(15)ベートーベン

 つまり、こういう人間はいつもひどく鹿爪らしい顔をして暮らしていて、人間はそうするのが普通なのだと考えているに違いない。小人閑居して渋面を作るのである。だから、髪を風に吹かせて、おでこの下が眼だけになっているベートーベンの肖像が大変受けるのである。

 「甘酸っぱい味」という随筆集から。1957年に「熊本日々新聞」に100日間にわたって連載された中の一編、「息抜き」という文の一部。「おでこの下が眼だけになっているベートーベンの肖像」が受けるのは何も日本でだけではないだろうと思う。あちらだってそれなりに受けたからこそ、あの有名な?絵が日本にも伝わったのであろう。要するに「真面目」あるいは「生真面目」「糞真面目」。「19世紀は労働服を着た」というのは多分ホイジンガの言葉だったと思うけれど、吉田健一はそういう「鹿爪らしい西洋」を嫌ったのであろう。
 ベートーベンの「英雄」を初めて聴いた当時のひとは心底びっくりしただろうと思う。今までまったくなかったものがそこに現前してきたのに立ち会ったわけである。「おでこの下が眼だけになっているベートーベン」がそこにいて悲憤慷慨して大演説をしている。そこに芸術家が誕生して、政治家と対峙し、自分と彼らは対等であると胸を張っている。しかしその大演説が何ほどか力を持ったのはベートーベンが作曲家として持っていた並外れた才能のためであって、彼が抱いた思想信条のためではない。「運命」だって「第九」だって、その曲づくりの能力による。「ミサ・ソレムニス」にしても「第九」にしても音楽としては破綻したところが多々あると思うけれども、ベートーベンは音楽だけというのにはどうしても我慢できなくて、+αをいれずにいられなかったのであろう。第九の4楽章の最初のほうで「歓喜の歌」の旋律が低弦のみでもこもこと弱音ではじめて出てくるところなど、それまでの作曲家なら絶対に書かなかった音楽だろう。あんな面白くもおかしくもない旋律を単旋律で延々と聞かせるなどいうのはまともな神経ではない。そしてその後、その旋律が対位法的に処理されて広がっていく段になると今度は作曲家としての無類の能力が発揮されてくる。そしてまた、「おお友よ!」の声で音楽はぶち壊しになる。あそこを歌う歌手は大変だろうなと思う。そこにあるのはシュプレッヒコールであり演説ではあるが、音楽ではない。そして「喜びは何とかで、どことかから来た娘」という詞が例の小学校唱歌のようなつまらない旋律で歌われる。そこにいきなり「神」だとか「楽園」だとかがでてくる。つまり聴衆はこういう部分は作曲家の演説を我慢してきいてきいていなくてはいけないのである。聴衆より遥かに偉い存在としての芸術家が誕生したわけである。
 今のクラシック音楽の演奏会場の見方によっては異様な雰囲気も(そこでは飲んだり食べたりできず、おしゃべりなど論外で、窮屈な椅子にじっとすわっていなければならない)ベートーベンに由来するのであろう。何だか宗教の儀式、あるいはほとんど供物を献げる儀なのでる。(ワーグナーは本当に宗教儀式にしようとしたのであろう。)
 江戸時代に鹿都部真顔(しかつべのまがお)とかいう狂歌師がいたように思う。こう名乗るのであるから、当時にもまた鹿爪らしいひとはいたのであろう。が、同時に、そうこちこちにならずにという人もいたわけである。
 この「甘酸っぱい味」は読み返していろいろと面白いところがあったので、しばらく拾っていくかもしれない。