山崎正和「歴史の真実と政治の正義」

 五連休のときに少し本棚を整理していたら棚の奥からでてきた。買ったことすら覚えていないし、読んだかどうかも覚えていなかった。何だか随分と大げさで肩肘を張ったタイトルだなあと思って少し中を見てみたら、最初に目に入ったのが巻末の二つの司馬遼太郎を追悼する文章だった。というのは、最近、渡辺京二氏の「幻影の明治」で、山田風太郎の明治物礼賛と司馬氏の「坂の上の雲」ボロクソの論を読んでいたからで、わたくしも山田風太郎の明治物は大好きで(でも室町物も好きだし、一番の好みは「魔界転生」と「妖異金瓶梅」かもしれない。雑文も好き)、渡辺氏の風太郎礼賛に異を唱えるつもりはまったくないが、遼太郎批判にはいささか大人げのないところもあると感じたので、山崎氏はどんなことを言っているのかなあと思ったわけである。
 「風のように去った人 ― 追悼・司馬遼太郎 ― 」と「『最後の将軍』をどう読むか ― 追想司馬遼太郎 ― 」は、前者がモンゴルを題材とする「草原の記」、後者が徳川慶喜を主人公とする「最後の将軍」を主に論じているのだが、この二つの論に共通するのが「無欲」ということである。モンゴル民族の伝統的な精神としての「歴史に人生の跡を残す」ということへの無欲、徳川慶喜の「生まれつき何ものかになりたいという野心の欠如」という無欲である(司馬氏で読んでいるのは「この国のかたち」とか「明治という国家」「昭和という国家」といったものばかりで、小説は苦手でほとんど読んでいないのにどういうわけか「草原の記」だけは本棚にあったところをみると、この本を読んで買ってみたのだろうと思う。しかし、読んでいない。この山崎氏の二つの論を読むと、もう「草原の記」を読んだような気になってしまったためではないかと思う)。
 「無欲」は多分に山崎氏の自己規定の産物でもあるように思うのだが、「何事にも熱狂することのできない人間」というのが山崎氏の自己規定で、そうでありながら「虚無」に陥らずシニックにもならないで生きるという決意あるいは決断のようなものが山崎氏の戯曲や「鴎外・闘う家長」や「不機嫌の時代」などに通低するテーマとなっていると思う。熱狂することができないとは、例えば恋愛ができないということである。恋愛している二人(あるいは片思いの人)は傍から見れば、精神に異常をきたしているひとである。
 そして山崎氏の論は《「歴史に人生の跡を残す」ことへの無欲》から、それと対照的な「過酷な歴史主義の時代」としての昭和という方に移る。皇国史観(とドイツの第三帝国)が右に、マルクス主義が左にあって、ともに「歴史をつくる」「歴史に参加する」ことを合唱していた。たしかに司馬氏は歴史文学を書いたひとであった。しかし司馬氏は歴史は愛したが歴史主義は嫌悪したのであると山崎氏はいう。「歴史にありもしない目的を与え、その観点から個人に善悪のレッテルを貼り、一つの時代への参加を呼びかけ、しかももっとも残酷なかたちで参加したものを罰するのが、歴史主義」であるのだ、と。「日本の戦後は、戦前に劣らぬほど、政治的な歴史的使命感が社会を支配した時代であった」のであり、司馬氏が憎んだのは、「むなしい観念論者」であり、「ファナティックな狐憑き」であり、「教条的な官僚主義的人物」であったのだ、と。
 戦前の皇国史観という「狐憑き」から、戦後のマルクス主義という「むなしい観念論」+「ファナティックな狐憑き」への移行というのではあまりに図式的であるが、この山崎氏の本は1996年〜99年に書かれた文書を収め2000年に刊行されているので、まだソ連崩壊の余燼がくすぶっていたときに刊行されている。わたくしの当時の印象ではソ連は本当にあれよあれよという間に本当にあっけなく崩壊してしまった(あれほどの軍事大国なのに、軍部がなぜ権力を掌握することができなかったのだろうか?)。それがおきてしまうとみんな当然のことがおきただけというような顔をし、経済の運営は市場経済体制という行き方しかないのですよと百年も前からそんなことはわかっていたというようにいっているのを見て、どうにも納得ができない思いだった。
 東西の対立とは単に市場経済対計画経済という問題だったのだろうか? 本書の「新たな知的開国をめざして」では、当時の西欧で見られた共産主義への深刻な思想的反省のようなものが、どういうわけか日本では皆無に近いことが指摘されている。
 最近の朝日新聞の論調に見られる無惨としかいいようのない知的荒廃(とわたくしには思えるのだが)も、ソ連崩壊時になぜそれまでマルクス主義が魅力的で輝いて見えていたのかへの反省を少しもしないままに現在にいたってしまったことのつけがまわってきているのだと思う。「進歩的文化人・朝日・岩波」が三位一体であった時代が事実としてあり、それが日本の政治を導びくと思われたこともあった過去の栄光への未練が断ち切れないのであろう。そうであればソ連の崩壊と同じで「朝日新聞」の崩壊もおきるときにはあっという間におきるのかもしれない。
 かなりアクチュアルな問題を論じた本を10年〜20年して読み直すのも面白いと感じた。