J・メイナード=スミス「生物学のすすめ」

生物学のすすめ (ちくま学芸文庫)

生物学のすすめ (ちくま学芸文庫)

 1990年に刊行された本の文庫化らしい。書店で偶然目にしたものだが、ぱらぱら見ていたら、ポパーについての記載があったので買ってみることにした。
 ポパーの「果てしなき探求―知的自伝」の第37章は「形而上学的研究プログラムとしてのダーウイン主義」と題されている。そこに「ダーウイン主義はテスト可能な理論ではないが、形而上学的研究プログラム ― テスト可能な科学的諸理論にとっての一つの可能な枠組 ― である、という結論に私は達した」とある。
 ポパーは科学的理論は、もしもこのようなことがテストで示されれば、自分の理論は否定されるということをその内に含んでいなくてはならないが、ダーウインの進化論は、そのようなテストを提示しないので科学的理論ではないという。
 このポパーの論は進化論が嫌いな創造論のほうの陣営のひとが好んで引用して、科学哲学の大御所のポパーも進化論は科学的理論ではないといっているのだから、それを科学的事実であるかのように教育の場で教えるのはおかしい、それは神が現在のままの形に世界を創造したとする立場と特に優劣のない一つの主張にすぎないというようなことをいう。これは滅茶苦茶な論で、進化論は進化というものを説明する仮説であるのだから、進化論を論じるひとは進化というものがあったことを議論の前提として認めている。創造論の側の人は進化というもの自体がなかったとするのであるから、進化というものがあったとすれば、その論は否定されるわけで、創造論こそが反証可能な枠ぐみを持つ論で、進化があったという事実によってそれは否定される。創造論の側の人たちがいっているのは、ダーウインの進化論が否定されるならば、進化というもの自体がなかったことになるというような逆立ちした議論なのである。ポパーもいうように「私は進化論に常に絶大な関心を抱いてき、進化を事実として進んで認める気があった」ということであるならば、進化は事実の問題であって、理論はその事実の上にでてくるものである。
 メイナード=スミスは、「私はダーウイン主義を厳密にポパー学説の鋳型にはめようと試みるのは誤りだと思います」といい、「ポパーの哲学は所詮は物理学の研究に由来するものなのです」といっている。進化がおこったのだというダーウインの主張はポパーの規範にあてはまるが、それが自然淘汰によるものがという主張はそうではないという。つまり淘汰というものだけですべてを説明できるとはダーウインは考えなかったので、自然淘汰に反する事実がかりに提示されたとしても、ダーウイン説を否定することにはならないという。ただ現在の学問の趨勢は自然淘汰でほとんどすべての進化という事実を説明できるようになってきているので、結果的にはダーウイン説はポパーの規範にも当てはまるようになってきているとしている。
 ポパーが物理学の畑のひとである、というのはその通りであると思う。アインシュタインが偶像なのであるから。生物学というのは、いまたまたまこのようになっている生き物がそのようであることを説明する学問ではあっても、生き物はこのようでなければならないことを説明する学問ではない。物理学は宇宙のどのような場所においても適応される学問を志向しているはずであるが、宇宙に数多ある生き物のいない星では生物学は必要とされないのである。ひょっとするとこの宇宙で生き物が棲息する星は地球だけであるかもしれないので、生物学は普遍的学問であることはそもそもありえないとすれば、進化論にかぎらず、生物学がポパーの規範に従うことがありえない。生物学自体が進化を前提にしなければ成立しないのだから、その区別をとやかくいっても仕方がないとも思うが。
果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)