「ポストモダンの行方」(「渡辺京二評論集成3「荒野に立つ虹」所収、渡辺京二コレクション[2]民衆論「民衆という幻像」にも所収)

 
 この「ポストモダンの行方」は長崎大学において1988年におこなわれた学生への講演の記録である(後で加筆はされているらしい)。ちくま学芸文庫版で37ページほどの分量の30年近く前におこなれた講演ということになる。とすると、わたくしが40歳過ぎのころで、当時渡辺氏は57歳。そのころはまだ東側もあって、ポストモダン思想も隆盛だったのかもしれない。
 以下、まず氏の論をみていく。
 1)ポストモダンとは、近代を成立させていたパラダイムである合理性・論理性への信頼などの合理主義的世界観、人間中心の考え方(つまりヒューマニズム)、進歩への信頼などが崩れたということを主張する。しかし、近代的な世界観はもともとは19世紀のものであり、それが崩れはじめたのは第一次世界大戦がヨーロッパにあたえた衝撃をきっかけにしてであった。それ以前にも、ニーチェなどの思想家は近代にゆさぶりをかけていた。
 しかし、ポストモダン思想以前の近代批判は、批判しながらも、何かそれに代わる信じうるものを持ちたいという希求を根底にもっていた。近代が崩壊するというのは悲劇的な事態と捉えられていたのである。しかしポストモダン思想は、近代パラダイムの崩壊は解放であるととらえ、そこに自由な空間を見出すのである。それがいままでの近代批判とは異なる。
 2)ポストモダン思想は、その根底に、人間の文化は本質的に恣意的なものであるというアイディアをもっている。それは言語学者ソシュールに由来する。ソシュールは人間は言語を持ったという点において、人間以外の動物とはまったく異なる存在となったとした。言語は対象を分割する(ソシュールの言い方での、あるいはそれを日本に紹介した丸山圭三郎氏のいいかたでの「言分ける」)が、その分割には根拠がない。山や川があるから「山」や「川」という言葉ができるのではなく、「山」や「川」という言葉ができたから、われわれは山や川を見るという考えである。世界をどうみるかは恣意的なものであることになる。実在には根拠がないことになる。とするならば、文化というものもまた恣意的なものであって、何の根拠もないことになる。人間は言語を獲得した時点において、自然とは分離して、恣意性を基礎とする文化の世界にはいることになる。
 3)ポストモダン思想のもう一つの支柱が文化人類学である。文化人類学は異なる諸文化の制度・習俗・生活習慣・道徳はすべて等価であるとする。それらを評価し、優劣を裁断する普遍的価値基準はないとする。これまた相対主義である。
 4)19世紀以降の大思想は人間がある目的あるいは使命を担っていると考えていた。しかし、ネオ・ダーウィニズムによれば、人間の存在もまた偶然の産物である。その偶然の存在である人間がたまたま言語をいうものをもってしまったために、人類の存在意義とか使命とかいった戯言を生み出すことになった。これが人間を抑圧している、とポストモダン思想はする。。
 5)ポストモダニストも近代パラダイムが解放と自由を追求して来たことを認めないということではない。それは前近代的な規範を解体することはした。しかし今度は別に、新たな強迫的な見方である歴史主義、近代ヒューマニズム進歩主義といったものを生み出してしまった、とする。
 なぜそうなってしまうのか? 人類に何か目的があるする思考が問題で、そこから不自由と抑圧が生じてくるとポストモダン思想は考える。しかし、宇宙には何の目的もない。人間が存在していることにも何の意味もない。そう思えるようになることで、人間は自由で能動的になれる、そうポストモダン思想はいう。
 それに対して渡辺氏はどう考えるのか?
 a)ポストモダンとはモダンを否定してると主張するが、実は、モダンの最終局面、あるいはモダンの頂点なのである。
 b)現代は18世紀の啓蒙思想家由来の反規範・反伝統・反抑圧・一切の価値の解体という運動がいきづまりをむかえている時代である。18世紀啓蒙の頂点にポストモダンの運動があるのであるから、それもモダンの一部である。
 c)18世紀の啓蒙思想も19世紀の自由思想も、人間を拘束してきた様々なもの、たとえば、伝統的な人間理解や世界理解をのりこえようとしてきたが、その時の武器は「合理性にもとづく知的懐疑」であり、その基準にある思想は「個人の解放」であった。かれらの最大の価値が個人の自由であるということは、彼らが近代主義の正統のなかにいることをなによりもよく示している。
 d)モダンは宗教的な物語、「神」を解体しようとしたが、それに代わる新しい物語も必要とした。それがヘーゲルからマルクスにいたる歴史弁証法であり、ホッブスからルソーをへてミルにいたる市民的政治思想である。
 e)ポストモダニストが目指すものが、自由の擁護、個人の権利の主張、国家的諸制度に対する市民主義的抵抗、フェミニズム、マイノリティ擁護、コスモポリタニズムへの傾斜などであることを見れば、かれらが素朴な近代的価値の信奉者であることは明らかである。
 f)かれらの自由浮動の正当化は80年代以降の高度消費文明ときわめて整合的である。
 ここから議論は資本主義論にうつる。
 A)自分は若いときに共産主義的理想主義にとらわれていた。しかし、今になって見えてくるものがある。
 B)資本家が労働者を搾取する制度であるというのは資本主義の初期段階だけのことであった。資本制とは(市場主義的経済とは)、かっては王侯貴族に限られていた奢侈的消費を万人に可能にするシステムだったのだ。しかし、そこでは消費はすべて商品のかたちをとり、人間自身も商品にならねばならないのだが。
 C)日本の社会主義者労働組合指導者、あるいはマスクス主義者が何を言っていたか? わが国の労働者もアメリカの労働者のように各人一台の車を持てるようにせよ! 一軒の持ち家を与えよ! 一台のテレビを! 電気冷蔵庫を!、電気掃除機を! ではなかったか? それを可能にする所得を与えよ!ではなかったか? 家族がいつでも病院にいけて、子供が最高学府までの教育を受けられるような賃金を与えよ!であったのではないか? しかし彼らははそんなことは資本制の体制下ではできないことであると考えていた。だからこそ社会主義革命を希求した。しかし、現在の高度資本主義諸国の現状と、社会主義諸国の現状をみれば、答えはでているではないか? 高い所得と高度の消費を可能にしたのは資本主義のほうだったのだ。
 自分がそのことに気づいたのは1960年代の終わりだった。その頃、公害で日本はこれから地獄になると信じていたひとに、そんなことはない「この国はまことに結構でしあわせな国になるでしょう」と言ったが通じなかった。
 自分は少年のころからマルクスの思想は「類的存在としての人間の実現をめざすもの、人間のあいだに真の共同のきずなを樹立しようとするものと考えていた。貧困とか弱者の救済などは社会主義より資本主義のほうが解決能力を持っていると思っていた。そのころに水俣病患者にコミットすることになるが、「支援者」の99%と「運動」にかけるものが違っていた。
 しかし「結構でしあわせ」ということについて20年前の自分は「豊かな社会」であってもそれはアノミーをおこすだろうという程度の認識だった。最近ではウォーラーステインらの業績で資本主義という世界システムは16世紀にはじまるという説が有力になってきている。アジアの産物(スパイス、胡椒、金銀、宝石)がヨーロッパを誘惑した。アジアとの交易がヨーロッパを富ませた。商品が人びとの生活を豊かにし、レベルアップさせるという近代の原点がここにある。それはわれわれを豊かにはしたが。人間と土地というもっとも商品化になじまないものを商品としてしまった。それには当然大きな反抗がおきる。カール・ポランニーはそれを「自己調整市場という悪魔の挽き臼に対する「社会防衛運動」」と呼んだ。しかし、それでも資本制はその矛盾や危機を何とかのりきってきた。それは資本制が消費者大衆に生活向上をもたらしたからである。
 一切が商品として現れる社会を「商品集中社会」という概念で批判したのが、イヴァン・イリイチである。彼は一時はエコロジー派から歓迎されたけれども、前近代への退化の主張ではないかという批判は消えなかった。彼も資本制的産業も分業も否定はしていない。かれが主張したのは、商品に一切を依存することによって生じる人間の自由・自主性の喪失であった。この自由。自主という概念は、しかし、近代論者のものとはまったく異なる。それは「実在としての世界と相互に浸透しあい、交感・交響しうる個の能力」のことなのである。その自由は、風土をともにする仲間との共同のうちにしか具現しない。
 イリイチはヴァナキュラーということをいう。土着的あるいは風土的というようなことであるが、人間が土地であれ海であれ、自然という肉感的具象的実在と関わって一定の地域的・集団的生活を織りなし、生命ある実在と交感・交響する中で、自己の自主的な生産=消費の全活動を、ほかならぬ個の自由のあかし、自分がこの地上に生を享けて来たことの意味の実現として了解できるような、そのような存在のしかたなのである。
 これは近代論者の立場から見れば、途方もない戯言であろう。しかしそうでないことを明示しているのが、石牟礼道子の「椿の海の記」である。みなさんも一読されんことを。農業や漁業は森羅万象との心身両面での交渉である。洗濯や炊事も同様で育児も同様であるということは読めば了解される。そういう生活を解体させてしまったのが、資本の運動なのである。
 自分は今でも抜きがたいへーゲルの使徒であることを自覚している。その止揚という着想を捨てられない。新しい時代によって滅ぼされた古い時代は、来たるべきさらに新しい時代のうちに次元を高めて甦るという思っている。近代という時代に滅ぼされた前近代との対立を止揚するものが近代の後にくる新しい時代でなければならない。前近代の神話的・コスモス的世界観をも甦らせながら、近代の切り開いた知と市民的自由を確保するものでなければならない。
 マスクスは近代主義者であったので、コスモスへの自覚はなかった。自己と他者を媒介するより大いなる存在に気付けなかった。
 人間が他者と共存できたのは、自分と他人をつなぐより大きな存在、つまり森羅万象があったからである。そういうものなしにはドライな社会契約ではない真の魂の関係は生まれない。
 このようなコスモスを近代は完全にうち滅ぼしてしまった。それゆえに、市民的連帯とか民族的共感とか、階級的団結などがいわれるようになった。しかし背景にコスモスとの交感がなければ、人間同士は根本的な相互不信を払拭できないから、利害と欲求の功利的調整のみの世界になってしまう。
 だから、近代人の最大の関心が金と健康となってしっている。しかし、そうであるなら死ねばすべてが終わりである。死を前にすると現代人は虚無に直面せざるをえなくなる。しかし江戸末期に日本にきた外国人は当時の日本人が従容として死についていくことを驚きをもって報告している。アリエスも中世の西欧人も同様であったとする。彼らにはコスモスがあったのである。ポストモダンとは、このようなコスモス的な世界理解を根拠のない盲信として解体していこうという運動である。
 実存世界をどのように認識するかは、生物の種によってそれぞれ異なる(ユスキュキュルの環境世界)。人間は言語を持つ点で特異であるとポストモダニストはいう。しかし言語もまた生物進化、もっといえば地球進化の産物である。サルもまた精神を病むし、発達した脳を持ち、集団で生活し、政治をおこなう。人間は自然と隔てられた本能を失った特異な動物だという主張は、裏返しにされた人間至上主義なのである。
 
 この講演は相当前におこなわれているから、今でもここでの見方を渡辺氏が保持しているか否かはわからない。けれども、これを読んでの感想は、リアルな部分と空想的で観念的な部分の混在である。
 ポストモダンの思潮は現在では低調になっていると感じるが、今から思うと市場経済体制の盛衰と関連したことは間違いないように思う。バブルの頃には、今とは違ってフリーターというのが格好のいい労働形態であるとされていたことがあるように思う。フルタイムにあくせく働くなどというのはダサい生き方であって、必要になった時だけちょっと働くのが格好いい生き方であるなどということもいわれていた。浅田彰氏の「逃走論」などというのもそういう流れのなかのものだったのではないだろうか? それが1990年以降、失われた10年、20年といわれるようになると、強い正社員志向となってきた。それを考えると「フリーター」などという言葉を作って、正社員ではない生き方を煽ったのは資本の側の深慮遠謀であったのかもしれない。フリーターというのは和製英語で、フリーアルバイター(アルバイトはドイツ語であるが)からきていて、1985年ごろから使われだした。イメージは坂本竜馬!なのだそうである(脱藩して自分の夢に生きた人!)。それを縮めてフリーターとしたのはリクルートのアルバイト情報誌「フロムエー」だったらしい。アルバイトでも生活でき、いざとなればいつでも正社員になれるという人手不足の時代だった。その当時、学校を出ても就職せず、フリーターでいて、1990年以降のバブル崩壊後に、正社員にでもなりましょうと思ったらなれずにあわてたひとも多かったらしい。ポストモダン思想というのはバブルの徒花だったという可能性はあると思う。
 一方、わたくしがポストモダン思想にはじめて接したのは、後知恵でいえば、科学哲学を通してであったと思う。主として村上陽一郎さんの本によってであるが、「パラダイム」とか「聖俗革命」といった話にわくわくした。歴史は直線的に前に進むのではなく、ただ入れ替わるのであるという見方を本当におもしろいと感じた。
 西欧社会の安定を徹底的に破壊したのが第一次世界大戦であったことは多くのひとがみとめるのではないかと思うが、それにより、渡辺氏のいうように近代を成立させていた合理性・論理性への信頼といったパラダイム、合理主義的世界観、人間中心の考え方すなわちヒューマニズム、進歩への信頼が崩れた。19世紀がそこで終わったのである。ツヴァイクの「昨日の世界」などを読むと、それは自分がふみしめていた大地がいきなり消失したような不安をもたらしたらしい。本書での渡辺氏の言い方を用いれば「コスモス」が消失してしまった。ツヴァイクユダヤ人であるから故郷をもたないわけであるが、ウィーンが故郷になりえていたわけである。それが最後はブラジルに流れてデラシネとして死ぬことになる。ツヴァイクには19世紀がコスモスだった。
 しかし19世紀を桎梏ととらえる人もまたいた。たとえばニーチェである。またブルームズベリーグループは20世紀の活動であろうが、19世紀的なヴィクトリア朝的偽善に反抗したわけである。そしてブルームズベリーに反抗したものとして、D・H・ロレンスがいる。反=近代といっても様々なタイプがあるわけである。
 そうではあるが、近代パラダイムの崩壊を解放ととらえという点で、ポストモダンの思想は特異であると渡辺氏はいう。
 ポストモダンの思想の源流として言語学者ソシュールがいるという説はよくきくが、わたくしはソシュール丸山圭三郎氏の本を通じて知った。そして、その頃人気であった岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」(1978年)での「人間は本能のこわれた動物」説とも通じるところがあると感じていた。岸田氏は伊丹十三氏と一緒に一緒に雑誌などを出していたが、伊丹氏のそのころしていた育児論なども今から思うとポストモダンの流れの中だったのだろうか? 丸山氏の「文化記号学の可能性」は1983年である。その「ホモ=デメンツ」説は「本能がこわれた動物」と同じことをいっていると思っていた。丸山氏のいう「言分ける」「身わける」という話を説得的と思って読んでいた。言語の恣意性というのは分類ということをこころみる場合には常に問題になることで、言語を用いた分類などということを人間以外の動物はしないので、その点から人間と人間以外の動物を区別する方向がでてくることは理解できる。
 ユクスキュルの環境世界の話も「生物からみた世界」でのダニの世界など、世界は見えるのではなく見るのであるという説を補強するものとして、ソシュールに通じるものと感じていた。世界が客観的なものとして存在するのではなく、それぞれの動物にとって主観的に感じとられる世界があるということである。(ついでにいえば、ポパーの「バケツとサーチライト」理論というのも、これとかかわらないだろうか? われわれは世界について受け身なのではなく、問題意識をもって問いかける存在であるという方向の議論・・。ポパーによれば生物がおこす変異というのは、外界への問いかけなのである。こちらのほうがもっとうまく世界に適合できるということはないか? だから、生物は問題解決体である。しかし人間の場合は積極的に問題を外界に発見する。しかし、われわれがその問題に対して提出する答えが正しいか否かはやってみなければわからない。できることは試行錯誤である。だから、未来は開かれている。未来はわからない。これは渡辺氏の議論、どこかに歴史の方向性をみる見方と対照的であると思う。)
 文化人類学もまた文化の相対性をいう。科学哲学などのが歴史の流れの中で、共約不可能性をいうのに対して、地理的な違いでの共約不可能性の主張なのであろう。
 これらがみな相対性をいい恣意性をいうのは、それが想定する共通の敵が「絶対性」と「客観性」であるからである。つまり科学的世界観であり、数字で幸福の程度が計れるとするような功利主義である。そこでは「外部」に真実があって、「自分」はどこにもいない。
 19世紀以降の大思想が人間はある目的なり使命なりを担っていると考えたのは、それ以前の「西欧」の思想の真ん中に「神」がいたからで、ダーウィンの思想が西欧において何よりも問題だったのは、それが「神」なしに人間の存在を説明できることだった。そうであるとすると「神」はニーチェが殺さなくてもどこかにいなくなってしまい、「人類の存在意義とか使命」とかいったことも消え、人間が神から与えられたとされてた「倫理」とか「道徳」とかも根拠を失うことになった。
 この「倫理」とか「道徳」とかが人間を人間たらしめているとみるか、人間を抑圧していると見るかで議論の方向がまったく違ってくるわけである。後者がポストモダン思想なのであり、「倫理」とか「道徳」とかの強迫観念から解放されることによって、われわれは「自由」になれるとするわけである。
 「宇宙には何の目的もない。人間が存在していることへのアプリオリな意味付けもない」というのは、進化を受け入れることとほとんど同義ではないかと思うのだが(「人間はかつてそのなかから偶然によって出現してきた〈宇宙〉という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれてはいない。彼は独力で〈王国〉と暗黒の奈落とのいずれかを選ばなければならない。」(ジャック・モノー「偶然と必然」))、そうではないとするところから渡辺氏の特異な論がでてくる。
 ポストモダンを、モダンを否定するものとみるかモダンの最終局面であるとみるかは半分は言葉の遊びのようなもので重大な問題ではないと思う。18世紀の啓蒙思想や19世紀の自由思想が根拠にしたのが「合理性」であり、そこで求めたものが「個人の自由」であったとするらなば、それが敵としたものはキリスト教である。新しい物語がヘーゲルからマルクスにいたる歴史弁証法であったとすれば、それは歴史が神の代替物になったということであり、ホッブスからルソーをへてミルにいたる市民的政治思想は、それぞれが考える人間の本性から、はたして神なしで社会を構築しうるかという思考実験であった。
 ポストモダニストは明らかに個人の側に立ち、国家を個人を抑圧してくると思うものの側に立つが、それはかれらが素朴な近代的価値の信奉者であるというよりも、国家はもやは重いものである必要はなくなり、警察機能の方面などで個人を最低限守ってくれることだけを期待する程度の軽いものとなったと感じられるようになったからであると思う。とすれば、80年代以降の高度消費文明と整合的なのは当然である。
 問題は高度消費文明は持続することが可能な文明なのかということであろう。20世紀末にはそれが可能であると信じられていただ、21世紀にはいると、段々それが信じられなくなってきているということではないだろうか? ポストモダンの隆盛は、その説自体の評価によってではなく、高度成長からバブルの時期では意味あるものに、失われた10年以降はお遊びのようにに見えてきているというだけのことなのではないだろうか?
 渡辺氏は、マルクスがいった「資本家が労働者を搾取する制度である」が適合するのは資本主義の初期段階だけのことであったという。そうではなく、資本制=市場主義的経済とは、かっては王侯貴族のみに限られていた奢侈的消費を万人に可能にするシステムだったのだ、という。ひょっとするとわれわれは18世紀の王侯貴族よりもいい生活をしているのかもしれない。ヴェルサイユ宮殿にはトイレもなかったらしい。わたくしが小さな頃は、空調などというものはなく、冬は炬燵、夏はせいぜい扇風機であった。蚊帳というのがわかるのはどの世代までだろうか? 氷屋さんというのがいて、夏は氷を売りにきた。冷蔵庫は氷冷式だった。そうであるなら、そういう生活がどんどんと便利で快適になっていくならば、消費がすべて商品のかたちをとり、人間自身も商品になることくらいは甘受する人も多いのではないだろうか? 日本の(世界中の?)社会主義者労働組合指導者はそんな生活レベルの向上は資本主義体制ではできないと思っていた。だからこそ革命を追求した。しかし、現実には東側の生活レベルは低いままで、西側には離される一方だった。そして、いつの間にか東側の社会主義圏は崩壊していて、向坂逸郎氏などが天国だと思っていたらしいソ連もなくなってしまった。
 高い所得と高度の消費を可能にしたのは資本主義のほうだった。おそらく高い所得と高度の消費ばかりでなく、社会インフラの整備や個人の権利の尊重もまた然りであろう。高い所得と高度の消費ばかりを強調する渡辺氏は後者のほうはあまり評価していないように見える点が少し気になるところである。
 渡辺氏は1960年代の終わりにはそのことに気がつていたという。吉本隆明コム・デ・ギャルソンのCM?に出たのは1984年だったか? それにくらべれば、随分と早いし、先見の明であるが、氏は反帝・反スタの路線からそちらにいったのであろうか? そのあたりがよくわからない。
 さらにわからないのが、渡辺氏は「少年のころからマルクスの思想は「類的存在としての人間の実現をめざすもの、人間のあいだに真の共同のきずなを樹立しようとするもの」と考えていた」のだというあたりである。早熟としかいいようがないが、少年の頃から「類的存在」とか「共同性のきずな」などということを本当に考えていたのだろうか? 何となく後知恵で修飾されているように思える。わたくしなどには「類的存在」などというのは生活実感の裏づけの一切ない観念論の極致のように思えるのだが。
 人間と土地というもっとも商品化になじまないものを商品としてしまった」と氏はいうのだが、商売というもの自体は16世紀を待たずとも、人間が農業をはじめて余剰というものを持った時点からはじまっているはずである。
 資本制が多々問題を持ったシステムであることは論をまたないが、それでも、資本制が消費者大衆に生活向上をもたらしたからであることを渡辺氏はみとめ、そしてそのことを肯定するのであるのであるが、ポラーニなどの市場経済批判にも賛同している。この辺りがわかりにくい。
 そして、渡辺が一番依拠していると思われるイリイチになると、いきなり詩になってしまうように感じる。「実在」「交感」「交響」「共同」、これらは詩語ではないだろうか? 言葉が浮遊していて、腑に落ちてこない。だから「ヴァナキュラー」といった日本語になっていない言葉を用いざるをえなくなる。「土着的」とか「風土的」では誰もついてこないからだろうが、そもそも渡辺氏が感じ取っているのもそれとは土着や風土とはまったく違うものなのである。「肉感的具象的実在」とか「生命ある実在と交感・交響」とか「この地上に生を享けて来たことの意味の実現とか了解」とか渡辺氏にはわかっているのであろうが、それをうまく表現できないことにいらだっているのかもしれない。だから石牟礼道子の「椿の海の記」を読んでくれということにもなるのだと思う。
 この辺りを読むと、渡辺氏には大変失礼なのだが、伊丹十三氏の「「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」に収められた村上節子氏(のちの某評論家の奥さん?)との抱腹絶倒の対談「性感論的女性論」を思い出してしまう。そこで村上氏は「円地文子さんの「彩霧」って小説ではね、女の性は、男を道具にして神と交合するっていうの。女から見ると性感を象徴的にいうとそうなるのね。性は女が神と交合するための儀式で・・セックスの中で、女は際限もなく拡散していって、自分も相手も一切が見えなくなって漂っているような時、神っていってもいいなにかに出会うような時間がある」などということをいい、伊丹氏は「どうも、とてもついてゆけない話ね、それは。なんで神がでてくのかね」と答える。この辺りの渡辺氏の論、わたくしにはお経みたいで、伝わってくるものがない。
 「農業や漁業は森羅万象との心身両面での交渉」であるといい、家事もまた同じで、そういう森羅万象との交流のある生活を解体させてしまったのが、資本の運動なのである、という。生活の向上は歓迎するが、それでもその生活は不幸なのだというのはわかりにくい。そこで氏が持ち出すのがへーゲルの「止揚」なのである。最近「止揚」などという言葉はまず聞かない。だが氏は「前近代の神話的・コスモス的世界観と、近代の切り開いた知と市民的自由が両立した時代」が前近代と近代を止揚したものとして、新しい時代としてくることを望むのである。そうでなければわれわれの生は虚しいではないか、と。次の時代には、「自分と他人をつなぐより大きな存在」である「森羅万象」がよみがえり、「ドライな社会契約ではない魂の関係」が生まれ、「コスモス」が再現するのだという。しかも、そうなることは進化というわれわれを今のようにさせた力が、その力によってそうさせるというのである。なんだか、マルクスの下部構造の議論を想起させる。生産力が増大していくと、必然的に資本制を中から打ち壊し、新しい体制が出来上がってくるという論法である。
 吉川洋氏の「高度成長」に、兼重芳子氏の「洗濯機は神サマだった」という文章が引用されている。「一生のうちで最も忘れられない感動は、電気洗濯機を使ったときだった。・・私はあのときのことを思い出すと今でも血が騒ぐ。・・月賦で買った洗濯機が届いた。ほんとうに感動してただ呆然と立ち尽くした。洗濯機の中をいつまでものぞきこみ、機械ががたがた廻りながら私の代わりに洗濯してくれるのを、手を合わせて拝みたくなった。こんなぜいたくをしてお天道さんの罰が当たらないかと、わが身をつねって飛びあがった。・・絞り機に御神酒上げたくなった。」 念のために注すれば、最初期の洗濯機は絞り機というので絞って乾燥というか水切りをしていた。手で洗わずに機械にそれをやらせることはコスモスとの関わりを失わせることだといった理屈はあるかもしれないし、あるいはそれは本当なのかもしれない。だから、兼重氏がこのようなことを書くのは、資本制にスポイルされているからなのかもしれない(「手を合わせて拝む」とか「御神酒を上げる」とか、何より「神サマ」だから、氏はコスモス的感覚を濃厚に残しているひとであると思うが)。しかし、洗濯機以前の手で洗う洗濯というのはとんでもない肉体労働だったらしいのである。現在でも途上国では水汲みというのが子供と女性の重要な仕事の一つになっている。そういうものから逃れたいという欲求が資本制を支えてきた。だが、かつての三種の神器(たしかテレビと洗濯機と冷蔵庫)への欲求に比肩できるような欲求をもたせる商品はもはや存在しない。とすれば、日本の経済成長が停滞するのは当然なのであろう。「Human use of human beings 」というのはウィナーの「サイバネティックス」の原題だったと思う。機械でできることを人間にさせるというのは、あまり「人間の人間的な使い方」ではないかもしれないのである。
 もちろん、コスモスを見る人がいるのは間違いない事実である。例えば、D・H・ロレンスである。小川和夫氏の「無意識の幻想」の解説から引く。「火をおこすにしても、床をみがくにしても、ぼくたちは、なにかほかに本当の生活があるのであって、いまやっている仕事はかりそめの営みに過ぎないと、無意識のうちに考えながら手を動かしているのである。それはぼくたちの表情に表れれる荒涼たるあるものによって証明されるだろう。・・ぼくたちは仕事に没入し得ないために無為にも安んじ得ないのである。/ そしてロレンスは、こういう現代知識階級の不幸をよく承知していた。晩年の詩集「三色菫」のなかで彼はうたっている― ひとを夢中にさせる遊戯のように/ 仕事がきみを夢中にさせないならば/ 仕事をしたってなにもならない・・・・ひとが仕事に入りこむとき/ 彼は生きている、春の木のように、/ 彼は生きているのだ、単に仕事をしているのではなく。(仕事) / つまり、ロレンスという人は、仕事に、それがどんなに品がわるくみえようが、つまらぬものと他人に思われようが、そんなことはいっこうに無関心で夢中になり得る才能をもっていたばかりでなく、そのような才能を失ってしまったことが、多くの現代人を生きながら死なしめていることをよく承知していたのだ。/ この二重性が彼を解明する基本的な鍵であるように思われる。前者の性質、つまり、自意識から解き放たれて眼前の対象に没入しうるという能力、百姓や職人のあいだにわずかにのこっている能力が、高度の理知や洞察力と共存していたということが、ロレンスの複雑さと魅力を生むもとになっているのであり、また彼を卓越した批判者としているのであり、そして最後には彼をきわめて特殊な悲劇的人間としているのである。」 ここで小川氏がいう「ぼくたちの表情に表れる荒涼たるあるもの」とか「多くの現代人を生きながら死なしめている」というのが、渡辺氏のいう「実在としての世界と相互に浸透しあい、交感・交響しうる個の能力」を喪失した現代の人間の不幸なのである。
 「いまやっている仕事はかりそめの営みに過ぎない」というのは現在にいないということである。コスモスと交響できる人間は現在にいるが、コスモスを喪失すると現在に生きることができなくなる、と渡辺氏はいう。私見によれば、コスモスなどというものを一切持ち出さずに「現在に生きる」という方向を探るのが吉田健一の晩年の試みだったのだ、と思う。「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのでなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。・・我々が自分を生きてゐると感じる時には現在の状態にある。また有効に仕事をするのも或る人間をその人間と認めるのも或は単に或る景色に見入るのも現在の状態にあつてなのでこれは我々にとつてさう得難い経験ではない。」(「時間」) 精神科医の計見一雄氏はこれを引用して、子供が夢中になって遊んでいる時、芸術家が創造に打ち込んでいる時、友達同士が話し込んで、夜の更けるのも忘れて気がついたら空が白みかけていたという時などに、われわれはそれを経験できるという。私見によればこれを一番簡単に実現できるのは本でも読みながら静かに酒を呑んでいる時で、さらに私見によれば、人間以外の動物はみなここで吉田氏が描いた時間を生きているだから、吉田氏の主張したことも、人間もただの動物に帰ろうではないかということだったのだと思う。人間は言葉を持ってしまったために現在にいることがとても困難になっている(「急いで下さい。時間ですから。」(エリオット「荒地」) 計見氏によれば吉田氏の描いた時間と対極の時間意識を持っているのが統合失調症の患者なのだという。丹生谷貴志氏は中井久夫氏が示している統合失調症患者が発症直前にごく短時間持つ静謐の時間と吉田健一が「時間」で示している時間の同質性を指摘している。明らかに吉田氏は現代が持つ病を克服する生き方を模索していたのである。人間もまた一個の動物でありながら、言葉をすてることなく、動物に帰るにはどうしたらいいのか、それが吉田氏の探求したことだったと思う。渡辺氏の持つ問題意識と吉田氏の持つ問題意識はそれほど違ったものではないと思う。
 「高度成長」の「はじめに」では。ちょっと驚くことに、吉田健一の文章が紹介されている。「今の東京と昔の東京といふやうにその優劣が余りに明かである時は昔の東京がよかつたといふのが必ずしも懐古の情だけからで言つてゐるのではないとも考へられる。昔の東京の方が文明の町で今日の東京よりも遙かによかつたのは間違ひないことであらう。併しもう一つこの昔はよかつたといふ見方にはそれと比べて現在は駄目だといふ一種の無差別の否定が含まれてゐて・・」 吉田氏は現在の東京が駄目なのはまだわれわれが東京に地つきの人間になれていないからなのであるといった。だから今は駄目でも、もう少し長く住んでいれば、今の東京も文明の地になるかもしれないというのである。我々は今「本気にすることが出来ない都会」(エリオット「荒地」)に生きているという点では、両者は共通の認識のもとにいくのかもしれない。
 小川氏はロレンスの二重性ということをいう。「自意識から解き放たれて眼前の対象に没入しうる」能力(百姓や職人のあいだにわずかにのこっている能力)と、「高度の理知や洞察力」との共存。このロレンスの二重性が、渡辺氏の場合は石牟礼氏との二人三脚になっているのかもしれない。前者は石牟礼氏、後者は渡辺氏。渡辺氏によると石牟礼氏は「宮沢賢治の童話を少し読んだくらいで、日本文学も世界文学も読んでいない」のだそうである。世界文学読みまくりの渡辺氏と好対照である。「にもかかわらず、彼女は近代人なんですね。他人から断ち切られている」と渡辺氏はいうのだが、そうでなければ文学の方にくることはなかっただろうが、それでも近代人の部分は小さく「中世的な宇宙観」の方がずっと大きいはずである。渡辺氏の「無名の人生」によれば「石牟礼氏は、40代までイギリスが島国であることを知らず、マニラにいった時にマニラを真珠湾だと思い違いをしていたそうである。どう考えても知識人ではない。一方、渡辺氏は石牟礼氏に深く共鳴するのであるから「自意識から解き放たれて眼前の対象に没入しうる」能力を知識人としては例外的に大きくもっているのであろうが、それでも「高度の理知や洞察力」のほうが勝っているはずである。その二人が合わさるとロレンスの二重性と同様のものが生まれてくるのではないだろうか?
 同じ「高度成長」には高度成長以前の日本の生活をしめす写真が多数掲載されているが、たとえば「学生結婚」という写真(1947年)では奥さんが割烹着をきて(これは小保方さんで復活した)、縁側で七厘を団扇であおぎながらお釜で米を炊いている。縁側はまだわかるひとがいるかもしれないが、七厘はわかるひとがどれくらいいるだろう。電気釜などというものはないのである。また、渋谷駅前ハチ公前広場の写真(1950年?)のなんとも何もないこと。広告の看板はすべて手書きである。京王帝都電鉄 井の頭線 渋谷駅という看板の小さなこと。わたくしが小学校のころ井の頭線の沿線はまだ一面の田圃で、小川でザリガニがとれたものだった。
 「江戸末期の日本人」とか「中世の西欧人」は今の人間よりももっと従容として死に望んだのだと渡辺氏はいうのだが、それは単に失うものがあまりなかったというだけと思うひともあるかと思う。
 人間もその言語もまた生物進化、地球進化の産物であり、それがわれわれのコスモス感覚の根拠であると渡辺氏はいうのだが、この説明は苦しいと感じる。進化論に対する批判に、もし進化論を認めるならば、現在が最善ということになってしまうではないかというものがある。渡辺氏の説明はそれに近いと思う。ほとんど「神」のかわりに「進化」を代入しているだけのように感じる。
 「類的存在としての人間」という渡辺氏の言い方には、一つのまとまった存在としての人間という見地がその背景にあるように思う。氏はローレンツの論に共鳴しているというが、ローレンツは一つのまとまった存在としての人類というものに淘汰の圧がかかると考えていた。これは現在の正統の生物学が否定しているところであるが、その正統の科学を「極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形」などという言い方でまともに検討しないで否定しているように見えるのは問題であると思う。日高敏隆氏はローレンツについてその一番の問題点は、(西洋人に共通したことかもしれないが)人間の優越性という感覚とそれに対応すべき道徳感がローレンツの念頭から消えていないことだとしていた。ナオダーウィニズムは人間をまったく一個の動物とみようという立場である。それは戯画化でも何でもなく、生物学であるならばそうでなければならないのである。しかし渡辺氏は人間の優越という見方をどうしても否定できないところがある人であるように感じる。進化をみとめるということはわれわれ人間も動物であるとみとめることで、理性だとか道徳だとか倫理だとかを持ち出すと、裏から「神様」がいつのまにか戻ってきてしまうと思う。まさか渡辺氏のいう止揚が、前近代の「神」(正)と近代の「理性」(反)との高い次元での統合といった方向ではないと思うのだが・・。
 わたくしがなぜ渡辺氏の書くものに関心があるのかといえば、自分の関心をもつ領域と渡辺氏の生きかたとどこかにかさらる部分が多いからなのだろうと思う。
 一番、基本のところでは、渡辺氏は「反=近代」のひとなのだろうと思う。「近代をどう超えるか」「日本近代の逆説」「近代の呪い」というような本を出すひとである。しかし、いわゆるポストモダン思想には渡辺氏は冷淡である。それはポストモダン思想が近代の発想の根っこをそのまま引きずっていて、根源的な近代批判ができていないと感じているからである。
 わたくしは吉田健一信者なのだけれども、その吉田氏の「ヨオロツパの世紀末」をはじめて読んだ時、こういう見方もあるのだとびっくりした。そこで否定されていたのは19世紀ヨーロッパだった。19世紀ヨーロッパ=近代とはいえないとしても、やはりこの本も反=近代の列に連なるものだと思う。(後になって気がつくと、ここでの吉田氏の議論はブルームズベリー・グループの一員であったストレイチーの論に多くを負っていた。ブルームズベリー・グループも19世紀ヨーロッパの偽善を嫌ったやはり反近代の人たちだった。)
 今まで、読んだなかで一番説得的であった吉田健一論は「吉田健一頌」に収められた丹生谷貴志氏のものであるが(篠田一士氏とか丸谷才一氏、あるいは長谷川郁夫氏のなどの吉田健一論などの、吉田氏を大人の文学者、訳知りの安心立命の境地にいたった文明人といった方向の議論には今ひとつ納得できないものを感じる)、丹生谷氏の専門はドゥルーズであるはずで、ドゥルーズポストモダンのスターの一人だったはずである。ポストモダン陣営の本はみな難しく何が書いてあるのかさっぱりわからないが(ドゥルーズガタリの「千のプラトー」とか「資本主義と分裂病」などという本がベストセラーになったというのはいまとなっては信じられない話である。リゾームがどうとかという話が流行していたことがあった)、それでも何となくポストモダンの人たちはヨーロッパ啓蒙思想をどこかで引き継いでいるひとなのではないかというような直感があって、難解の奥には無内容しかないというばかりではないように思っている。昔どこかで聞いた言葉を使えば「最低の鞍部で乗りこえる」ことをしないほうがいいかもしれないということである。ポスト・モダン思想を理解するための補助線として吉田健一が使えるということがひょっとしてあるかもしれない。
 最初にいかれた思想家である福田恆存はD・H・ロレンスを教祖にしたひとで、最後にはT・S・エリオットの周辺に至ったのかと思う。渡辺氏の「コスモス」云々の議論を読んでいると昔、福田氏の本のどこかで読んだことをしばしば想起する。
 もう一人、福田氏とならんでいかれた三島由紀夫もどう考えても最終的には反近代の人だった。死ぬ少し前、確か武田泰淳との対談で、デパートで家具を選んでいる家族などを見ると吐き気がするというようなことを言っていた。渡辺氏がいう資本制がもたらした現代人の心の荒廃という議論をみると、どういうわけかこの三島の言葉を思い出す。檄文の「戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」も「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」も同じである。「魂」をいうひとは資本制やグローバリズムを嫌うようになるらしい。グローバリズムに対抗するものとしての「天皇」。
 科学哲学もまた、19世紀ヨーロッパの覇権の原動力となった科学あるいは技術を相対化するという視点をふくんでいると思う。村上陽一郎氏の「近代科学と聖俗革命」の書き出しが「17世紀は偉大な時代であった。」である。そして最後の結論部分は、「われわれが乗り超えなければならないのは、いわゆる「西欧近代科学」なのではなく、西欧近代科学を対する近代主義的=啓蒙主義的解釈なのだ・・本当の「西欧近代科学」とは、実は、もっとずっと豊富な可能性を秘めており、そういう近代主義的=啓蒙主義的な解釈を乗り越える手だてさえも、自らのなかに、充分内包しているとも言えるのである」である。ここで近代主義的=啓蒙主義的解釈といわれているものが、19世紀の科学技術なのである。ここでもヨーロッパを19世紀に代表させないという見方がある。
 わたくしは哲学という学へのレセプターを欠いているらしく、ほとんどの哲学者の本がちんぷんかんぷんなのであるが、唯一少し理解できたように思えるのがポパーで(哲学の世界ではポパーは哲学者とは扱われていないかもしれないが)、ポパーはヨーロッパ啓蒙の嫡子を自認している。わたくしはポパーを読むまで啓蒙思想というのは何もかもが解った賢者が何も知らない愚者に教えをたれる、偉そうで不愉快な思想であると思っていたのだが(百科全書派)、ポパーが「啓蒙思想とはわれわれは何も知らないという自覚の表明」であるとしているのを読んで驚いた。この何も知らないとか何も知ることができないという発想は、しばしば不可知論や相対主義とそれに関連するシニシズムに陥るわけであるが、ポパーはそれに対して、われわれはそれと知ることはできないけれども、それでは真理は存在するという考えで対抗しようとする。真理が存在しないのであれば、すべては相対的で、各人が言いたい放題の世界になるが、真理が存在するのであれば、それに少しでも接近していこうという構えによってそれを克服できるとするという。渡辺氏はポストモダン思想は西洋の真理概念への信仰を失っている点でシニックに陥るとしていて、その真理とほとんど同じものとして「進化」を出してくる。われわれは進化の産物である。その一方はわれわれは斯く斯く然々の性質を持っているという事実がある。そうであるならこの事実は進化の産物であるという点で、相対的なものではなく、絶対のものである、という方向の議論である。ポパーもまた進化論に与するのであるが、それは未来が不確定なものであることを保証するものとしてなのである。それがわれわれの自由を担保する。
 ドーキンスは「神は妄想である」のなかの「道徳の起源―なぜ私たちは善良なのか?」で、われわれが「道徳的」であることを進化から説明できるということを述べている。これが渡辺氏を説得できるか? たぶん無理だろうと思う。せいぜい血縁淘汰に毛の生えたようなことをいっているだけだからである。またドーキンスは「悪魔に仕える牧師」の「仮面を剥がされたポストモダニズム」で主としてフランスのポストモダンの思想家に悪態をついている(正確にいえば、ソーカルらの「知の欺瞞」に最大限の賛意を示している)。ドーキンスのものではポパーは言及されていないが、「知の欺瞞」には「科学哲学における認識論的相対主義」という章があって、そこではポパーも論じられている。ソーカルは「ポパー相対主義者ではない。その正反対である」と認めながらも、ポパーの論の曖昧さがファイヤアーベントやクーンの相対主義につながったとしている。ソーカルの論は穏当で真っ当なものと思えるが、ポパーの論でさえ、見るひとがみれば相対主義につながるとみえるということなのだろう。渡辺氏は相対主義を強く否定する立場であるから、ポパー的な議論も受け入れがたいとするのかもしれない。
 それやこれやで渡辺氏の関心領域とこちらのものが重なるところが多いので、渡辺氏の本を読むといろいろなことが頭に浮かんで面白い。しかし、もっと根源的なところでいえば「科学技術によってわれわれは幸せになる」とか「人生の目的はいかにたくさんのお金を稼いで金持ちになるかである」などというひとがいると、本を読むひとの多くはケッというような表情を浮かべるのではないかと思うが、こちらも少しは本を読む人間として、信じられないくらいたくさんの本を読む人である渡辺氏がするその読書量をバックにした批評批判悪口の芸が面白いということがあるのだと思う。しかし、この芸が成り立つ前提は、それをいうひとがマイナーで権力などとは一切かかわりのない人であるということのはずで、最近の渡辺氏はある程度の読者を得て必ずしも(少なくとも読書の業界では)マイナーともいえない存在になってきているので、世間との距離のはかり方がいささか難しくなってきているのかもしれない。在野の、ごく一部の人しかしらない、しかし知る人ぞ知る強面の論客というあたりの立ち位置のほうが渡辺氏は幸せであったのではないかなあという気もする。氏の「無名の人生」に「私の理想は、無名のままに慎ましく生きて、何も声を上げずに死んでしまうこと」とあるが、その理想はどうやら叶えられないようである。もちろん、「文章を書きたい欲求はある」ということなのだから、予備校の先生などをしなくても、文筆で食べていけるようになったというのは慶賀すべきことなのだけれども。ヴァレリーがなぜ書くのか?ときかれて「弱さから」と答えたという話を何となく思い出す。
 渡辺氏は地方の人だと思う。人生の大半を熊本で暮らしてきたのだそうである。都会の人ではなく、土の人である。こちらの吉田健一贔屓の理由の一つは吉田氏が都会の人であるということがあると思う。氏にも土地とそこに住むことへのこだわりは強くあるけれども、それは住むことによってその土地や家が人間に染まってくることへの執着なのである。コスモスなどとは関係がない。東京に生まれ東京で育っておそらくこれからも東京でもうしばらく生きていくであろうこちらとしては、やはり吉田氏のほうを親しく感じるということがある。都会のなによりもいいところは無名でいくられるということだと思う。これは渡辺氏の「無名の人生」などというのとは違って、大勢の中の一人でいられるということ、抛っていてもらえるということ、格好よく言えば人中の孤独を楽しめるということである。そういう孤独というのは資本制の産物としての現代人の悲惨なのであるなどとはどうしても思えない。「無名の人生」で渡辺氏は、〈「野垂れ死に」が理想〉というのだけれど、地方で生きているとお節介なひとがいろいろといて抛っておいてくれず、なかなか野垂れ死にもできないのではないか、というのは都会に住む人間の偏見だろうか? 偏見をたくさん持つ少数派というのも都会のほうが生きやすいのではないかと思う。
 反=近代すなわち反=西洋の思想には、反=都会の見方が底流するとブルマらはいう。渡辺氏の見解にも、微かではあるが反=都会という部分がないとはいえないように思う。

荒野に立つ虹―渡辺京二評論集成〈3〉

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逃走論―スキゾ・キッズの冒険

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反西洋思想 (新潮新書)

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