吉川洋「高度成長」(1)

高度成長―日本を変えた6000日 (20世紀の日本)

高度成長―日本を変えた6000日 (20世紀の日本)

高度成長 (中公文庫)

高度成長 (中公文庫)

 渡辺京二氏の本を読んでいてこの本を思い出した。本書の単行本は1997年に刊行されている。その単行本を読んだ記憶はあるのだが、刊行すぐに読んだのかは覚えていない。いま本棚に見当たらないので確認できない。今回、読み直したのは2012年に刊行された文庫本で、単行本に加筆修正したものに、「経済成長とは何だろうか再論」という文が追加されている。副題が「日本を変えた6000日」で、この6000日とは1950年代の半ばから70年初頭にかけての十数年を指すという。わたくしは1947年の生まれであるから、小学校の半ばから大学を出るあたりまでの時期にあたるわけである。ということはわたくしの学校生活のほとんどの時期は日本の高度成長期であったということに後からみればなる。ということで、このような本を読んでいると、どうしても自分の学生時代のことを振り返るということにもなりそうである。自分の若いときはなどと言い出すのは歳をとった証拠であるが、実際そうなのだからしかたがない。
 それで吉川氏は、1950年(昭和25年)の日本を振り返る。当時就業者の48%が農業・林業・漁業などの「一次産業」に従事していた。高校に進学する女子は3人に一人。男も二人に一人は中学を出ると働いていた。一ドルが360円。一人あたりの所得はアメリカの14分の1。平均寿命は男子58歳、女子61歳。それが1970年には一次産業就業者は19%、雇用者つまりサラリーマンは64%。高校進学率は80%以上。収入はアメリカ人の40%。平均寿命も男69歳、女75歳となっている。
 戦前の民法では戸主の権力は絶大であった。それがなくなったことは多くのひとに開放感をあたえた。
 1950年当時に第一次産業に従事するものが約半数であったというのは今のインドネシアと同じである。そのころアメリカでは12%、イギリスでは5%。「農地改革」によって、戦前は小作争議が多発した農村部は保守の牙城となっていった。しかしそれにもかかわらず、農村の暮らしは戦前とほとんど変わらなかった。江戸あるいはそれ以前からあった郷村がそのよりどころとなっていた。家は藁葺きで囲炉裏があった。炉端のどこに誰が座るかは格によってきまった。家督をもつものが一番いい座にいた。水道もガスもなく、井戸水である。エネルギー源は薪と炭。電気は天井からぶら下がる電球のみ。もちろん洗濯機はなく洗濯板で擦って洗う。近くの小川で濯ぐこともある。農具は鋤と鍬とリヤカー。ほぼ自給自足の生活であった。都会では水道は普及していたが電気とは電球であることには変わりはなかった。蚊帳が必需品であった。農村では、1955年には82%が自宅出産であったが、75年には1%になっている。都会でも1950年には78%が自宅出産だった。当時の大人の最大の娯楽は映画で、子供は紙芝居だった。子供600人に一人の紙芝居屋さんがいて、就業者の700人に一人が紙芝居屋さんだった。子供の遊びはめんこや蝋石や縄跳びであり、空き地で遊んだ。
 日本人は何をもとめて高度成長という列車に乗ったのか? 欧米とりわけアメリカの「進んだ」生活に少しでも近づきたいと思ったからだ、と吉川氏はいう。
 1950年すぎにナイロンが登場した。洗濯機が最初に売り出されたのは1949年だそうであるが、価格は当時の大卒公務員の年収と同じで一月に20台しか売れなかった。テレビ放送は1953年にはじまったが、現在の価格で400万ほどの値段がテレビ受信機はしたので、開局時の受信契約者は全国で千人もいなかった。テレビの普及とともにプロレスとプロ野球が人気となった。1958年の皇太子成婚がテレビの普及に貢献した。都会では核家族が多くなっていった。次第に農家の平均収入よりも都市部のサラリーマンのほうが収入が多くなっていった。1964年の東京オリンピックが東京を決定的に変えた。それによって市電(都電)は段々と駆逐されていった。高速道路が作られ、濠や河川が埋め立てられていった。首都高速道路公団が設立されたのは東京オリンピック開催が決まった直後である。パリではセーヌ川の上を高速道路が走るなどということはありえないが日本ではそうなった。オリンピックを機に多くのホテルが建築された。団地ができた。ダイニング・キッチンという新しい形ができ、1970年ごろには、ちゃぶ台がなくなり、テーブルがそれにとってかわった。水洗トイレ、ガス風呂なども団地とともに普及した。1958年にはチキンラーメンが発売され、インスタント食品がはじまった。江戸時代には最下の魚でほとんど生では食べられなかったマグロが明治のころから段々と刺身として食べられるようになっていったが、食べられず捨てられていたトロの部分が東京オリンピックの後くらいから市民権を得るようになった。
 三種の神器(洗濯機・テレビ・冷蔵庫)が普及すると今度は自動車・カラーテレビ・クーラーが新しい神器となっていった。1964年「平凡パンチ」が創刊された。アイビー・ルック、ミニ・スカートが流行した。60年代の後半になって、生活は現在のものに近づいた。66年から68年にかけて、イギリス・フランス・西ドイツを次々に抜いて、西側でアメリカに次ぐ第二のGNPを持つ経済大国となっていった。70年初頭には日本は大変貌をとげて以前とは違う社会に生まれ変わったので、それ以降の変化はそれほど大きくない。
 吉川氏は1978年の「改革・解放」路線以降年に率10%以上の成長を続けている中国を日本の後を四半世紀遅れて追っているとしているが、日本の13倍の人口を持つ中国はGDPが日本を抜いたといっても一人あたりの所得はまだ日本の十分の一にも達していないので、まだまだ成長の原動力があるとしている。同時に中国が現在の日本なみの社会となったときの電力需要やエネルギー需要をどうやったら充たすことができるのか、それにともなう弊害はという問題を提起している。
 1950年代の半ばから、中学・高校をでた農家の跡取りの半数が農業をやらずに他の職業につくようになっている。この農村から都市への人口移動は70年代のはじめまで続く。この移動はオイルショック前に終わっているので、第一次オイルショック(73年)が高度成長を終焉させたという説を吉川氏は否定している。中卒の多くが集団就職で上野に来た。彼等彼女等は金の卵といわれたが、就職先は圧倒的に中小企業であった。彼等の多くは転職をくりかえし終身雇用とは無縁であった。この移動の最大の原因は農村より都会のほうが収入がよかったからであった。それは農業の生産性を都市の製造業がこえるようになったためである。また農村には人が余っていた。一方1960年ごろから都会では人手不足がいわれるようになってきている。農業から工業への産業構造の変化がおきる時点を「転換点」というが、日本ではそれが60年代前半におきた。
 日本の雇用の伸びは64年のオリンピックの辺りで止まっている。製造業の成長が止まったわけではない。人の代わりに機械による省力化がこのころから進んだことによる。農村から都会への人口の移動は続いていたが、かれらは製造業ではなくサービス業に就業するようになっていった。また都会へ出るのはなく在宅のまま就業が目立ってきた。地価の高騰による住宅事情の悪化による。通勤地獄という言葉ができた。
 農村から都会への人口の移動は所帯数の増加をもたらした。農村では3世代同居が普通であったのに、都会では核家族化が進んだからである。人口の変化よりも所帯数の変化のほうが経済にあたえる影響は大きい。洗濯機や冷蔵庫などは一家に一台が普通だからである。
 農村では過疎化が進んだ。2千年続いてきた農業がわずか20年で存亡の危機をむかえた。農業に従事するひとは1950年の50%から70年には16%にまで低下している。しかも統計上の農家も実際には兼業農家で、しかもそれは米作において一番顕著であった。農業は空洞化した。減反政策により、何も作らない農家にも補助金がでることになり、農業をしていない農家が増えた。日本の農業の地滑り的衰退がおきた。
 
 以上、ほぼ半分までをみてきた。以降は、高度成長を経済、政治、社会の角度から検討してその功罪を見ていく部分なので、ここでいったんここまでの部分につき考えてみたい。 わたくしは杉並に生まれ、結婚後数年だけ音羽に住んだだけでまた杉並に戻ったので、ほぼずっと都会で暮らしてきている。ごく身の回りの経済成長について思い出して見ると、まず小さい時は家の前の道が砂利道であった。それが舗装されたのがいつであったか覚えていないが、走っているバスは当初石炭か木炭で走っていたのではないだろうか? バスガールという職業もあった。バスの中で切符を売ったり切ったりするのである。男の紙芝居屋さん以上に女性の職として大きな比重があったのではないだろうか? ワンマンバスというのをはじめて経験したのが高校の時に関西に旅行していた時で、どういう風に乗ったらいいのかわからなかった。中学から港区に通学していたが、当初は国電(JRなどという呼び名はまだない)で信濃町にでて、そこから都電に乗っていた。地下鉄の丸の内線が荻窪まで開通したのが1962年で。それからは丸の内線で四谷三丁目にでてそこから都電に乗った。この当時の丸の内線はとんでもない混雑であり、通勤地獄を身をもって経験した。
 今でも都電というのがまったくなくなったわけではないだろうが、相当後までそれはいろいろなところで走っていたはずである。運転免許をとるときに都電が走っている道路での交通規則というのをうるさく習った記憶がある。
 多分、家にテレビが来たのが小学校5年くらいの時、中学時代には随分とアメリカ製のテレビドラマを見た記憶がある。「パパは何でも知っている」とか「ローハイド」(クリント・イーストウッド)とか「拳銃無宿」(ステゥーブ・マッキーン)とか。ソニーという名前をはじめて知ったのもテレビ番組からである(「ソニー号 空飛ぶ冒険」)。「パパは何でも知っている」を見て、アメリカ人は何て広い家に住んでいるのだろうと思った。これは原題が「 Father knouws best 」、今から思うとそこには黒人問題などは片鱗もでてきていなかったわけで、アメリカン・ドリームをドラマにしただけだったのだろうと思うが。
 それでテレビの前はラジオで、小学校低学年のときは、「少年探偵団」とか「新諸国物語」とか。その主題歌をいまでも覚えている。「勇気凜々瑠璃の色」なんて、子供向けの放送に随分と難しい言葉を使っていたわけである。わたくしが聴いていたわけないが「君の名は」というのはいつ頃の放送だったのだろうか。放送の時に「銭湯が空になる」といわれたのだから、その当時、風呂は銭湯が普通だったのであろう。携帯とメールの時代には考えられないストーリーであった。「緑の岡の赤い屋根、尖り帽子の時計台・・」というのは何という番組の主題歌だったか? 高校3年が東京オリンピックで、高速道路が建設されていくのを電車から見ていた記憶がある。
 後から思うと実に急激な変化がその時々にあったと思うのだが、その中にいたときは全然変化しているという感じはなかった。ただ日常が過ぎていくという感じだけであった。おそらく人間というのは誰でもそうなのだろうが、後から振り返れば理解できることも渦中にいるときにはまったく気がつかないものである。それを一番感じたのが、大学紛争(闘争)のときで、歴史的事件というほどではないにしても、一応、日本史の年表の片隅に残る出来事の渦中にいたにもかかわらず、当時はまったくそういう実感がなかった。ただ毎日が過ぎていっただけである。
 わたくしが小学校から大学にかけてのころに、日本では歴史上かってない程の大変化がおきていたのだから、わたくしは大変面白い時代を生きてきたことになるのだろうが、同時に実に落ち着きのない、慌ただしい時代に生きてきたということにもなるのだろうと思う。要するに地味で落ち着いた生活のない歴史の蓄積のおきない時代に生きてきたわけである。渡辺京二氏がいう産業化の不幸というのはそういうことなのだろうと思う。
 わたくしが小学校低学年のころ、ときどき農村のほうから行儀見習いという名目で女中さんのようなひとが来ていた。「女中さん」が「お手伝いさん」になり、そもそもそういう存在自体がとんでもない金持ちの家以外には存在しなくなっているというのも、短期間のうちでの日本の社会の地滑り的な変化をあらわしているのであろう。英国でジーヴスものが飽きずに読まれ、「日の名残り」という小説が書かれるにしても、執事という職がはたして今も存在するのかどうかはしらないが、ジーヴスものの人気というのは安定した社会、もっといえば身分制度のようなものへの憧憬をイギリスが今でももっているということなのだろう。
 高度成長期の日本の変化も、農村部にいたひとのほうがより強く実感できたのだろうと思う。わたくしは小学校は区立であるが、ベビーブームの大人数で60人弱くらいのクラスから東大に3人、早慶あわせると10人くらいと相当数が大学に進学しているので、中学を出ると就職という環境とは全く異なっていた。小学校の時から、大学進学を当然のことと思っていたように思う。中学から私立校にいったのは父の意向であるが、中高一貫校であるから、最初から高校進学が前提であるし、いわゆる受験校であるから大学進学までもほぼ既定であった。実際に高校同級で大学に進学していないものはいないのではないかと思う。自分では普通のつもりでいたのだが、都会のなかでも杉並区という山の手のかなり極端な地域で生まれ育ち、相当特殊な学校に通っていた可能性が高い。通ったのは麻布中高であるが、庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」に描かれた日比谷高校と似たりよったりの学校だった。「いやったらしい」学校だったのである。もっとも、その当時、わたくしが知る限りもっとも「いやったらしい」学校は教育大付属駒場高校だったのであるが(四方田犬彦「ハイスクール1968」)。変な言い方でまことに「いやたったらしい」と思うが、小学校くらいからずっと知識人予備軍として生きて来たのだと思う。
 それで高度成長による変化の現れかたもかなりかたよったものであった可能性が高い。例えば、アメリカに対する憧れのようなものを一度も持ったことがないような気がする。何となく軽薄で浅い国と思っていた。これはわたくしだけのことではなく、周囲の同級生たちもみな同じであったように記憶する。なんでそうなったのかはわからないが、少なくとも中学に入って岩波の赤帯などを読むようになるとフランスやドイツ(それとロシア?)の文学の方がアメリカのものより高級という感じがあったことなどが関係しているかもしれない。思想というものを高級なものと思い、アメリカには碌な思想家も文学者もいないと子供心(中学生心?)にも思っていた。
 クラシック音楽もなんと言ってもドイツである。こちらはろくにベートーベンも聴いたことのない奥手だったが、周囲にはマーラーがどうとかブルックナーがどうとかいう生意気でいやったらしいのがたくさんいて、それで中学時代に親にねだってステレオ装置を買ってもらったことも記憶している。当時はようやくSPからLPに変わったレコードの時代で、CDなどはもちろんなかった。そもそも文学とか音楽はどこかでロマンティックと通じるところがあって、そこから見れば、実用の方面とか日常の生活とかは俗で低級なものなのである。
 高度成長が主として物質の方面にかかわることであるというのは、渡辺京二氏の常に指摘するところであったし、本書でも吉川氏も論じている。ロマン主義の問題は本書文庫本版に付された「経済成長とは何がろうか」でも論じられている。氏もいうようにロマン主義は「勃興しつつあった資本主義へのアンチ・テーゼ」であり「反経済」だった。吉川氏はその気になりさえすれば、そういうセンチメントは洋の東西を問わずいくらでも遡ることができるという。ロマン主義は「合理主義」を批判するものであり、人間の歴史とはロマン主義と合理主義の相克ともいえるくらいなのである、と。この問題は非常に大きな問題であると思うので、稿をあらためて考えてみたい。
 渡辺京二氏は明らかにロマン主義の系譜のなかのひとである。本書の後半で議論されている「右と左」の対立もまた、ロマン主義対合理主義の側面を持っていると思うのだが、右にも左にもそれぞれ合理主義者とロマン主義者がいることが問題を複雑にしていると思う。自民党にしても経済成長をいうのは合理主義の側面だし、「美しい日本」などというのはロマン主義である。金儲け至上主義などということでは自国に自尊の念が持てないということがそういう主張を呼ぶのであろう。愛国心というのは明かにロマン主義である。その愛国心の支えが経済成長という合理主義であるというのはいかにも矛盾している。それが精神を不安定にさせる。
 一人の人間のなかにおいてさえ合理主義者とロマンチストがいる。私見によれば観念論というのはロマン主義の系譜の中にある。自分のことをふりかえってみると、自分のなかにある観念論あるいはロマンチシズムをいかに殺すかということをずっと考えてきたように思う。そのお手本にしたのが吉田健一だったが、ロマン主義的心情というのはきわめて根強いもので、そう簡単に消えるものではないことも痛感している。
比類なきジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

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