司馬遼太郎「風塵抄」

 中央公論社 1991年

風塵抄

風塵抄

 最近、本の整理がどうにもならなくなってきて、しかたなく、少し整理をしていたら、棚の奥からこの本がでてきた。本の整理というのがうまくいかないのは、「あっ、こんな本があった」とついその場で読み始めてしまうためで、それで、今回もあいかわらず机の上は本の山、書棚も二重三重につまって、奥の本は書名もみえない状態のままである。
 短文集である。とりだして、とりあえず目次を見たら、真ん中のほうに「“公”と私」というのがあった。見てみると、その中に「ところで、中国の革命軍は、歴世、私軍だった」というところがあった。「いつの世でも王朝が衰えると、四方に流民がおこった。その流民を地域ごとにまとめて食わせることが、英雄というものであった」と。さらに「中国革命を成功させた紅軍も、もとはといえば体操教師出身の朱徳毛沢東の私軍から出発している」とある。高島俊男さんの「中国の大盗賊 完全版」を読んで、毛沢東ももとはといえば盗賊の親分であるといったことがあるのをみて驚嘆し、高島さんというひとはなんという斬新な視点をもっているのだろうと思ったのだが、高島さんの「中国の大盗賊」が毛沢東の部分はまずいということで、そこが削除されて出版されたのが1989年、毛さんの部分もふくむ完全版がでたのが2004年であるが、この司馬氏の文章は1989年6月9日の日付を付されている。天安門事件の五日後の日付である。わかるひとはわかっている、知っているひとは知っているのである。革命後の中国でも「各軍の軍長たちの意識は、遠い過去からの伝統をひきづっていて、自分の管轄下の軍を“私”として見る感覚がつよい。だからこそ、一部の軍長が、その軍の要職に息子や娘婿、甥などをつけて、軍を家族の私物にしている。まことに近代的“公”からみれば信じがたい現象といっていい」という。この文が書かれてから25年、最近の出来事をみても、中国は変わっていない。文化大革命のころ、毛沢東を賛美していたひとたちはこういう中国の歴史に無知だったのである。
 渡辺京二さんは「幻影の明治」のなかで、山田風太郎をもちあげて司馬遼太郎を講釈師みたいないい加減な史観と批判している。でも司馬さんというひとは根っこのところで大きな流れはしっかりとおさえているひとなのだなあと、本書をみても思う。それといい人なのだなあ、と思う。山田風太郎というひとは面白いひとであったとは思うが、いい人であったかどうか、なかなか一筋縄ではいかない難しいひとだったのではないかと思う。
 「忠恕」という文章でもまた「公」ということをいっている。「かつての日本が一世紀も遅れて古ぼけた西欧流の帝国主義の熱病にとりつかれたように、イラクは世界史がもう免疫になったはずの国家的熱病によって自他を焦している。・・こんにち世界や人類を“公”としない点で、イラクが決定的に遅れた国だということに仰天している」と書いている。それにどう対応すればいいのか? 「忠恕」しかないと。「忠恕」というのは地味なもので、スタンドプレイもできず、対決もできず、ありようは、花見の喧嘩を仲裁する人のようにオロオロしていて、一見愚に似た行動しかできない、と。これも1990年に書かれている。
 「公」をいうひとであるから、「公」であるべき土地が商品となり投機の対象となってきていることを憤っている。1990年の文であるからまだバブル崩壊の前、失われた10年に突入する前である。それで、こんなことも書いている。「相当な知力の人で、生涯、アルバイトからアルバイトをしつづけて送るという、いわば軌道をもたないスタイルの人がふえるだろう。・・そういう人たちが精神の貴族になってくれば、芸術への多様な感受性群がうまれる。わが国の演劇や美術、あるいは文学といった創造的な分野が、新展開をみせるかもしれない。」 これは1987年の分で、浅田彰の「逃走論」が1984年である。バブルの頂点では、日本はとても豊かになったので、もうあくせく働かなくても、ときどき働き、あとは好きなことをしていても生きられるというマルクスの天国のような時代になったといったことが少なからずのひとに信じられていた。
 「いい音楽を聴いて感動するのは自分のなかのオトナの部分ではなく、コドモの部分なのである」という。ロマン主義とはコドモの部分の動きなのだろうか? 啓蒙主義はどう考えてもオトナのものであるが。
 「歯が痛ければ歯医者さんにゆくということがあるかぎり文明からの逃避など夢物語で、逃げられない以上は、この文明に積極的に参加するほかなく、また文明の統御についても一人一人が考えざるをえない」と。「歯科医療器械をうごかしているのは電気で、その電気は石油によって作られる。その石油たるや、たとえばイラン・イラク問題のようにたえず国際紛争を生んでやまない。」
 歯が痛ければ歯医者さん、というのが医療の原点で、症状があるからそれをとる医療が存在するというのはわかりやすい。現在の医療の大部分が何の症状もないひとを“病気”としていることから、医療の混乱のほとんどが生じていると思う。
 歯が痛くても人生観は変わる、といったのはチョホフだっただろうか? 疼痛の管理の進歩は現代医療が誇っていいものだと思う。ブロンプトン・カクテルがでてきたのはわたくしが臨床をはじめてしばらくしてからであったと思う。
本をある程度の時間がたってから読み直すというのは、面白い。いろいろなことを教えてくれる。
中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

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逃走論―スキゾ・キッズの冒険

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