(16)日本の小説

 小説がつまらないのは、或は少くとも、小説という名前を附けて我々の前に出される大概のものがつまらないのは、これも書いている方で、自分は小説を書いているんだという高級な気持ちがあるからではないだろうか。

 随筆集「甘酸っぱい味」の「日本の小説」の書き出し。文中「これも」となっているのは、その前のエッセイの題が「高級なこと」であるから。
 丸谷才一さんも「高級な気持ち」がどこか抜けなかった人だったのだろうと思う。池澤夏樹さんなんかはもう高級のかたまり。
 どうも小説が嫌いであったらしい吉田氏も小説と称するものを書いたわけだが、その中でちょっと「金澤」だけにはどこかで「高級」の匂いがしているように思う。「瓦礫の中」と「絵空ごと」の2冊に吉田氏の小説批評の精神が一番よく出ていると思う。あとは「酒宴」や「航海」といった短編。
 それで、その前の「高級なこと」を見ると、高級というのは「愛と死と絶望と実存」というようなものなのだそうである。だが愛とか死とか絶望とかは、外国語の翻訳であってこの言葉にわれわれは実感を持つことがない、と。
 小説というものの観念はわれわれにとって、明治以降に外国から入ってきたもので、だから、議会とか鉄橋というものと同じだった、と吉田氏はいう。篠沢秀夫さんだったかが、小林秀雄の困ったところは、フランス文学でも第一級のものしか読んでいないことだといっていた。屑みないなものでも言葉で書いてあるものなら何でも読むというような言葉好きでなければ、文学は楽しめないのだ、と。吉田氏は何でも読むひとだったらしい。
 わざわざ話を作ってそれを通して何かを語るなどというのは随分と迂遠な話で、そうだったら、最初からその何かを単純に語ればいいではないかということになるが、作り話を通してしか語れない真実があるとかいうことにもなるらしい。
 しかし所詮は作り話であることに飽いてくると、本当のことを書くのが小説ではないかという方向がでてくる。谷川俊太郎の詩、「鳥羽1」に「本当の事を云おうか」の一行がある。
 この「本当の事を云おうか」の一行が日本の文学を駄目にしていると三島由紀夫がいっていた。大江健三郎の「万延元年のフットボール」の第8章は「本当の事を云おうか」の題である。もちろん、谷川俊太郎の「鳥羽」からの引用が明記されている。『それからかれは、・・「本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいづれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事を考えてみていた。その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことにあるような、そうした本当の事なんだよ。密はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」』
 これはもう典型的な「高級な気持ち」の羅列である。日本の小説にある病の根は深い。