吉川洋「高度成長」(3)「右と左」:追記 渡辺京二「幻想の明治」のなかの「鑑三に試問されて」

 
 昨日のエントリーで、『60年代の左派とその流れのなかの学生たちは「黙示録」の夢を追っていたのであろう。』などと書き、ロレンス「黙示録論」の「ユダヤ教終末観より現実世界の腐敗堕落を侮蔑否定し、不当に蒙っている現世の悪と不幸とから逃避せんとするひとびとの心が描きだした幻影は、未来のミレニアム=至福千年への憧憬であり、メシア再臨と聖徒の統治というはなはだ復讐的な信仰であった」というようなところを引いて、『その運動は「至福千年」と「聖徒の統治」という夢を追う』ものだった、などと書いたが、われながら舌足らずで、ロレンスとか福田恆存を未読のかたにはちんぷんかんぷんな話だろうとと感じていた。
 まったく偶然に、その後から渡辺京二氏の「幻影の明治」の山田風太郎を論じた部分を読み返し、とても面白く、今まで山田風太郎司馬遼太郎をあつかった二つの章しか読んでいなかった本書を通読してしまった。そして第6章の「鑑三に試問されて」を読んでいて、こういう部分にぶつかった。

 コミュニズムは鑑三が考えていたような近代物質主義の極北なのではない。それは一種のメシアニズムなのである。・・青年鑑三は渡米してみて、アメリカにすりがいるのにおどろいた。何にでも鍵を施す習慣におどろいた。キリスト教国は善人のみ住む天国と信じていたからである。日本のコミュニズム信者も社会主義国を一種の天国と思いこんでいた。

 そうかメシアニズムといえばいいのか、と感心した。ここでの青年内村鑑三との比較もわかりやすい。こういう風にすれば、東側崩壊前の左派(の一部)についてのリアルなイメージが提示できるのである。
 そして「そういう盲信から解き放たれたとき、人はどこへ向かうのだろうか」と問うて、渡辺氏は林語堂の「支那のユーモア」から引く。「人生には、朝起きて喫する一杯の粥の与える満足といったもの以外、実のあることは何もない。」 語堂は欧米人の子どもっぽい理想主義を滑稽に感じたから、そういったのだという。
 この林語堂の言葉は誰か別のひとの本で読んで知っていた。ネットで調べたら以下のようなものだった。

 人生において重要なのは、いかに進歩すべきかを知ることではなくて、辛抱強く働き、気高く堪え忍び、そして幸福な生活ができるように、吾々の人生をいかに整理すべきかを知ることである。・・・金銭や名誉のためのあらゆる空しき闘いの後には、人生は主として実のある或る事柄に還元される。例えばうまいもの、良き家族、苦労のない平和な心、寒い朝の一杯の粥。 その余は空の空なるものにすぎない。

 そして渡辺氏はいう。「一杯の粥の与える満足とは何なのかと考えるとき、林のいうのはたんなる俗世の満足につきるものではなく、何かそれを超越する満足をも含むものであるように思われてならない。/ 一杯の粥によって始まる静かな朝の穏やかな浄福に浸されるとき、人は俗世における野心や競争や利害から束の間超越しているのだ。・・何か自分を超えた大いなるものが自分の前に、束の間顕れたのであることは、そのときの自分の感覚が保証している。・・大いなるものが存在して自分を生かしめてくれているという、別なリアリティが顔をのぞかせた・・」
 ここでつまずく、カトリックだなあと思ってしまう。渡辺氏は自分は信仰をもたぬ人であるという。しかし福田恆存カトリック無免許運転を自称していた。渡辺氏もまたカトリック信仰の末につながる人のように感じる。
 ところで、林の「一杯の粥」から思い出すのは、吉田健一の以下のような文なのである。「兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上がったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったらない。それはほのぼのでも染みじみでもなくてただいいものなので、もし一年の計が元旦にあるならばこの気分で一年を通すことを願うのは人間である所以に適っている。(「私の食物誌」)」「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのでなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。(「時間」)」 ほかにも朝起きて何をしなくてはいけないということもなく一杯の紅茶を飲んでいる時といった文もあったように思うが出てこない。とにかく、ここには「自分を超えた大いなるもの」といったものはないと思う。そして、林語堂のものにもそれはないと思う。林の文からそれを引き出してくる渡辺氏の論は強引なのである。
 片方がメシアニズムでもう一方がカトリックというのでは困る。吉田健一カトリックを仮想敵にしていたとわたくしは思っている。メシアニズムもカトリシズムも人間以外の動物にはないものであるはずである。メシアニズムへの信仰が失われたら、人間の人間らしさが失われるというのは、そもそもカトリシズムを前提にした話である。人間は魂をもつ、故に人間以外の動物とは聖別されるという方向はカトリシズムを裏から導入するものである。
 しかし、そういう話が出てくることが人間の持つ「聖なるもの」への希求の強さを示しているわけで、コミュニズムの失墜というのがかなりの人にとっては「人間のもつ聖性」の否定と受け取られたということが、最近のひとたちにはもう見えなくなってきているのだと思う。
 以上、昨日のエントリーに追加。
 

私の食物誌 (中公文庫)

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時間 (講談社文芸文庫)

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