今日入手した本 勢古浩爾「さらなる定年後のリアル」

 
 勢古氏の本はときどき読んでいる。ごく普通のどうということのない生をおくっているが、たまたま本を出す機会に恵まれたので時々書いているというような方かと思う。わたくしのおそらく同年齢の方である。
 氏に「ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語」という本があって(ちくま文庫)、氏が選んだ吉本隆明の言葉のトップに挙げられているのが以下のような語である。

 結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値のある存在なんだ。

 「敗北の構造」という本の中の文章だそうだが、わたくしは読んでいない。勢古氏の文筆活動を支えているのもこの言葉なのだと思う。勢古氏は「世界のどんな大思想家も大作家もこのようなことをいったものはいない(とおもう)」と書いているが、これは広い意味ではニーチェに連なる言葉なのではないかと思う。一見「超人」とは正反対ではあるが、「超人」は今に生きる人であって、自己完成とかいう未来志向とは無関係な人である。
 上記の言葉は有名な?「大衆の原像」とも結びつくはずで、この言葉は多くの「大衆を善導する」などということことを考えていた知識人を薙ぎ倒したわけである。知識人などというのは別の「非知識人?」となんら変わるところのない存在で全然偉くないのであるが、同時にある種の人たちが知識人となってしまうことはやむをえない仕方がない現象でもあるという論理で、吉本氏は知識人を否定し、同時に救済した。鹿島茂さんとか糸井重里さんなどというおよそタイプが違った人たちが吉本教?信者になるというのは、鹿島さんとか糸井さんというともに「知識人」であるひとに吉本氏が居場所をあたえたのだと思う。そして勢古氏もまた「知識人」なのである。しかし同時に普通の会社勤めをし、定年になった人でもあって、そういう生活者としての自分が書く意味があると信じるのでこういう本をだすのだろうと思う。
 わたくしなどは、上記の吉本氏の文から連想するのは次のような吉田健一「時間」の冒頭なのである。

 冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。

 勢古氏が文章を書くようになったきっかけは、おそらく「毎日21世紀賞」の受賞ということだったのだろうと思うのだが、わたくしもそれへの応募をきっかけにホームページやブログに文章を書くことを始めたので、その点でも親近感を感じるのだと思う(勢古氏は入選、わたくしは予選通過のみというのが大違いなのであるが)。