今日入手した本

 
E・トッド「「ドイツ帝国」が世界を破滅させる」

 昨日、熊谷徹さんというかたの「ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか」という本を買って、薄い本なのでもう読んでしまったが、それがなぜなのかは結局よく解らなかった。わかったのはドイツが現在ヨーロッパで例外的にうまくいっている国で、それは過度の社会保障は国を駄目にするとして、いち早く年金の削減などにふみきったのがよかったので、それをしたのは今のメルケル政権の前の社会民主党緑の党の連立政権のシュレーダーであり、メルケルはその果実を享受しているのだという方向の著者の主張であった。つまり、今のグローバルといわれる米英流の市場至上主義ではない資本主義のやりかたもまたあるのだ、その例がドイツだというのが著者のいいたいことなのではないかと思った。もちろん現代ドイツのマイナス面も指摘はされているが、基本的には「社会的市場主義」と著者が呼ぶドイツの行き方の礼賛であるように思い、そういえばドイツの悪口をいっているみたいな本があったなと本書を思い出した。もちろんトッドの本ということがある。インタービューを集めたもので、まだ数十ページしか読んでいないが、トッドさんドイツが嫌いなのだと思った。嫌いというよりも何か恐怖心のようなものを抱いているようにさえ感じる。「第二次世界大戦地政学的教訓があるとすれば、それはまさに、フランスがドイツを制御し得ないということである。ドイツが持つ組織力と経済的規律の途轍もない質の高さを、それにも劣らないくらいに途轍もない政治的非合理主義のポテンシャルがドイツには潜んでいることを、われわれは認めなければならない」というのなんか、一人ひとりは顔の見えない無個性な人間なのにそれが束になると非常な強さを発揮するドイツ(人)というフランス人のドイツ(人)への偏見が垣間見えるような気がする。なんだかヴァレリーの「方法的制覇」を思い出した。貿易摩擦などというのがいわれていた時代に、アメリカが日本を見ていた目もこんなものだったのだろうなあと思う。「帝国以後」でアメリカを虚仮にしていたトッドさんは「様をみろ!」というような感じで、成り上がり国アメリカへの文明先進国フランスの蔑視のような余裕を感じたのだが、本書ではそのような余裕はないような感じである。歴史上、ドイツとフランスは長い間、不倶戴天の敵であったことをあらためて思い出した。
 
吉本隆明〈未収録〉講演集〈8〉 物語と人称のドラマ この〈未収録〉講演集は全部で12巻になるらしいが、狭い範囲の文学にかんするのは9〜11巻までのようで、第11巻は詩をあつかうようだから、小説とか評論をあつかっているのは、8・9巻らしい。前、第8巻が面白かったので買ってきた。戦前編ということで、透谷、鷗外、漱石、芥川、太宰治などを取りあげている。
 わたくしは透谷などはまったく読んでおらず、谷沢永一「人間通」の「恋愛」の項で、透谷が「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」といっているのを読んで、そうなんだと思ったくらいである(秘鑰は「ひやく」と読んで、秘密の庫を開ける鍵、の意味らしい)。まだ恋愛をしたことがない人間には人生は解らないのだというようなことのようだが、これが後世の日本人をいかに不幸にしたかということを谷沢氏はいっていた。それにくらべると吉本氏はずっと透谷によりそっているというか、透谷がもっていた可能性のようなものを読み解こうとしている印象である。最初の「倫理と自然の中での透谷」を見てもそれを感じる。
 あとはパラパラと見ただけだが、「鷗外と東京」の「鷗外の東京というのは、一種の傾斜地なんです。・・何となく無意識のうちに山の手から下町の低地へ、どんどん下がっていくというような、そういう一種の傾斜として東京の町というのは考えられているのが特徴だと思います。・・漱石の作品にあらわれてくる東京というのは、ぽつんとした場所であるか、地域であるかということで、しかもそれが割合に、名所旧跡的に出てくる」などという指摘は、わたくしなどまったく考えたこともない視点で、吉本氏が卓越した文学の読み手であることをよく示していると感じた。