C・カレル「すべては1979年から始まった」(3)第3、8、16、19、22章 アフガニスタン

 
 本書によれば、現在のわれわれはアフガニスタンではずっと以前から戦禍の続いているように思いがちだが、1970年代に紛争がはじまるまでは、現在のバリやブータンのようなヒッピーの集う土地の一つだった。
 その貧しいアフガニスタンは東西からの援助によって近代化しようとしていた。冷戦の中で、「非同盟主義」としてどちらにも荷担しないことによって、アメリカに留学し、ソ連で技術者を養成し、ダムや学校が援助で作られ、ソ連からは天然ガスのパイプラインが引かれた。しかし、援助に依存して、自ら変わろうという意欲には乏しかった。投資の80%が海外からの資金に依存する金利生活者国家だった。民族は多様で、土地は高い山々で分断され道路さえ繋がっていなかった。それでアフガン人は政府というものをあまり意識せず、生活は部族社会がとりしきっていた。バラバラになりそうなそれらをかろうじて結びつけていたのがスンニ派イスラム教であった。しかし宗教も中央化はせず、宗教指導者も政治には関与せず、政治は王制によっていた。ベールの着用は任意となっていたが、文句をいう宗教指導者もいなかった。
 73年、国王の従兄弟が王政を廃止するクーデターをおこした。目標は近代化とパシュトゥーン人の支配する国であった。隣国のパキスタンにはパシュトゥーン人が多くいたため、パキスタンアフガニスタンとの国交を断絶した。その結果アフガニスタンソ連に接近することになる。しかしアフガニスタン共産主義政党は内紛をくりかえしていた。
 この時代、先進国では共産主義の魅力は失せていたが途上国ではそうではなかった。大規模な工場、舗装された道路、ダム、識字率の向上、近代的な軍備への近道は共産主義であると思われていた。
 クーデターをおこした人物はイスラム教になんら共感を抱いていなかった。しかし、60年代後半からアフガニスタンにでてきた共産主義組織をモデルとする「ムスリム青年団」という若者たちの組織は、イスラム法が君臨するイスラム国家をめざしていた。その組織はクーデターで迫害されパキスタンに逃亡した。クーデター政権は、75年ごろにはソ連から距離を置くようになり、その方向はイスラム圏からは歓迎された。(以上、第3章)
 1978年、クーデターによって大統領になった人物は共産主義政党を非合法化した。これはソ連との全面対決を意味した。これがあるのを予想して、ひそかに対応を準備していた共産主義政党が今度は政権を握ることになった。しかしその党は分裂していた。漸進派と急進派である。
 共産主義政党政権がめざした教条的な男女平等化などの施策は多くの反発を招いた。土地改革もアフガニスタンの現実を無視したものだった。共産主義者無神論者であると、多くのアフガニスタン人が考えた。
 共産党が政権をとることなど予想していなかったソ連はこのような動向を歓迎していなかった。むしろ、呆然としていた。だがとにかくも新しい政権が、今までのアフガニスタンへのソ連の投資を無にしない方向であることには安堵していた。一方、多くのアフガニスタン人は無神論者のソ連に反発を感じていた。やがて地方から反乱がはじまった。
 当初、その反乱は散発的なものであったが、次第に拡大していった。(以上、第8章)
 ソ連の東欧支配は計画的なものであったが、アフガニスタンについてはそうではなく、ソ連は、今後の展開になんらの青写真ももっていなかった。それで、現地の政権の教条的な改革政策をただ黙認するしかなかった。政権内部の対立にも頭をいためていた。
 1979年になると、イランとの国境近くの大都市での反乱を政権は制御できなくなった。イランでのイスラム革命の影響は、国境を越えてアフガニスタンにも及んできていたのである。ソ連は直接介入せざるをえなくなってきた。
 一方、中国はソ連との対抗するうえでアフガニスタンに注目し、サウジアラビアオイルマネーを背景にイスラム教の保護者としてふるまうことを目指していた。カーター政権下のアメリカはアフガニスタンでの紛争の拡大をソ連の影響力を低下させるものと期待していた。だがみな、アフガニスタンの反乱者たちがホメイニニーのイランと同じ方向を目指していることには気づかなかった。
 近代化に遅れたイスラム圏の知識人の多くが西欧風の近代化を目指したのに対して、イスラムがすべてであり、コーランの教えの復活と再生が肝要と考えるものも一部にあった。19世紀の終わりのアルアフガーニーもその一人で、後にホメイニーに大きな影響をあたえたシャーアバディはその弟子である。1928年には「ムスリム同胞団」ができ、「イスラムこそすべての解決策である」と唱えた。
 1903年インド生まれのマウドゥーディーは、イスラム教は革命的なイデオロギーであり、革命的な実践である、としてイスラム国家への聖戦を唱えた。彼はイスラム法シャリーア)が統治する国家を目指した。
 エジプト人のクトゥブも1948年派遣されたアメリカで、その物質主義、享楽主義、男女のたわむれに深く失望した。その説は急進派を鼓舞した。その説によれば既存のイスラム世界の指導者はすべて背教的なのだった。彼はレーニン主義的な革命的前衛の概念に学んだ「大義に命を捧げるひたむきな信者の小集団」を組織した。その思想の流れの中から、ウサーマ・ビン・ラーディンがでてきた。
 第三次中東戦争でアラブ連合が壊滅的な敗北をきっすると、ナセル流の社会主義的アラブ統一論は後退した。75年のレバノンイスラム主義の最初の戦場となった。
 1970年代にアラブ諸国におけるイスラム教復興は「サフワ(覚醒)」として知られるようになった。
 アフガニスタンもこの影響を受けた。1969年にはムスリム青年団ができた。それは伝統的な宗教指導者によるものではなかった。(以上、第16章)
 1979年ついにソ連アフガニスタンに直接的に軍事介入をする。だがそれはイスラム・ゲリラを活発化させることになった。アフガンニスタンに派遣されたソ連軍は、アフガニスタンで自分達が歓迎されていない事実から、戦意が低下していった。それでも圧倒的な軍事力で1985年には戦いはソ連に有利になっていた。だが、当時すでにソ連の国力は低下しており、アメリカが反乱軍を援助しはじめると、劣勢に陥っていった。ソ連には軍事費が重い負担になっていった。(以上、第19章)
 1989年、東欧の崩壊にみな注目していたので、パキスタンでおきた暴動が注目を集めることはなかった。反ソ連無宗教のロシア人に対抗しようとするイスラム教徒がパキスタンペシャワールに集まっていた。
 11月24日アッザームという宗教学者が暗殺された。彼は、アフガニスタンでの戦いを聖戦であると主張していた。彼は聖戦への参加をイスラム教徒の義務であると唱えていた。ビン・ラーディンもその弟子の一人であった。
 ソ連アフガニスタン侵攻は、イスラム急進派を育てることとなった。ソ連の撤退後、中央集権的な支配は消失し、そこからタリバンなどが台頭してきた。(以上、第22章)
 
 このブログの前身となるHPに本の感想を書き始めたのが15年くらい前で、その最初のほうに、アフガニスタン関係の本にいくつか言及している。一つがマフマルバフというひとの「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」というもので、著者はイラン人の映画監督でパーレヴィ王制打倒の地下活動で投獄されるが79年のイスラム革命で釈放されるという経歴の人である。その本での説明によれば、もともとはアフガニスタンはイランの一部であったが、250年ほど前にイランのシャーが暗殺されたときに、そのシャー麾下の将軍が逃げて当時のイランの一部の独立を宣してつくったものなのだそうである。もしそういうことがなければアフガニスタンは今でもイランの一部であり、イランの石油資産に依存する近代化の路線のなかにはいった可能性もあるのだ、と。
 この奇妙なタイトルは「一切れのパンを求める民を前にして、バーミヤンの仏像は自分の偉大さなど何の足しにもならないと恥じた。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて、自ら崩れ落ちたのだ」というような意味で、「石像は崩れ落ちることで瀕死にある国を指さした。だが、誰もそれを見なかった」「ターリバーンは遠くから見れば危険なイスラーム原理主義だが、近づいて個々を見ればそれはパシュトゥーンの飢えた孤児である」ともある。
 わたくしがこのころアフガニスタンにかかわる本をいくつか読んでいたのは、タリバンというものの出現、それによる女性へのブルカの強要など、まったくどう理解していいのか見当もつかなかったということがあり、もちろん9・11の影響がある。訳者のひとりの渡部良子氏は著者のマフマルバフについて、「あとがき」で「欧米的な偏見」を持っているのではないかという指摘をしている。多民族国家の「部族的」な文化よりも現代風な国民国家より下に見ているとか、ブルカの着用を女性抑圧の象徴とみるような姿勢がそうだというのである。おそらくここには文化相対主義、あるいはもっと広くポストモダン思想の問題もからんでくるように思うが、わたくしが「欧米的な偏見」の持ち主であることは間違いないので、ブルカの着用の強要など、何という時代錯誤と思ってみていたことは間違いがない。
 村上龍の「希望の国エクソダス」で、2001年の6月にパキスタンアフガニスタンの国境近くで日本人の16歳の少年が、「以前は日本人だった。今はパシュトゥーンの一員だ」といい、日本を「あの国には何もない、もはや死んだ国だ」といって、一方そのパキスタン北西部の土地には「すべてがここにある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある」という場面がある。この辺りはロマンチストとしての村上氏の尻尾が露骨に出てしまっている部分のように思うが、村落共同体的なものへの嫌悪をバネとしている村上氏が部族共同体的なものに親近感を隠さないのが不思議である。日本は農耕民族だから駄目で、パキスタンアフガニスタンは狩猟民族だからいいということになるのだろうか? この少年の言葉は、今、ヨーロッパで自国を捨ててイスラム国に向かう少年少女たちの誰かが言ってもおかしくないものであるように思う。そして日本には何もないのかも知れないが、食べ物はあふれていて、一方アフガニスタンには「生きる喜びのすべて」があるのかしれないが食べ物がなく飢えて死んでいくものが多数いるのである。だからこそ仏像も何もできない自分を恥じて自ら崩れ落ちる。
 マフマルバフの本によれば、ソ連の侵攻からの20年で約250万人が殺されるか、死んでいる。原因は軍事的攻撃と餓死あるいは医療設備の不足である。アフガニスタンの5人に一人がそれによって死んでいった。人口の10%が殺され、30%が故国を逃げ出した。
 この頃、同じく読んでいたものに中村哲氏の「医者 井戸を掘る」や「アフガニスタンの診療所から」がある。中村氏は医者でアフガンに医療者としていったが、医者をしていても仕方がないとして井戸を掘り出したひとである(「医者 井戸を掘る」の副題が「アフガン旱魃との闘い」)。旱魃に必要なのはまず水である。医療ではない。中村氏は「生身の人間より死んだ遺跡に執着する方が異様に思えた」と書き、「タリバンはやりすぎです。イスラムはそんな狭い教義ではありません」という意見も紹介している。
 小室直樹氏の「日本人のためのイスラム原論」も同時多発テロに触発されて書かれたものだが、そこで「イスラム教では、宗教とは法である」「法とは神との契約である。神との契約は宗教の戒律であり、社会の規範であり、国の法律である」とあり、「イスラム教の信者にとって、法を守ることは、そのまま神を信じることにつながる。法を守ることによって、ムスリムは容易に安心立命の境地に達する」とある。わたくしなどがイスラム法というのがどうにも理解できないのは、法というとローマ法的なものをすぐに頭に浮かべるからで、聖職者が社会のすべてのありかたの規範を決定するというのがどのようにしても腑に落ちてくることがない。
 「イスラム教はキリスト教と違って、原罪論およびイエスの贖罪による人間の救済、三位一体説、神の母マリアなどの奇態きわまりない教説を持たない」ので誰にでも至極分かりやすいと小室氏はいう。吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」に「ギボンにキリスト教というものが一種の狂気にしか見えなかった」という文があり、忘れられない。あるいは「古代に属する人間にとってキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかった」という部分も。小室氏がいうのはイスラム教にはそういう不可解な部分がないということなのだろうが、それでもイスラム教も宗教である。
 そして小室氏は、「そのイスラムにとって「近代化」だけはどうも鬼門であるらしい」という。この「すべては1979年から始まった」のテーマは近代化とそれに対する抵抗ということであろうと思う。そしてもう一つのテーマが、今はもう無くなってしまった?共産主義国家とその思想が後に残したものであろう。例えば、今のジハードという思想への共産革命への前衛党の思想の影響、とか。
 アフガニスタンへの介入はソ連の崩壊を早めることになったらしい。と同時にここでのソ連への勝利がイスラム社会に大きな自信をあたえることにもなったらしい。一方、ベトナムへの介入はアメリカ社会に大きな影を落したとしても、それを崩壊させることはなかった。そしてベトナムでの勝利が東側に自信をあたえ、それを賦活化することもなかったようである。
 国というと国民国家のような形態しか思い浮かべることができないわれわれには、多民族多言語のアフガニスタンのような国を理解することができない。そしてかろうじてそれを一つに結びつけている宗教というものもピンとこない。およそここに描かれているアフガニスタンは日本とは正反対の位置にある国(?)のようである。
 どのような非道な政権であっても、秩序を維持できる強権を持つ存在がどこにもないのに較べれば、あったほうがまだましなのだろうか? アルガニスタンの旱魃と飢えはその後、どうなってしまっているのだろうか? アフガニスタンは平均寿命がもっとも短い国の一つらしい(50歳以下)。
 著者のカリルもまた西欧のひととして近代化の信奉者である。豊かになることが堕落であるという見解には与していない。しかし、「精神」と「物質」という対語があって、「物質」面での向上(豊かになること)が、ほぼ必然的に「精神」の堕落をまねくという見解もある。「近代化」というのがほぼ「物質」面にしかかかわれないのであれば、近代化に安住するものはすでに「精神」的な堕落の道を歩んでいるという見方も当然でてくる。太平洋戦争前から戦時の日本は明治以来の「近代化」への「錯乱」をおこしていたという見方もあるだろう。当時の日本は外からは今のイスラム国のように見えていたかもしれない。
 タレブ(レバノン人)の「ブラック・スワン」に以下のような部分があった。「1000年以上にわたって(レバノンは)、十二以上の宗教、民俗、思想を持つ人たちが暮らしていた。そんな場所が魔法みたいにうまく回っていた。・・ときどき起こる小さな紛争は、ほとんどがキリスト教イスラム教徒それぞれのコミュニティ内でのいざこざで、キリスト教徒とイスラム教徒が争うことはめったになかった。・・銃弾と迫撃砲が数発飛び交って、レバノンの「天国」は一瞬で消えてなくなった。・・十三世紀近くに及ぶ素晴らしい多民族の共存の後に、どこからともなく黒い白鳥がやってきて、かの地を天国から地獄に変えた。キリスト教徒とイスラム教徒が激しい内戦を始めた。・・争いは十五年以上も続いた。」 要するに未来はわからないということである。この「すべては・・」に書かれていることもみな後知恵である。後から考えれば線は繋がる。しかしその中にいるひとには未来は少しも見えないのである。
 ある時期、多くのひとが世界は大きくいえば「近代化」「西欧化」のほうに向かうと信じていた。しかし、現在では、それはかなりの疑いの目でみられるようになってきているのではないだろうか?
 

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  • 作者: モフセンマフマルバフ,Mohsen Makhmalbaf,武井みゆき,渡部良子
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
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