江に来たハーンは、それまで見てきた西インドやクレオールなどとは異なり、非ヨーロッパである日本に高度の文明があることを知って驚嘆した。そしてそこに心の安らぎを見出すことになった。
 スペンサー理論によれば、ある社会は進化するが、それはついにある均衡点に達する。倫理も社会制度も完成の域に達する。しかしその均衡社会にある外力が加わると、その社会は解体過程にはいり、適者生存の世界となる。ハーンは日本をその均衡社会と見た。ハーンは仏教を援用して、涅槃状態にいる日本が欧化によって弱肉強食の業の世界に入ろうとしているのだというような記事をアメリカに送っている。日本に安らぎの地を見出したハーンだが、学生には「古い日本は亡びるであろう」から、これからの若いひとは新しい時代に適応するような勉強をすることを勧めている。
 ハーンは東京帝国大学英文科の教授であったが、その後任が漱石夏目金之助である。ハーンと漱石の精神の型は驚くほど似ていると、渡部氏はいう。漱石は幼少のころから漢詩と南画の世界に憧れていた。それは旧幕時代のインテリの嗜好であった。それは優勝劣敗の対極にあるような世界である。しかし、もはや漢詩の時代ではなかった。漱石は最初、工科の建築科にはいっている。社会に有用な人間たらんとしたのである。友人の忠告により文科にうつるが、選んだのは愛してきた漢文学の世界ではなく、自身は嫌いであった英文科である。有用の学問を選んだのである。本職として英文学を研究し、余暇として漢詩の世界に遊んだ。洋学の隊長になるくらいの意気込みでロンドンに渡った漱石は神経を病み、日本にかえされる。その漱石の気を紛らわせるために虚子がすすめた結果できたのが、「我輩は猫である」であり「坊っちゃん」であり「草枕」である。これらの作は、渡英以降やめていた漢詩の代用物であったのである。
 渡部昇一氏が論じているハーンや漱石のケースと、渡辺京二氏が論じている江戸との関係を考えてみたい。「逝きし世の面影」で描かれている「幸福で、満足そうな顔をした」日本人は多く庶民である。漢詩とか南画とかは武士などの上層の世界の話であろう。江戸の後半は「動きのない世界」「停滞した世界」になっていた。そういう世界は適合すれば生きやすい世界であるが、退屈な世界でもある。生き馬の目を抜くような競争の世界は刺激的ではあるが、くたびれる。近代というのが競争の時代であるとすれば、そこから見れば、動きのない世界は美しく見える。
 停滞した社会は遊びは生むが思想は生まない。だから橋本治氏のように「どうして江戸の町人達には、“明治維新の為の思想を用意する”という発想がなかったんだろう? 彼等は、遊んでいただけだ」(「江戸にフランス革命を」)という人もいる。「江戸にはまともな“文学”なんてないんだ。江戸で文学的価値があるものは、冗談と怪奇だけなんだ。」「現代文学の“問題”なんて全部夏目漱石の中にあって、“その後”っていうのは一つもない。それだけの話だ。すべては、とうの昔に終わってるし、すべてはなんにも始まっていない。その中間に、怠惰な江戸町人の“どうでもいい述懐”があるだけだ」とも橋本氏はいう。芭蕉、蕪村は芸術っぽいし、馬琴は真面目であるが、洒落本、黄表紙というのは、“遊び”であり、“どうでもいい述懐”ではないのだろうか? もちろん、そういう見方は近代からの見方ということになるのだろうが。
 野口武彦氏の「幕末気分」に収められた「幕末の遊兵隊」で描かれている長州戦争当時、江戸から大阪に派遣された長州征伐の部隊の言動など、戦争などという気分はまったくなく物見遊山である。弥次さん喜多さんを気取って遊びほうけている。野口氏はいう。「日々の無責任な軽佻浮薄は、いかなる情勢に対しても雑俳と駄洒落と茶番で応対することしか知らない江戸文明をたっぷり吸収している。・・深刻になると冗談で切り抜ける。必死になるなんて野暮な真似はしない。こうなると立派という他ないほど、江戸っ子の骨髄にしみこんで死んでも直らぬスタイルなのである。このノンシャランと長州兵の一心不乱との間には大きなギャップがある。これはもう遊び半分と生まじめの差ではない。文明のプレートの境界だったとでもいう他はなかろう。」 漢詩をつくるような武士ばかりではなかったということなのであろう。「遊んでいただけ」なのは町人ばかりではないわけである。確か渡辺氏の本で、米国との海上での交渉の役人が、合間の時間に小舟で扇子などを使いながら本を読んでいる光景が紹介されていたような記憶がある。優雅だなあと思った。長州にはすでに「近代」が来ていたが、江戸の侍たちはまだ江戸の夢の中で微睡んでいたということなのかもしれない。江戸の末期には多くの人々には時間が止まっていたのであろう。吉田松陰のような眦を決したような人は例外だった。
 問題は「コスモス」なのである。江戸の日本人の「幸福そうなバカ面」、「百姓のイノセントな顔」(渡辺氏「なぜいま人類史か」)は彼等がコスモスの中に生きていたからなのだろうか? 渡辺氏は石牟礼道子氏とのかかわりで水俣病の問題にかかわったひとである。石牟礼氏は間違いなくコスモスへの強い感受性を持つひとで、この対談集での岩岡中正氏との対談でも指摘されているように、石牟礼氏は「中世的な宇宙観」を持っていて、宇宙の意味を全体として感受できる感性をもったひとである。岩岡氏は近代の「散文の知」に対する「詩の復権」ということをいっている。渡辺氏も石牟礼氏の自然描写は近代文学の自然描写ではないとしている。渡辺氏は、日本の近代文学を担った知識人たちは伝統的なコスモスから離脱して近代人としての自己形成をしたので近代以前の日本人が持っていた存在に対する感覚を失ってしまっている、という。近代以前の民が世界をどう受け止めていたかについて描いた日本の近代文学は今までなく、それをはじめてしたのが石牟礼氏のものなのだという。
 しかし、と渡辺氏はいう。そうであっても石牟礼氏は近代人である。他人から絶ち切れている。それがあるから、それを超えて、原初的な世界に帰ろうとしているのである、と。渡辺氏は「自分の世界を拡張し、転倒してくれたという点で、石牟礼さんに感謝している」という。そして「あの人の混沌とした世界と私の明晰な世界とが毎日けんかをしている」という。また、ドストエフスキーをひきあいにだして、ドストエフスキーは「西欧社会は利益の取引の場であるので、そこではすべてが利益に還元されてしまうため人と人の真の信頼関係が失われてしまうが、一方、他者への共感能力を持つ点においてロシアの民衆はそれを超えると見た」という。石牟礼氏もそして渡辺氏も水俣の地にドストエフスキーがロシア民衆に見たような共同体を幻視したことがあった。が、現実にはそれはありえなかったのだ、と。だから、と渡辺氏はいう。「もう一つのこの世」は自分の中にしかない。それへの憧れ、衝迫、希求を持った者が自立しながらつながりあうような社会の気風を醸成していく、そこにしかもう道はない。現代人がさらされている虚無をしっかりとおさえたうえで、その虚無を越えるものを求めていくしかない、ということをいっている。
 こういう方向の議論はどうしてもD・H・ロレンスを想起させる。小川和夫氏は「チェタレイ夫人」での自然描写についてこういっている。「作者がヘロインのコニイといっしょに、花々の生命のなかに、のめりこんで、いわばその生命のさなかから描いているような具合である。むろん、こうなると、ヘロインにも作者と同じ程度の感受性があたえられることが不可避になってくるのであって、つまりは、並の人間はロレンスの作品の主人公にはなり得ないことになる。むろん、ロレンスの方でも、並の人間の並の生活を扱った小説などを書くのは真平だった。/ 花々はたがいに感応している。それらは一体となって、伸び、ゆらめき、呼吸している、それらはひとつの生命力の、同時なる個々なる発現のように見える。/ しかし、あるいは、それゆえに、花々は書きはしない。ロレンスが花々のごとくに生きていると考えた野蛮人たちも書きはしない。しかし、ロレンスは書いた。花々について、また花々のごとき野蛮人について書いたのである。彼はのめりこみようにして花々の生命を描いた。彼はイタリアの農民について、メキシコ・インディアンについて、エトルリアの亡びたる民族について、それらの人間たちが根源の生命の流れのなかにあるかのように、書いた。・・・そして、ロレンスは自分が野蛮人にはなり得ないこともよく知っていた。「事の真相はこうなのだ。つまり、後戻りはできぬということなのだ。・・過去に、野蛮人の生活に、後戻りはできないのだ。それは身のうちにある宿命である。」 しかしと小川氏は書く。現代人の生活が生命を失ったものであることを痛ましいまでに常に感じていたロレンスは、負けることの承知な戦いにあえて身を挺したのだ、と。
 ロレンスがイタリアの農民について、メキシコ・インディアンについて、エトルリアの亡びた民族について、それらの人間たちが根源の生命の流れのなかにあると見たように、渡辺氏も渡来した西洋人の筆の中の江戸末期の民衆に、コスモスの中に生きているひとを見たのである。それは渡辺氏が《現代人の生活が生命を失ったものであること》を強く感じているからで、また当時の日本を描いた西洋人たちもまた《自分達の生活がどこかおかしいという思いを抱いていた》からである。
 江戸末期の民が幸せであったのかどうかということではなく、渡来した西洋人たちにしあわせに見えたということが大事なのである。とすれば、何十年か遅れて、その西洋人たちの後を追っているわれわれから見ても、江戸末期の民衆は幸せに見えるということはないだろうか、ということが「逝きし世の面影」が問うているものなのだと思う。
 とすれば、問題は、江戸末期の民がどうであったかではなく、今のわれわれの生活が生命を失った痛ましいものであるとわれわれが感じているのかということのほうにあることになる。
 われわれは日本人にける「個」の萌芽を武士に見るのかもしれない。しかし、その「個」はまだ共同体に縛られていた。渡辺氏は「なぜいま人類史か」で、「西欧的近代システムは、この(個であることを希求するという)人間の本性を共同体から解放したんですよ。・・このシステムは大変結構なんです。具合がいいんです。ただ、人間はこのシステムに安住できぬ心の飢えをもつ。私はただ、そう言っているのです」と述べている。なぜ「個」であることだけではいけないのだろう。そこに「飢え」が生じるのだろう。渡辺氏は、この西欧的システムの命運は、そう長いものではない、という。なぜなら、現在の西洋の小説に書かれている家庭や職場は地獄ではないか、と。そういう地獄に人間は結局たええないはずだから、と。
 そういう氏が共感をよせるのはソルジェニーツィンであり、パステルナークであり、イリイチであり、ローレンツである。彼等はいずれも根源的な西欧近代の批判者であり、西欧のなかでも絶対的な少数派であり、多数派を形成することは考えられない人たちである。ニーチェの系譜であり、ニーチェは批判する側の人間であっても、決して多数派とはなりえないひとである。(わたくしが大学生になった頃、中央公論社から「世界の名著」というシリーズが刊行され、その第一回配本が『ニーチェ』で(「ツァラトゥツトラ」と「悲劇の誕生が」収載されていた)、どういうわけかベストセラーになった。駒場の世界史の先生が「ニーチェがベストセラーになるなんて」と絶句していた。)
 西欧のシステムを一旦は肯定しながら、しかしそれが根源的には不幸なシステムなのであるという氏の論の進め方は、ソルジェニーツィンパステルナークやイリイチに比べればはるかに微温的で、フクヤマの「歴史の終わり」の論法を想起させる。これはコジェーヴヘーゲル解釈に依拠した本で、東西冷戦終結直後に書かれ、西欧の体制が世界を征してこの世の最終的なシステムとなることによって、「歴史」が終わった主張している本として、何という能天気という批判も受け、またハンチントンの「文明の衝突」などのほうが、その後の世界情勢をよほどうまく説明しているなどともいわれたが、原題である「The End of History and the Last Man 」の「the Last Man (最後の人間)」がミソで、これは「ツァラツストラ」の「超人」の反対にいる「末人」(最後の人間)であり、「怜悧であり、世界に起こったいっさいのことについての知識をもっている。・・健康をなによりも重んずる」ひとたちで、「われわれをその末人たらしめよ。そうすれば超人はおまえにゆだねよう」という人たちである。
 コジェーヴは「ヘーゲル読解入門」の注で、アメリカ的生活様式こそが「ポスト歴史」の時代の固有の生活様式であるとしたが、後に日本に旅行しことにより撤回し、日本にある「生のままのスノビズム」こそがそれであるとして、一部の日本の思想家達を有頂天にさせた。コジェーヴ自身は第二次大戦後に早くも歴史は終わったとして哲学者であることをやめて、フランス政府の仕事をしたりヨーロッパ経済協力委員会で働いたりした。
 アラン・ブルームは「アメリカン・マインドの終焉」で、コジェーヴを20世紀のもっとも聡明なマルクス主義者とし、コジェーヴはマスクス主義者すなわち合理主義者は「最後の人間」とともに生きなければならないという問題に真正面から向き合い、「最後の人間」は合理的な歴史の帰結であるという点で、ニーチェに同意したという。渡辺氏はマルクス主義から出発したひとで(昭和23年から31年まで日本共産党員)、当然、その本性において合理主義者である。だから西欧のシステムを基本的には肯定する。ブルームは、「粗野で非合理な否定性を奨励する、何らかの神秘主義者だけが、この結論を回避することができる」というのだが、明瞭に神秘主義への傾きを持つ石牟礼氏と出会うことで、また「粗野で非合理な否定性」があると見えた水俣の場におもむくことで、「最後の人間」であることを回避できる道を見たと思ったのであろう。「あの人の混沌とした世界と私の明晰な世界」という渡辺氏である。合理主義が論理的に帰結してしまう不幸である「最後の人間」となる運命を拒否しつづけることを己に課しているだと思う。
 天心の「アジア」すなわち「西洋に対して自分は違和感を持つ」とは、西洋への道は末人への道であることを嗅ぎつけたということなのである。渡辺氏はアジアの代わりに江戸へゆく。西洋由来の「個人」であることは断固享受しながらそのほぼ必然的な帰結である「末人」化を拒否し、知識人にしてコスモスを実感できるひとという細く険しい道を氏は追求しようとしている。
 ロレンスを論じる小川和夫氏がロレンスの対極にいるとしたのがヴァレリーであった。わたくしのお師匠さんは吉田健一であるが、健一氏はヴァレリーの末裔なのではないかと思っている。丹生谷貴志氏は「吉田健一は観念の反対物として「自然」を持ち出すことを一切していない」という。「母なる自然」への憧れがまったくない、と。そして吉田健一にとって人間とは「獣」である、獣としての人間である、ともいう。「吉田健一はあらゆる理念を喪失して「獣」となった人間の中に十全な「人間」の姿を認めるのである」、と。ここで「獣」と言うのは、「理性を失って荒れ狂う姿でも「自然」という「楽園」に休らう姿でもなく、最低限の属性にまで還元された姿という意味」なのだそうだが(新潮社「吉田健一集成 5」月報の「解説」「獣としての人間」)。
 吉田健一はコスモスというようなものをまったく信じなかった。わたくしも超越的なものとか神秘的なものとかはまったく駄目な人間である。だからこそ吉田健一に惹かれる。最近の吉田健一の小さなブームのようなものは、もはやコスモスなどを信じることができない人が、そういうものなしで現代に生きる一つのやりかたを吉田氏に見ているからなのではないかと思う。わたくしは、最初、福田恆存(すなわちロレンス)から入った人間なので、渡辺氏のいわんとすることは理解できる気がする。わたくしから見ると、福田氏は否定において強く、肯定において弱いところにあるのではないかと思う。渡辺氏の論も否定の場面においてはとても切れ味がいい。しかし、肯定の方向になるとなんだか理屈が勝ってしまうように思える。
 そもそも現代の人間がコスモスなどというものを本当に信じられるのだろうかということが、わたくしが渡辺氏の論を読んで感じる根本的な疑問である。そんなことは渡辺氏は百も承知である。そういう人には渡辺氏はいういういったことを言うかもしれない。「ロレンスの説いた福音は、おそろしいほどほんたうなんだよ。世界は五十年後にそれを理解するだらう。もう一度戦争があつて、一つの世界が実現して、平和が訪れて、原子力マルクスかどちらかがそれを司祭して、そのときになつてはじめてロレンスは改めて読むなほされるだらう。きみのことだから、その福音は真実だけれども、現実を無視してゐるなんていひかねないね。さういふ信仰の不足が、今日までいかに現実を無視し放置してきたか、そのことをもう一度考へなほしてくれないか。(福田恆存「ふたゝびロレンスについて」(新潮社版「福田恆存 評論集2」所収)」 これは1950年に書かれた文章である。それからもう50年以上がたっているけれども、世界をマルクスが司祭することはなかった。一度は一つになったように見えた世界も分裂している。世界を支配したように見えたアメリカの力も翳ってきているようである。だからいまだにロレンスは読み返されない。
 本当にコスモスを信じているひとは黙って生きているのではないかと思う。渡辺氏があれだけのものを書くというのは、それだけ自己説得も必要ということのようにも思える。実は吉田健一の晩年の異常と思えるくらいの執筆量も、自分の言っていることが我ながら信じ切れないところがあって、何度も何度も繰り返して書くことで自分を説得していたのではないかという見方をわたくしは捨てられない。それほど氏の晩年の論は風変わりで不可思議な部分をふくむものだった。
 渡辺氏は自分が書くものが多くのひとを改宗させることをまったく期待していないらしい。しかし今の体制は早晩行き詰まるとしていて(何よりもそれはひとを“幸せ”にしない体制だから)、50年か100年して完全に行き詰まってどうしようもなくなった時に、過去の文献の中から自分の書いたものが再発見され、それが新しい時代を築くためになにがしか資するものとなることを微かに期待しているらしい。福田氏もロレンスについて同じようなことをいっていた。
 「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受けいれようとしないのである。大災害が起り、われわれは廃墟の真っただなかにあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起こったにせよわれわれは生きなければならないのだ。」(「チャタレー夫人の恋人」書き出しの部分) 「チャタレー夫人・・」は1928年に発表されている。ほとんど百年前である。ここでの大災害とはおそらく第一次世界大戦であるが、その後にもう一つの大戦があり、そこでもたくさんの人が死んで、そこから吉田健一という特異な文学者も生まれてきた。「吉田健一は大戦を否定的に批判することも肯定することもしない。それが或る意思によって引き起こされ、確実にあるものを使い切ったという事実を強調するのである。その或るものとは膨大な物資と人命でもあるが、何よりも「人間」を覆い隠していた観念や理念であるだろう。吉田満の「戦艦大和の最後」に触れながら兵士たちの戦いを讃えるとすれば、それは戦争を肯定的に賛美しているのではなく、戦闘の極限状態で希望も絶望もなしにただ沈着に行動するしかないところまで使い切り裸にされた「人間」の姿に対する肯定なのである。そして逆に、そうした使い切られた「現実」を巡って「戦争の残酷」やら「人間の愚かしさ」等々といった観念的弁舌を繰り出そうとする者たち(文化人たち!)に対する抑えられた、しかし激しい怒りを隠さない。我々の眼を覆っていた観念や理念を一掃してくれるために「アメリカは日本を負かしてくれたのに、それだけはアメリカに感謝していいのに」またふたたび別の観念や理念を生み出し始めた者たちに対する冗談めかした、しかし激しい苛立ちと激怒がそこにはある。」(丹生谷貴志氏 同前)
 福田恆存氏に「消費ブームを論ず」という短い文章がある(新潮社版「福田恆存 評論集 6」所収)。山本夏彦氏が「室内」で紹介しているラフガディオ・ハーンが書いた明治30年頃のある女性の生涯について論じたもので、この女性はハーンの家で使っていた奉公人と関係があった実在の女性で、その残した手記をハーンはほとんどそのままただ英文にしたものらしい。そこで紹介されているいかにもつつましい生活について福田氏はいう。「昔はあつたのに今は無くなつたものは落着きであり、昔は無かつたが今はあるものは便利である。昔はあつたのに今は無くなつたものは幸福であり、昔は無かつたが今はあるものは快楽である。幸福といふのは落着きのことであり、快楽とは便利のことであつて、快楽が増大するほど幸福は失はれ、便利が増大すればするほど落着きが失はれる。・・文明とは、自然や物や他人を自分のために利用する機構の完成を目ざすもので、決してそれを丹念に附合ふことを教へるものではない。・・もちろん、今さら昔に戻れない。出来ることは、ただ心掛けを変へることだ。人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。・・」 福田氏が(ハーンが、山本夏彦氏が)紹介している明治30年頃の薄倖な女性の幸福?を江戸末期の庶民の多くは享受していたということが渡辺氏の主張するところである。そして、現在は便利と快楽だけがあって、人や物との付き合いが一切失われた砂漠のような時代だというのである。渡辺氏はロレンスの系譜のひとであると思う。
 それにしても「近代をどう超えるか」という題は、悪名高い座談会「近代の超克」をいやでも想起させてしまう。あの座談会は、「天心のアジア」の気分、すなわち「西洋に対して自分は違和感を持つ」という人たちが集って、一体、自分達が西洋に抱く違和感の正体は本当のところは何なのだろうかということを論じあったものなのだろうと思う。確かに「違和感」はある。しかし、それは言語化しようとしてもいざとなるとなかなかうまく言葉にできないものだったのである。「ドストエフスキーといふ人は近代のロシヤの社会とか、十九世紀のロシヤの時代といふものを表現した人ぢやないのです。寧ろさういふものと戦つて勝つた人なのです。・・西洋の近代は悲劇です。だから立派な悲劇役者はゐるのである。これをあわてて模倣した日本の近代は喜劇ですよ。・・僕らは近代の中にゐて近代の超克といふことを言ふのだけれど、どういふ時代でも時代の一流の人物は皆なその時代を超克しようとする処に、生き甲斐を発見してゐる事は、確かな事と思へる。・・近代の史観といふものを、大ざつぱに言へば歴史の変化に関する理論と言へると思ふのですが、これに対して歴史の不変化に関する理論といふものも可能ではないかと考へるのです。」(小林秀雄) 富山房百科文庫版の「近代の超克」の解題で松本健一氏はいう。「日本近代の行き詰りとは、明治維新以後、西欧近代に倣って急速におしすすめられてきたわが国の近代化(資本主義化・中央集権化・工業化・合理主義化・都市化などをふくむ)が、日露戦争終結ののち大正のなかごろに至って、ほぼ限界に達し、さまざまな局面で破綻をみせはじめた、ということである。」 この「近代の超克」の座談会がおこなわれたのは,大東亜戦争が知識人に与えた衝撃」からだと松本氏はいう。
 問題は、「西洋の近代の悲劇」というようなことを考えるのは一部の知識人たちだけであって、多くの人間は「便利と快楽」を歓迎して「われわれをその末人たらしめよ。そうすれば超人はおまえにゆだねよう」というのではないかということである。「自分たちの貧しい生活を「落ち着いた幸福」などと無責任なことを言ってもらっては困る。ひとはパンのみで生きるのではない。ステーキも食べたいし、おしゃれもしたい。もっと豊かで便利で快適になりたい」というのではないかということである。人類の歴史の大部分は飢えとの戦いであった。ようやくここ何年か、地球の一部の地域では飢えの心配から解放されるようになった。われわれはそれ以上を希むことはできないので、「たましい」などという贅沢をいっているとどこかで足許を掬われるるのかもしれない。とすれば、これはドストエフスキーの「大審問官」の問題なのかもしれない。

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近代の超克 (冨山房百科文庫 23)

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カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

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