古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」(下)

 
 第3章「崩壊する「日本」」は2010年6月のFIFAワールドカップ決勝トーナメント進出がかかった日本対デンマーク戦の深夜3時からのテレビ中継をみながらの渋谷の喧噪の話からはじまっている。著者古市氏と同じくらいサッカーには疎いわたくしであるが、試合をしている選手たちはまだいいとして、それを観戦して旗をふったり顔に変なものを塗ったりしてるしているひとは大嫌いで、フーリガンなどというのは論外である。球技において球の大きさと知性は反比例するという話があるが(ゴルフが上で、野球が真ん中、サッカーが最低ということらしい)、自分がしていることではなく、他人がしていることにあれだけ興奮できるというのが理解できない。セックスというのは自分がするもので、他人がしているのを見て喜ぶのなどはバカといっていたのは今東光だったような気がするが(養老孟司さんは、ミラー・ニューロンのせいですよといっていた)、とにかく合同で何かを応援するというのが生理的に苦手である。オリンピックなどで日本の選手がでてくると、選手の故郷というところの公民館か何かに人があつまって日の丸をふったり、○○さん頑張れ!などという垂れ幕があったりという光景がよくテレビにでてくるが、ただもう嫌悪感で、これと出征兵士を見送る光景のどこが違うのかはさっぱりわからない。とにかく同調圧力が苦手である。(若いころ吉田健一さんの随筆を読んでいて、オリンピックの水泳競技だと思うが日本が勝ったとか負けたとかの騒ぎがあったときに、もらうメダルの金属の種類がなぜそんなに大事なのだろうと書いてあるのを読んで、はっと目を開かされた。それ以来、この種の喧噪にはまったく冷淡になった。だからワールド・カップで騒ぐ若者などというのもただバカじゃないと思っていたのだが、本書を読むとなんだか違うのである。この試合で日本は負けたらしいが、その瞬間、若者たちは、「お疲れー」「あー、気持ちよかったー!」「四年後にまた会おう!」で晴れ晴れとした顔で散っていったので、暴徒化することなどまったくなかったのだそうである。「みんなで集まって、盛り上がる」ということ自体が大事で、結果はどうでもいいらしい。この章のそこから先の日本のおける国家意識の形成を論じた部分はとくに目新しいところはない。
 20代の日本人の国を愛する気持ちは年々上昇を続け、日本に生まれてよかったと考えるものも20歳から24歳では98%!なのだそうである(2008年)。ところが「もし戦争が起こったら、国のために戦うか」では日本人全体の15%が「はい」(スェーデン80%、中国76%、アメリカ63%)、15歳から29歳では8%!。戦争がおきたらもちろん逃げます、と。
 古市氏はこれをいいことという。国というものあるいは国と国との争いが20世紀最大の殺人をしてきたからだという。しかし、文庫のための追記では、ビンカーの「暴力の人類史」などを紹介して、狩猟採集時代の男の15〜60%が争いで死んでいたというデータなどから、無政府状態は戦争よりも多くの犠牲者を出すのだから「国家」をただ悪者と見なすことはできなくなったと、論を修正している。わたくしは近代の最大の「殺人者」は「思想」あるいは「観念」というものであって、「国家」も思想の産物であるという点が問題なのだと思う。シリアの現状などを見れば無政府状態というのがいかに恐ろしいかは論をまたないわけで、もしもインフラが崩壊し、水道の蛇口をひねっても水がでず、スイッチを入れても明かりがつかない状態になったことを想定すれば、「国家」をだた悪者とみなすなどというのが何も考えていない論であることは自明である。古市氏も文庫への追記では、「社会保障の担い手として、これからの少子高齢化へ取り組むものとして」国家の役割は高まらざるをえないという。しかし国家とて魔法の小槌を持っているわけではない。できないことは誰がどうやってもできない。
 
 第4章の「「日本」のために立ち上がる若者たち」では、右側に集まる若者たちを論じている。これまたネット右翼などという思いこみからみるととてもヌルいのである。サッカーに集まる若者たちと変わらない。雰囲気はお祭り気分。単に右翼的な空間が「居場所」になっているということらしい。疑似的な家族、新しい地域である。これは左でも同じらしく、前進社(中核派の拠点)の若者たちにとっても、そこは「居場所」「仲間のいる場所」であるらしい。
 文庫への追記ではSEALDsのこともとりあげられているが、まあサッカーに集まるひとたちとそう違ったものではないらしい。本書を読んで、そうなのかと思ったのは、政治家や霞ヶ関の公務員が思いの外デモのことを気にしているのだという指摘だった。あんなものはまったく気にしていないのかと思っていた。
 
 第5章が「東日本大震災と「想定内」の若者たち」
 東日本大震災では、みな「とにかく何かしたい」と考えた。社会志向の若者は潜在的にいたので、何かがおきるのをまっていた。しかし反原発のデモをしている若者は選挙にはいっていないのだ、と。
 
 最終章はタイトルも本書と同じ「絶望の国の幸福な若者たち」。
 今の若者たちのおかれた状況は悲観的にみれば、いくらでも悲観的にみられる。少子高齢化による人口構成のいびつによる世代間格差、高度成長期にはそれなりに機能したが、バブル崩壊後には機能しなくなっている「日本型経営」の残滓としての正社員にしがみつく中高年と正社員になれない若者たち。しかし今の若者たちは、決して団塊の世代になりたかったとは思っていない。公害がひどく、海外のものは簡単には買えず、携帯電話もない、そういう時代に生まれたかったとは思っていない。これから始まる豊かさよりも今の豊かさのほうがいい。若者の就職難といわれるが、それは大学に進学する若者が増えたことも原因である。かって日本型経営をささえた人たちは幸福だったのか? そこにあったのはサラリーマンという「社蓄」と専業主婦という「家事従業者」という最悪の組み合わせだったのではないだろうか? 「モーレツ社員」と「過労死」に支えられた「日本型経営」時代が幸せだったというのだろうか? バブル崩壊後の若者は「相対的に」自由な人生を送れるようになってきているのではないか?
 もしも雇用対策や社会保障の充実が必要であるなら、若者がかわいそうだからではなく、日本という国家のために必要なのである。高齢者世代内部での格差もきわめて大きい。貧困の問題に直面しているのはむしろ高齢者なのではないか? 日本は少子化対策をほとんど何もしていない。なぜシングルマザーを推奨しないのか? 日本の婚外子は2%である。スウェーデンやフランスでは50%以上。子供を生んでもなんとかなる環境をつくるのが先決である、と。
 いずれにしても現在の状況は絶望的である。若者はなぜのほほんとしているのか? 著者の古市氏はかって「WiiやPSPを買えるくらいの経済状態で、それを一緒に楽しむことができる社会関係資本(つながり)を持っていれば、たいていの人は幸せなんじゃないか」と思ったという。「経済学的な問題」と「承認の問題」の双方を考えることが必要である、と。ぼくたちの社会は、一見あまりにも豊かで、一見あまりにも幸せである。もちろん、これがいつまで持続できるかはわからないが。若いときは正社員もフリーターもあまり給与格差はない。日本では「家族福祉」が問題を隠蔽してしまっている。若者がどんなに低い収入でも、ある程度裕福な親と同居していれば何の問題もおきてこない。
 所帯主が50代の平均貯蓄は1593万円、60代では1952万円。平均持ち家率は50代87%、60代91%。若者たちの親は勝ち組である。その勝ち組から若者へ資源の移転がおこなわれている。18歳〜34歳の未婚者は男性の7割、女性の8割が親と同居している。特に非正規労働者にその傾向が強い。「若者の貧困」の問題が顕在化するのは、若者が若者でなくなったとき、年寄りになっていったときなのである。かっての若者には貧困から抜け出す道が多く用意されていた。今はそれが少なくなってきている。
 一方、承認の問題は今、顕在化してしまう。恋人がいないと寂しい! しかし18歳から34歳の未婚者で異性の恋人がいるのは男性で27%、女性で37%である。
 友人も問題も大きい。若者たちにとって「ないと不幸なもの」のトップは「友人」なのである。「ブスは化粧で隠せる。仕事がないのは不景気のせいであると弁解できる。しかし、友達がいないのは弁解できない。それはその人の今までの人生と全人格の否定のようにもとられかねない」とある作家がいっているのだそうである。
 だからこそツイッターが大事になる。「いいね!」が重要になる。震災で一時的に忘れられてしまっているが、その前は「無縁社会」という言葉がブームだった。「血縁」「地縁」「社縁」すべてが失われた社会が「無縁社会」である。近代化はそれらの「縁」を克服することを目指してきた、その息苦しさを嫌ってきた。しかし、それがなくなってしまうと「寂しい!」のである。
 中国は都市戸籍農村戸籍が区別される極端な身分制社会である。しかし農村戸籍で都市に出稼ぎにきたひと(農民工)の生活満足度は、その劣悪な労働環境にもかかわらず、もともと都市戸籍であるひとの満足度より高い。農村の生活水準より増しだから。一方、都市戸籍で大学までいったが就職できない若者たちの不満は大きい。そこから導かれる結論は、格差社会や身分制社会のほうが、多くのひとにとって幸せな社会なのではないかということである。日本の若者のなかばはすでに「農民工」化している。
 われわれは自分の人生を自分で決める近代人たらんと努めてきた。しかし、それは失敗したのではないか? 今まで、差別は女性を「二級市民」とすることで機能してきた。しかし労働力不足が顕在化したヨーロッパでは女性の社会進出をバックアップするとともに移民をも積極的に活用するようになってきている。しかし日本は移民を拒否しつづけている。だから「女性」のつぎは「若者」を「二級市民」にしようとしているのである。
 低賃金でも仲間たちとそこそこに過ごしていくという選択に満足している若者。しかし「近代」はつねに「戦争」と裏表の関係にあったことを忘れてはならない。でも、戦争がはじまったら逃げてしまえばいい、日本が負けたってそこでひとが生き残ればいい、そう思っている若者たちを古市氏は肯定しているようである。
 
 今でもそうなのかはよく知らないのだが、日本の標準家庭というのは男が働いて女が家庭にいて子供が二人いるというものだったと思う。「専業主婦に敗者復活戦はない」といったのは小倉千加子さんだっと思うが、その小倉さんは「結婚の条件」で、「保育所の数が足りないから未婚女性が子どもを産みたくないと思っていると思うか?」ときくと、女子大生全員が一笑に付した、ということを書いている。そんなことは子どもを生むかどうかとまったく関係がない。すべては「結婚」が問題。幸福な結婚でなければ結婚も子育てもしないほうがましとみな思っている。「不幸な結婚生活」ほど恐ろしいものはない。「超金持ちのブタ男と、超かっこいい貧乏男とだったら、どっちと結婚する?」⇒全員「どちらともしない。一人で生きていく。」 「超金持ちのそこそこ男と、超かっこいい貧乏男とだったら?」⇒全員「そこそこ男」 これが結婚を先延ばしにさせ、少子化を進行させていく。女たちが結婚すること母となることに静かな反乱をはじめているのだ、と。本書でも書かれているように日本は婚外子が異常に少ない国である。「できちゃった婚」という言葉がある国である。子どもでもできなければ、結婚に踏み切れないということかもしれないし、子どもができたら結婚への風圧が異様に高くなる国なのかもしれない。
 わたくしも最大の少子化対策は、婚外子への差別を一切なくすことであると思っているけれども、そういうことをしたら「美しい日本」の「うるわしい家族制度」という美風が崩れると本気で思っているらしい安倍首相などの「日本は特別の国」派が日本の中枢にいる限りは、それは絶対に無理なのだろうとも思っている。
 小倉さんはいう。「はじめに自分を騙していなければ「女」にはなれない。自分は打算的な女ではない、打算的な女は他にいる。そうマジで思っていなければ、専業主婦として成功することはできないのだ。」「女は男と対等なのではなく、女だからこそ働かなくても食べていける特権を与えられているのだ。女が女の資源を使って何が悪い、という声が聞こえてくる・・」 そういう小倉さんが描くしたたかな女性と、本書で描かれたナイーブとしかいいようのない若者の姿が、ともに同じ国に住んでいるひとたちの姿でであるとは俄には信じられないくらいである。今の若いひとたちは「寂しさ」の回避ということを最優先にしているということなのであろう。
 村上龍は「寂しい国の殺人」で「日本人の中心的な感情が“悲しみ”から“寂しさ”に変わりつつある」ということをいっている。敗戦と貧しさの“悲しみ”から、国家的目標の消失の次に来るべき個人的な価値観と目標を未だに見いだせないという“寂しさ”へ。村上氏は「貧しさによる悲しみが消えて、寂しさに変わったことは基本的には進歩である」という。古市氏は、若者たちは貧しかった成長期に戻ることを望んではいず、物質的に豊かである現在を肯定しているが、その上で「寂しさ」を回避するための「仲間」とのつながりに最上の価値をおいているとする。しかし「もう国家的な目標はない、だから個人としての目標を設定しないといけない、その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ」というのが村上氏のメッセージである。自分を支える仕事があれば寂しくない、ということである。古市氏の本にはそのようなメッセージは一切ない。
 村上氏がいうのは日本は近代化が終わった、ということである。近代化が終われば、国家の目標が消失するのだから、価値観も国からあたえられることはなく、個々人がそれぞれで作り出さなくてはならない。古市氏がいうのは、国や会社や家庭という共同体がこわれても(あるいはこわれたから)仲間との「つながり」が共同体の代用として必要とされているということである。ここにないのは自立した個人、強い個人である。村上氏がいうのは自分で自分を尊敬できるようになるためには、それの支えとなりうる仕事を持てということである。個人になれば孤独になるのは当たり前、寂しいのは当たり前ということで、たとえば吉田健一はいう。「孤独は・・皆で集まって陽気に騒ぐということの反対で、いつも多勢のものと一緒にいることの最も大きな魅力は真面目にならないでいられることにある。」(「文学の楽しみ」) あるいは橋本治はこういう。「自分の頭でものを考えて、それで孤独になるのなんか当たり前のことじゃないか。」(「宗教なんかこわくない!」) 小倉氏の描く女性は自分を支える仕事などという考えははじめからなくて、自分をささえてくれるモノを自由に買える資力を提供してくれる男との結婚を目指している。古市氏の描く若者はそこそこにモノが買える資力と一緒に騒げる仲間たちを求めている。小倉氏の本の女性はモノで自分を肯定できるふてぶてしさを備えているが、古市氏の描く若者たちは仲間がいないと不安である。孤独には耐えられない。だから弱い。
 本書を読んで感じるのは、そこに描かれている若者像のひ弱さである。こんなので大丈夫かなと思ってしまう。この本を読んで、絶望的にみえる国に生きていながら幸せであると感じている若者という不思議な現象の一端は理解できたように感じた。しかし「若者を見殺しにする国」で悪態をつく赤木氏のほうがまだまともなように感じた。こんなに温和しくて本当にいいのだろうかとどうしても思ってしまう。
 

結婚の条件

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寂しい国の殺人

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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宗教なんかこわくない!

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若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

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