(2)神様

 

 一体、我々に西洋風の罪の意識があつてどうなるといふのだらうか。・・西洋人は神の観念や罪の意識の重荷に堪へかねてそれを少しでも堪へ易くする為にその文明を生んだのであり、それならば、この意識や観念は西洋の文明がそこから発したもとの野蛮である。

 (1)に続いて、もう一つ「文句の言ひどほし」から。上記の・・の部分には、「これ(西洋風の罪の意識)は、西洋の啓蒙主義者達が何とかして西洋人の意識から除かうと願つたものである。尤も、これは西洋も西洋でなくなれと言ふやうなものでもあつたので、この意識を背負はされた西洋人はそれなりにその文明を築いた。それ程根強いものでなければ、罪の意識も役に立たないものであつて、必要悪といふのは、それなしでゐることが考へられないもの以外にとつては、単なる悪」と続く。
 わたくしは随分と長いあいだ、啓蒙主義者というのは、自分がすでにものを知っていると思いこんで、自分から見るとまだものを知らないと思われるひとに偉そうに教えを垂れる、何とも嫌らしい人間のことだと思っていた。まあ、ほとんど進歩的文化人というのと同じようなものだと思っていたのである。それでポパーの次のような文を読んだときはとても驚いた。「「啓蒙とは何か」とヴォルテールは問い、そして次のように答えています。「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」」 つまり、啓蒙主義者というのは、自分が何かを知っていると思っているひとではなく、自分が何かをかりに少しは知っているとしても、本来知らなければならないことの大きさに較べればまことに微々たるものであることを自覚している謙虚なひということになる。わたくしは吉田健一に惹かれると同時にポパーにも惹かれてきたが、このまったく肌合いの違う、ほとんど共通するところのないように見える二人になぜ惹かれるのか、よくわからないままできた。それがあるとき、二人とも啓蒙の流れの中にあるひとということで共通していることに気づいた。
 ヴォルテールが実際に謙虚なひとであったかどうかは疑問だし(フォースター「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」(「フォースター評論集」所収))、ポパーが謙虚な人間であったかどうかもまた大いに問題(タレブ「まぐれ」)だから、吉田健一が謙虚なひとであるかどうかも知らない。ただただ謙虚なだけのひとが文筆家として一家を成すことはないだろうと思うばかりである。
 しかしとにかくもわたくしが惹かれるひとは広い意味での啓蒙派にぞくするひとであることは間違いないと思うようになった。そしてわたくしの理解では啓蒙派とは西洋を文明化しようとした人たちのことで、彼らが克服しようとした野蛮がキリスト教なのである。ギボンにとって「キリスト教というものが一種の狂気にしか見えなかった」のであり、「古代に属する人間にとってキリスト教は明かに狂気の沙汰である他なかったのであり、その狂気が十数世紀も続いたならばヨオロッパがヨオロッパであるには古代の理性が再び働いて均衡の回復を図らねばならなかった」(「ヨオロッパの世紀末」) しかしそうであるとしても、キリスト教以外にも文明の敵はあって、それは広い意味での「観念」なのであり、そして「観念」の対語が「理性」なのである。
 そこで問題が生じる。「科学」というのも「理性」の産物なのだろうかということである。もしも「科学」というものですべてが理解されると思っているひとがいるとすれば、それは啓蒙派から見れば「野蛮」の人であろう。ドーキンス対グールドという問題を考えて見る。わたくしから見るとドーキンスは究極には「科学」によってすべてが解明されると信じているように見える点で、「観念」派であり「野蛮」の人である。一方、グールドはキリスト教的なものをすべて否定してしまうと西洋の文明の基盤が崩壊してしまうと信じているであろう点では理解はできるとしても、われわれ非=西洋に生きる人間にとってはやはり「野蛮」に見えてしまう。つまりドーキンスもグールドもともに西洋の人であって、西洋は啓蒙派が努力を重ねてきたにもかかわらず、やはりいまだに「野蛮」のなかにあるということなのではないかと思う。
 21世紀が「理性」の世紀になるのか? それはいたって疑問であるかもしれない。むしろ「宗教」の世紀になるのかもしれない。「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることではないだろうか。」(フォースター「私の信条」) 休止期間は終わろうとしているのかもしれない。何かが箱の中から出てこようとしているのかもしれない。
 

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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フォースター評論集 (岩波文庫)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

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