藤野英人「投資家が「お金」よりも大切にしていること」海星社新書 2013年

 
 読んでいるときはとても面白かったのだけれども、感想を書いているうちになんとなくすっきりしないものを感じるようになってきた。面白かったのはわたくしがここで指摘されている典型的な日本人の一人と感じるからであろうし、すっきりしないのは、著者があまりに直線的に、個別の事例を一般化しすぎて論じていると感じるからなのであろう。ということで以下の文は長いにもかかわらず、方向がよくみえない議論になっているだろうと思う。
 著者によれば、「カネ儲けは悪だ!」「日本人はお金に清く、真面目である」「外資系企業はまさにハゲタカ」「助け合いこそ、日本人の美徳」「ITや金融、コンサル業は虚業にすぎない」「ブラック企業が日本をダメにしている」「投資は汗水たらさないマネーゲーム」「「失われた20年」のせいで日本の未来は暗い」といった日本の多くのひとが首肯するであろう見解はすべて間違っているのであって、それらを糺すことが喫緊の課題であるということでこの本が書かれたということらしい。といってもこれが書かれたのはもう3年ほど前で、わたくしはこの本を知らなかった。著者はファンドマネージャー、つまり、いろいろなひとから集めたお金を運用する仕事で、それをもう20年以上しているとのことである。
 ここでも「すべて間違っている」といいきってしまうところから問題がでてくるので、三分は正しいかもしれないが、残りの七分は間違いくらいに言っておいたほうが現実に近づくのではないだろうか?
 氏がいうには、日本にもいくらでも発展性のある会社はあり、投資をするならばそういうところがいいことは見る人が見ればわかるのであるが、そこは規模が小さく無名であることが多いので、大きな投資会社の属するサラリーマン的な投資担当者は、自己責任でそこに投資して万一うまくいかなかった時には責任をとらされるので、有名な大企業の株などを推奨する。そうしておいたほうが無難なのである。しかし無難を選ぶことが、結果として業績が悪い会社が延命し続けることを助ける。それが日本の混迷が続く原因となっていると藤野氏はいう。
 あるひとがコンビニで150円のペットボトルを買う、ということからこの本ははじまる。そのペットボトルが最終的にそのひとにわたるまでにどれほどたくさんのひとがそのペットボトル生産にいろいろとかかわっているかということがいわれる。稼いだり、貯めたり、増やしたりよりも、まず使うことが大事である、と著者はいう。
 著者が教えている大学の商学部の授業で、開講の最初にアンケートをとると8割が投資=ダーティー、お金儲け=悪と思っていることがわかるという。また地方にいくほど、お金の話をすると顔をしかめるひとが多く、「汗水たらして真面目に働かないとダメでしょ」と説教されることも多いのだという。しかし、と著者はいう。日本人はお金が大好きな民族で、こういう反応はお金好きの裏返しなのだ、と。
 世界で比較すると日本は個人金融資金の内訳で、現金・預金の率が55%でダントツに多い(アメリカ15%、イギリス32%、ドイツ39%、フランス31%)。 他の国では有価証券や株式の比率が高い。つまり日本人は現金と預金が大好きなので、これらのお有効にはまったく利用されずにだた眠っているのだという(わたくしの理解では、われわれが銀行にお金をあずけると、お金はそこで眠っているのではなく、さまざまな会社に融資されることに使用されるのだと思うのだが、違うのだろうか?)。
 次に日本人は世界一ケチであるという。なぜならアメリカでは年間で成人一人あたり約13万円の寄付をするが、日本人はそれに対し、2500円であるから。アメリカのわずか52分の1である。イギリス人は年間4万円。日本人は先進国の中でもっとも寄付をしない。これはわたくしについてもその通りで、そもそも寄付をしようとする発想がない。WIKIPEDIAに少し寄付しているくらいだろうか。どうしてだか自分でもわからないが、赤い羽根共同募金とかいうのも大嫌いでしたことがない。自己弁護するならば、わたくしが寄付という行為が嫌いなのは、日本での寄付は割り当て方式というのか、あなたは何年卒業だから最低幾ら以上お願いしますといった形で来る場合が多く、個人の意志ではなく集団構成員としての義務としてである場合がほとんどであることに由来するように思う。
 以上のようなことから、著者は「日本人は、自分のこと、自分のお金のことしか考えていない。自分のお金を現金や預金として守ることしか考えていない」という。これを守銭奴といわずしてなんと言えばいいのでしょうか? そう著者は慨嘆する。しばらく前にアメリカの投資ファンドブルドックソースの株を買い占めしようとしたことがあった。日本人の多くが投資ファンドをハゲタカである。金の亡者だと怒った。しかし著者によれば日本人こそがハゲタカである。数年前日本人はブラジル株を猛烈な勢いで購入した。今は逆に猛烈に引き始めている。こういう態度もまたハゲタカなのではないか? なぜなら自分がお金を通じて社会に参加しているという意識、それに伴って責任が発生しているという意識が乏しいからである。ブラジルの通貨や経済を混乱させているという認識がない。
 海外では、投資信託は20年から30年のスパンで持ち続ける。しかし日本では2〜3年で、世界でもっとも投資の回転率が高い国といわれている。日本人は真面目でない。本気でなく、真剣でなく、誠実でない。
 だいぶ以前(1997年頃?)にアジア通貨危機というのがあったと記憶している。ソロスさんなどという投資家とか(わたくしがこの人の名を知っているのは、ポパーで弟子を自称しているから)なんとかファンドといわれる人たちが、通貨を売ったり買ったりして、アジアの国の多くが被害を蒙り、インドネシアと韓国はIMFの管理下に入ったのではなかったかと思う。そしてさらにそれに関連してアメリカのLTCMという投資会社?も破綻した。この会社にはノーベル経済学賞をとったひと二人が関係していて、レバリッジとかデリバティブとかいうわけのわからない言葉を盛んにきかされた。
 その時にきいた話では、モノを作ったり運んだり売ったりするのに必要なお金(実需?)をはるかに超えるお金が世界中で動いていて、それを少なくとも減らさない、できれば増やすために短期にあちこちを移動しているのだというようなことであった。こういうのと投資信託が長期に保有されるというような話がどう関係するのかがよくわからない。通貨を売るとか買うというのはどう考えても投資ではなく投機だと思う。われわれが抱くハゲタカというイメージはアジア通貨危機といったものにかかわるなにものかではないかと思う。そうであるならハゲタカは日本以外にもたくさんいるわけで、日本人もまたハゲタカなのかもしれないが、随分と可愛いハゲタカなのではないかと思う。
 以上が第一章で、著者のいわんとしていることはわかり、言っていることも間違ってはいないと思うのだが、何となく自分の主張に合致するデータのみを提示しているような印象がないわけではない。また著者はアメリカ贔屓のように思えるのだが、日本ダメ、外国素晴らしいといった本(最近は逆のパターンもまた多いが)の系列なのかなという印象も多少あった。以下を見てもそう感じる。
 第2章は「清貧の思想」の話。
 われわれの中では、日本人は「西欧型金融資本主義」に毒されておらずお金については清潔な考え方をしていると信じているものが多いが。それは単なる「思い込み」に過ぎないと著者はいう。
 アメリカのヒーローであるスーパーマンスパイダーマンバットマン・・、彼らはみな民間人である。一方、日本人のヒーロー「遠山の金さん」「大岡越前」「暴れん坊将軍」「水戸黄門」はみな公のひとであり偉いさんである。ウルトラマン太陽にほえろ!、あぶない刑事・・も公的機関の人間や警察官という公務員である。みな「公」の人である。
 そういう違いがでてくる原因が「清貧の思想」であると著者はいう。これは中野孝次氏の著書からひろがったとしても、もともと多くの日本人が美徳としてきたものである。
 「清く貧しく美しく!」という思想自体は美しいし、素敵であると著者もいう。しかし、それは本来の思想とはかけ離れた解釈で日本人に根づいていると著者はいう。つまり「豊かになったら汚れてしまう」「お金持ちは何か悪いことをしたからこそお金持ちになれた」という方向にである、お金持ち=悪という方向であり、これが日本をダメにしている、という。「貧しい」ことそのものが美しくて正しいというような錯覚が生じてきており、さらに努力したり頭を下げたりしてまでして豊かになるくらいなら、貧しいままのほうが増しという方向にもいっているという。
 しかし、そうではなく、めざすべきは「清豊」である、と。なぜなら、昔なら「汚いことをしてお金を儲けることが可能であったのかもしれないが、いまの時代にはそれは絶対に無理なのだから、と。
 わたくしには「清貧」とは中国の南画などにでてくる山奥の庵にすむ髭の長いおじいさんの姿である。世俗を超越していて「もとめない」人である。そのおじいさんだって霞を食って生きているわけではないのだから、実際には何かの経済活動をしているだろうが、経済活動が生の中心にないことだけは確かである。
 竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」に「ギリシャの哲学者タレスが、浮き世離れのした思索をする哲学者をバカにされた時、長期の気候を予想して投機(オリーブ油を絞る機械の借り占め)で大儲けして見せた」という話を紹介している。これは「ケインズ」の項ででてくる話で、「ケインズには資本主義的メンタリティに対する嫌悪感があった。たかが金儲けではないか。自分の利益を追求するのは当たり前として、それしか考えない人間というものは尊敬するに足りる人間ではないし、自分の同胞と見なすに値しない人間である」としたとある。《お金の話をすると顔をしかめるひとが多く、「汗水たらして真面目に働かないとダメでしょ」と説教されることも多い》というのもこの方向の話なのではないだろうか? ケインズは投資(投機?)の才もあり、ケンブリッジ大学の経営を任せられた時には、見事に財政基盤を確立してみせた」のだそうである。どうもわたくしのはこういうケインズのほうが格好よく見えるのである。斜にかまえたひとのほうが好きなのかもしれない。「たかが金儲けではないか」というのが格好いい。
 アメリカでは、企業家は「お金儲けをしている人」ではなく「価値を提供している人」とみられる。日本ではそうではない。日本ではパブリックなことはすべて国にまかせておけばいいと思われているからである。世直しはどこかの将軍や代官様がやってくれるものと信じている。
 日本人は真面目に汗水たらして働くことが尊いと思っているが、それは裏返せば、そういう風に働いていない人間には冷たいということでもある。それならば年収ゼロの専業主婦には価値がないのだろうか?
 というところから次の第3章の「人は、ただ生きているだけで価値がある」となる。何も生産しない赤ちゃんには価値がないのか? しかし赤ちゃんもまた消費者である。赤ちゃんが存在することによって成り立っている会社や産業はたくさんある。赤ちゃんは存在するだけで経済を動かす。つまり、人は、ただ生きているだけで価値がある。消費も立派な社会貢献である。とすればただ消費をしているだけの専業主婦のもまた立派な社会貢献をしていることになる。そして寝たきりのお年寄りもただ生きているだけで価値がある。これからますますお年寄りが存在することによって成り立っている会社や産業が増えていくであろう。ここで赤ちゃんが例にでるから、話がきれいにまとまるのだが、お年寄りが例にでてきたら、なかなかそうもいかなくなるのではないかと思う。
 今の日本の景気が悪いのは、とにかく人々の財布の紐が固くて、みんながお金を使わないからだという見解がある。著者もおそらくはその路線で、まずもっとお金を使いましょう、それが経済をまわしていくのです、ということなのだと思う。それなのに日本人は貯金ばかりしてる、と。タンスに預金するならいざ知らず、銀行に預ければ、それは経済の流れに入っていくはずだが、その銀行もまたサラリーマン的に自分の安全第一で、そのため本当に資金を必要なところにまわっていかないということなのだろう。同じく竹内氏の「経済思想の巨人たち」ではゾンバルトも論じられている。その「恋愛と贅沢と資本主義」にはルイ14世女道楽と贅沢のために国家財政の三分の一を費やしたということが書かれている。とすれば、ルイ14世は経済をまわした。王侯貴族が遊べば、それをまねてブルジョアも女遊びをし、その情事の場として劇場、高級ホテル、レストランなどができ、女はおしゃれになり、絹織物、レース、毛織物、鏡、帽子、陶器などの産業が生まれた。恋愛と贅沢が資本主義を作ったという話である。われわわがコンビニで150円のペットボトルを買うのとはレベルの違うとんでもない経済活動である。そして竹内氏の本にも書かれているように、最大の消費(浪費?)活動の一つが戦争であって、マルクスの主張とは反対に、ゾンバルトは戦争が資本主義を成長させるとした。戦争は政府のする最大の公共事業の一つなのである。
 さて、藤野氏は問う。なぜ「ブラック企業」が生まれるのか、それは消費者が少しでも安いものを求めるからである。安いものを求めるという需要があるから(ブラックな)供給も生まれる。少しでも人件費を安くと経営者が思えば、ブラック企業は生まれてしまうのである。現在は消費者が強すぎる。何にでも文句をいうブラック消費者が多すぎる。世界一正確な日本の鉄道がほんの少し遅れるだけで文句をいうひとがたくさんいる。
 確かにそうなのであろうが、鶏と卵であって、日本の景気が低迷して消費しようにもできないというのと、消費すれば景気がよくなるというのはどちらが先か、というか、これがどちらが先かは言えない一塊となった事象であるというのが経済学の原点なのであろう。
 そもそも、と著者はいう。経済Economyの語源のギリシャ語のオイコノミアは共同体のあり方という意味である。互恵関係である、と。だが、私見では、これは家(オイコス)のやりくり(ノモス)というような意味、家政、家計というような意味だった思うのだが。わたくしの理解ではアーレントのいう公共の活動という方向と正反対の側にあるもの、私の側にあるもので、この言葉を共同体と結びつけるのはかなり無理があるように感じる。これはもともとは竹中平蔵氏の言葉らしいのだが、竹中氏というのは何となく信用できないというか、その時々で、時流に乗る言葉を集めてくるのがうまいひとであるような気がする。
 それはさておき、著者がいうのには、われわれはまずよい消費者となることが必要である。まず「ありがとう」といいましょう。それは日本でチップの代わりとなるものである。(で著者はチップというのは感謝の気持ちの表現というのだが、単にそれはサーブするひとの賃金体系に組み込まれているだけなのではないだろうか?) 自分が素敵だなと思ったものを買う、ということはそのよいものを作ったひとを応援することであり、励ますことであり、それが投資活動の第一歩なのである。とにかくもっと消費しましょう、という。
 次の第4章は「世の中に「虚業」なんてひとりもない」。日本人は会社にネガティブなイメージを持っているひとがとても多い。「会社は金を稼ぐところ」「会社はつらいところ」「自分の個性が消滅してしまうところ」「我慢して駒のように使われるところ」「時間とストレスをお金に換えるところ」、ついには「人生の墓場だ」。
 2005年の世界価値観調査によると、「余暇が減っても常に仕事を第一に考えるべきだ」に賛成した日本人は20%で、調査した47国中で最下位(ドイツ62%、中国56%、イタリア47%)。アメリカ人は誉めあうが、日本人はあいつはまだまだという。アメリカは「一緒にいるかぎりは楽しくやろう」という文化、日本は「なるべく波風立てずに我慢しよう」という文化。(ここらへんもアメリカ贔屓の感じ)
 日本にはすごく不真面目な会社がとても多い。特に大企業の幹部から真面目なメッセージが減っている。株主の期待に応えるとか企業収益をあげるというようなことばかりいっている。自分の会社は社会に存在するどのような需要に応えようとしていて、そのために何をしようとしているかといった本質的なメッセージがない。たとえば、ある小さい企業の社是は「カッコいいこと」である。就業規則を守れ!ではなく、遅刻するってカッコいい? 自分だけが儲かって、相手が泣いているなんて状況はカッコいい? またある企業のトップは「社長はお客さんの代理人です」という。「責任は自分が取る、成果は君にやる!」これができるのが真面目な経営者なのではないか?
 これまた著者のいっていることはわかるのだが、日本のある時期には社会に存在する需要が誰の目にも明らかだった時代があるのではないだろうか? 高度成長期の3種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)など誰がみても明らかで、会社がなにを作ればいいのかも自ずと明らかだったのではないだろうか? 今は、なにが必要とされているかが見えなくなっている。
 実際にはお客さんのことなど考えず、社長の顔色ばかりみている大企業が多くないか? そういう不真面目な大企業が増えたことが、日本の不況の根本原因ではないのか? たとえば日本の投資信託の大部分がトピックス型である。つまり大企業の株だけで構成されている。運用の担当者もお客さんのことよりも、サラリーマンとして上司に怒られないかばかりを考えている。大企業を買っておけば自分の責任が問われることはない。みんなと同じことをしていれば、安全である。しかし著者の会社は「成長しているか?」を基準に運用しているのだという。
 1999年、コムデックスというIT関係の展示会があり、著者もいった。そこでのビル・ゲイツは未来の話しかしなかった。こういう未来をつくるためにわれわれは存在しているとプレゼンテーションした。ソニーの出井社長は、いかに自社の技術が素晴らしいかの説明に終始した。舞台ではたくさんのAIBOが踊っていた。これはその後のソニーの凋落を暗示するものであったのが、今でも日本の大企業のプレゼンは変わっていない。お客さんのことを考えていない、不真面目な会社が多すぎる。新製品を社内事情でつくっているようなところが多い。
 まあ確かにその通りなのであろうが、以前はいかに経営者が無能であろうと不真面目であろうと個々の社員がまともに働いていれば会社は安泰という時代があったのではないかと思う。それがあるときから経営者が舵取りを間違うと会社が傾く時代になってきた。そうことであって、最近、急に不真面目になったのではないようにも思う。 
 真面目な会社は社員のことも大事にする。それをしているかどうか会社のナニュアル・レポートを見ればわかる。そこに社員の写真が一枚もでてこない会社がある。あるいは社長の写真だけ。あとは工場や製品の写真だけ。日本の企業も採用むけの資料やウエブサイトには一般社員の写真をたくさん載せている。しかしアニュアル・レポートにはない。
 アニュアル・レポートというのは誰が読むのだろうか? 投資家? 日本とアメリカのレポートの差は投資家の裾野の広さに起因しているのではないだろうか?
 お金があるところから無いところにお金を流すことが金融の役割である。だから、金融は虚業ではない、と著者はいう。(とすれば、ルイ14世も勿論実業ををしたのである。)
 リーマン・ショックの前、アメリカでは不動産の値上がりが永遠に続くと思われていて、借金をして家を買っても売るときにはさらに値上がりしているので、それを元手にさらに大きな家に住めるとされていた。それで住宅を抵当に入れた借金を証券化してそれにどうこうするとかいう、わけのわからない話をきいたことがある。これもまた金融の役割なのだろうか? わたくしには何となく虚業に思えてしまう。
 最終章は「あなたは、自分の人生をかけて社会に投資している、ひとりの「投資家」だ」。投資とは現在にエネルギーを投入して未来からお返しをもらうことである。もちろんうまくいくかどうかは最終的には運である。それは自己啓発とは少し異なる。お金とはエネルギーの一種であり、投資とは死んだお金を生きたお金に変えていくことである。日本人は「死んだお金」の収集に熱心になりすぎているのである。
 塩野七生さんが「日本人は歴史的に見ても、安定を保証されないと力を発揮できない」といっているそうである。日本人はリスクを過剰に恐れてしまっている。投資とは自分以外の存在に賭けることである。つまり人を信じることである。「失われた20年」などといっていてはいけない。「失われた」のは不真面目な大企業なのであり、伸びている小さな会社はしっかりと伸びているのである。
 
 もしも、われわれがコンビニで150円のペットボトルを買ってもその背後にとんでもない数の組織、人間がいるのだとすれば、トヨタ自動車など背後にはどのくらい膨大な関連の組織や人間があるか想像もできない。とすれば大企業の動向が日本の景気に多大な影響があるのは当然で、小さなまじめな会社が伸びるくらいではいかんともしがたいのではないかと思う。
 ここで著者が述べていることは、著者の周辺の事情としては本当にその通りなのだろうが、それを敷衍化してやや強引に一般論にしている印象がある。
 この本を読んでいて、常に頭に浮かんだのが橋本治さんで、なにしろ「貧乏は正しい!」とか「市場原理は嘘かもしれない」といった本を書くひとである。たとえば「市場原理は嘘かもしれない」という小泉改革?のころに書かれた本には、「今という時代のややこしさ、あるいは窮屈さは、破綻しかねない”ある秩序”を守るために、世界全体が一つの方向に進むことを(暗黙の内に)よしとしてしまっているからなんだ」というところがある。なんだかややこしい言い方だが、”世界経済の破綻”というのはあるべきではないということを(暗黙の内に)議論の前提にしているから、そうならないためにはということから議論がはじまり、昨今でいえば、中国がダメなら次はどこ?という方向に自動的に話が進んでも、もう世界どこをみても発展ということはないという前提でという議論がはじまることはないということである。藤野氏も日本の経済の発展がとまってもいい、日本の経済は今後発展などはどう工夫してもない、という方向には話がすすめないということである。日本にはまだまだ潜在的に力はある。それを引き出す努力がされていないという方向にいく。確か「貧乏は正しい!」にだったか、「資本主義は金は持っているが働けない老人が金はないが働ける若者を使って社会をまわしていくシステム」というようなところがあった。しかしこれからの日本は若者が減って老人ばかりが増えていくのである。たしかに老人は消費者ではあるのだろうが・・。
 また橋本氏は「日本人の多くは、”投資”ってことを考えない・・配当を考えてするのは”投資”、配当を考えないで値上がりと値下がりばっかりを考えているのが”投機”。日本に投機家はいても投資家はいない」ともいっている。この藤野氏の本で、投資と投機の区別という論が意識的に避けられているように感じた。「他人の仕事を作ってやる。そのことによって、他人の生活を安定させてやる。これが金持ちの存在理由」と橋本氏はいう。藤野氏と同じことをいっているようにも見えるのだが微妙に違う。橋本氏は仕事をすることが何からの価値を生むか否かを問題にしない。仕事をすることで他人と結びついていくことを何より重視する。
 そして、世界の一部では、「資本主義的メンタリティに対する嫌悪感」と「奢侈と享楽への嫌悪」が前面に突出していきていて、現代の極めて大きな問題となってきている。ニューヨークが資本主義的メンタリティの象徴であり、パリが享楽と悪徳の街であると見るひとから見れば、本書での藤野氏の論など一顧する価値さえないものということになってしまうだろう。
 だからわたくしが持つようなささやかなケインズ的な「たかが金儲けではないか」という程度の微温的な「資本主義的メンタリティに対する嫌悪感」などを問題として議論していると、もっと大きな何かが来て、議論の場自体を一瞬にさらっていってしまうこともありえないことではないという点だけは念頭においておいたほうがいいのだと思う。ナチズムなども「資本主義的メンタリティに対する嫌悪感」を基礎に出てきたのだと思うし(ゾンバルトによれば、「ユダヤ人は資本主義と呼ばれるマネー・ゲームの普遍的な形式を確立した」のだそうである)、昭和前半の日本の一部を覆っていたのもまた「資本主義的メンタリティに対する嫌悪感」に関係する何かだったのだろうと思う。

投資家が「お金」よりも大切にしていること (星海社新書)

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経済思想の巨人たち (新潮文庫)

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貧乏は正しい! (小学館文庫)

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