日本文学全集 08 日本霊異記 今昔物語 宇治拾遺物語 発心集

 書店で何気なく 町田康訳の「宇治拾遺物語」を立ち読みしていたら、とても面白く買ってしまった。
 最初の「道命が和泉式部の家で経をを読んだら五条の道祖神が聴きに来た」の冒頭。「これはけっこう前のことだが、道明というお坊さんがいた。藤原道綱という高位の貴族の息子で、業界でよいポジションについていた。そのうえ、声がよく、この人が経を読むと、実にありがたく素晴らしい感じで響いた。というと、ああそうなの。よかったじゃん、やったじゃん、程度に思うかも知れないが、そんなものではなかった。じゃあどんなものかというと、それは神韻縹渺というのだろうか、もう口では言えないくらいに素晴らしく、それを聴いた人間は、この世にいながら極楽浄土にいるような心持ちになり、恍惚としてエクスタシーにいたるご婦人も少なくなかった。/ そんなことだから、道命は貴族社会のご婦人方の間ではスターで、道命と一夜の契りを結びたいというご婦人が常時参集して、手紙なんかを送りまくっていた。」
 「くっすん大黒」から「パンク侍、斬られて候」「告白」に至る町田節全開である。続きが読みたくなりますよね。で、続き。「けれども道命はお坊さんである。いくらファンのご婦人が参集して入れ食い状態だからといって、そのなかの誰かと気色の良いことをするなんてことはあるはずがない。やはりそこは戒律を守り、道心を堅固にして生きていかなければならない。のだけれども、やはりそこはなんていうか、少しくらいはいいかなあ、というか、あまり戒律を守りすぎても、逆に守りきれないというか、そこはやはり、すべてか無か、みたいな議論ではなく、もっと現実に即した戒律の解釈というものが必要、という意見も一方にあるため、道命としてもこれを無視できず、少しくらいの破戒はやむを得ないという立場をとって、必要最低限の範囲で女性と遊んでいた。ただし、道命くらいに持てる僧だと、必要最低限といっても、その値は結構大きく、普通の人から見れば完全にエロ坊主、という域に達していた。」 原文はどうなっているのだろう?
 「宇治拾遺物語」は13世紀前半の成立なのだそうだけれども、このころには日本人はもう世俗的というか現世的というか、超越的なものとは縁が切れている感じである。それなら、鎌倉仏教とかはいったいどうなっていたのだろう。親鸞も13世紀前半の人ではなかっただろうか? 「そこはやはり、すべてか無か、みたいな議論ではなく、もっと現実に即した戒律の解釈というものが必要」なんていうあたり、最近読んでいるトウ小平を想起した。
 町田康氏は超越的なものへの親和がとても強いひとで、落ちるところまで落ちて、そのことがそのまま救いにつながるという方向の人と感じるけれども、「宇治拾遺」はそういう方向には見えない。人間万事色と欲という方だろうか?