広岡裕児「EU騒乱」(2)

 
 序章
 EUにはシェンゲン協定というものがある。加盟国内での人の移動を自由にする協定である。EU加盟国では英国とアイルランドがこの協定に参加しておらず、スイス、ノルウェーアイスランドはEUに加盟していない(この協定のことも、スイス、ノルウェーアイスランドがEUに加盟していないことも知らなかった。つまりEUについてほとんど何も知らなかったわけである)。
 著者はパリからEU本部のあるベルギーへと高速国際列車で向かう。出国や入国の審査はない。列車は第一次世界大戦最大の激戦地であった「ソンムの野」を通過する。
 EUの本部はベルギーのブリュッセルにあるが、議会はフランスのストラスブール、司法裁判所はルクセンブルクにある。
 EUは加盟国首脳による「欧州首脳会議」(欧州理事会)、各国の担当大臣によるEU理事会、国の政府に相当する「欧州委員会」、「欧州議会」、欧州司法裁判所からなる。
 ストラスブール第一次大戦の激戦地ベルダンに近い。ベルダンは8世紀末に今のフランス、ドイツ、イタリアの原型をつくった「ベルダン条約」締結の地でもある。
 三十年戦争終結のウエストファリア条約から主権国家が生まれてきた。その結果ドイツには独立した地方国家がたくさん生まれたが、フランスではルイ14世の中央集権体制ができた(地方色はずっと残ったが)。
 1789年フランス革命によって、人工的なフランス国民が生まれた。第二共和制憲法には、市民に祖国を愛し生命を犠牲にして共和国に奉仕する義務が書かれた。「民」は国家の部品となった。普仏戦争の敗北後は「アルザス・ロレーヌ奪還」の愛国教育がおこなわれた。ドイツでも国粋主義がおき、ライン川をはさんで仏独が対立した。その衝突が第一次世界大戦を生んだ。
 
 第1章「欧州議会選挙ショック」
 2014年5月の欧州議会選挙で、極右政党の国民戦線(FN)(党首はマリーヌ・ルペン)がトップになった(フランス選挙区での第一党)。FNはユーロ離脱を唱えていた。フランス人は欧州議会にはまったく無関心である。しかし、その選挙は世論調査ではある。
 1984年の第二回欧州議会選挙でFNは大躍進した(その時の党首はマリーヌの父、ジャン=マリー・ルペン)。
 2014年の欧州議会選挙では、英国でも、EUからの離脱を唱える連合王国独立党(UKIP)が第一党となった。デンマークでも極右ナショナリズム政党の「デンマーク人民党」が第一党となった。
 FNは1972年に結成された。初代党首のジャン=マリー・ルペンは1928年生まれで、戦前から右翼団体「アクション・フランセーズ」の活動家だった。そしてアルジェリア戦争での反ドゴール派という現代フランスの極右の起源ともかかわっている。フランスはパリの五月革命など左翼運動が有名だが、右翼の運動にも根強いものがある。
 当初泡沫候補に過ぎなかったルペンは次第にフランス政界で無視できない存在になっていった。2011年、娘のマリーヌに党首の座を譲った。
 2014年の選挙でマリーヌは移民の問題を訴え、シェンゲン条約を非難した。しかし、父がフランス政府を攻撃したのに対して、マリーヌはEUを批判した。
 フランス語で移民には「ミグラン」と「イミグレ」の二つの語がある。「ミグラン」は単に移動する人であるが、「イミグレ」は居住許可と就労許可を持っているものをいう。
 「イミグレ」は、出国する国で就労許可をとってから出国するが、難民は相手国についてから「保護」を申請する。
 1992年に統一通貨ユーロの創設などをさだめたマートリヒト条約批准の国民投票がおこなわれ、僅差で承認された。それに反対票を投じたのは、農業の田園地帯のフランスであり、また産業構造の転換の犠牲になり失業者が増えたところ(南フランスの造船業、北フランスの鉄鋼業)であった。フランスが「二重の社会」であることが明らかになってきた。
 1995年お大統領選挙では、シラクは「経済的安全と明日への確信は、もはや特権となり、フランスの若者はそれに困惑している」と言った。「経済的安全」とは「安定した収入があり安心して生活できること」であり、「明日への確信」とは、「自分の生活も社会全体も今日よりは明日のほうが良くなっていくという確信」をいう。それはもはや幻想と化そうとしてるよシラクはいったのである。
 フラクチュアール・ソシアル(社会の亀裂)とは、要するに格差のことであるが、単なる所得格差、資産格差ではなく、「社会における可能性が奪われている」ということであり、「貧乏人でも努力すれば金持ちになれる」「一生懸命に勉強すれば末は博士にも大臣にもなれる」という希望が絶たれたことであり、「社会的モビリティ」が喪失していることである。
 ドゴール派の流れをくむ右派のシラクが「全員のためのフランス」といったのである。「社会からの落ちこぼれ」とは移民だけの問題ではなく、また産業構造の転換からおいていかれてしまった地方都市だけの問題でもなくフランス全体の問題となっていたのである。この当時アメリカの経済学者は「自由で開かれた競争が、世界経済を発展させる」というようなことを言っていたのだが。
 フランスの格差を論じる場合、トマ・ピケティの「21世紀の資本」を逸することはできない。この本は2013年フランスで出版されたときには大した話題にはならなかったが、2014年英訳されると、アメリカで大評判となった。これは人気低迷のオバマ大統領の数少ない人気テーマである「格差」にフィットしたからである。広岡氏は「21世紀の資本」はデータを提供するものとしては優れているが、データの解釈については杜撰であるとしている。そもそも「21世紀の資本」は1%あるいは10%への富の集中を論じたものであって、中央値以下のひとや下位のひとのことなどは念頭にない本である、と。しかし、本当の格差の問題は下層のほうにこそ存在するのだがと広岡氏はいう。
 マリーヌ・ルペンも移民からEUへとテーマを変えていった。EUのためにフランスは脱工業化がすすみ、大量の失業者が出、EUのせいで産業の保護ができず、産業政策もおこなえない・・・。EUのせいで得をしているのが貪欲な多国籍企業である。ギリシャもまたEUの犠牲者だ、とルペンはいった。
 
 今のわれわれのものの見方がフランス革命とナポレオンによる国民国家というものに大きく規定されているのは間違いないところだろうと思う。
 アルザス・ロレーヌなどというと真っ先にわたくしが思い出すのは、林達夫氏の「新しき幕明き」に収められた「あの八月十五日の晩、私はドーデの『月曜物語』のなかにある『最後の授業』を読んでそこでまたこんどは嗚咽したことを想い起す。・・日本のアメリカ化は必至なものに思われた。」というあたりなのだが、後に篠沢秀夫氏の「篠沢フランス文学講義2」を読んでいて、「ドーデはあれは、南フランスの人間ですね。アルザスのことはよく知らないんで、・・(アルザスの)連中は、家に帰れば、ドイツ語を話しているんです、毎日、放っておけば、みんなドイツ語で話してるんです。・・フランス語をどこで習ってたかというと学校でならっていただけなんで・・しかし、一般のフランス人にはそんなことわかりませんから、あれを読むと、みんな滂沱と涙を流すわけですね」というあたりを読んで本当にびっくりした。碩学林達夫氏も大碩学の篠沢氏に一本とられているのである。ここで篠沢氏は林氏の「新しき幕明き」に言及しているわけではないのだが、「滂沱と涙を流す」という書くあたり、「あの八月十五日の全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった」と書く林氏のこの文を意識していないということはないように思う。
 そしてドイツ対フランスということを考えるときに最初に想起するのがヴァレリーの「方法的制覇」である。そこに見られる無機質で機械的な集合体としてのドイツに対する恐怖感と嫌悪感(それに対立するものは個性的だが無規律でバラバラななフランス)は、フランス人のトッドが最近饒舌に論じているドイツ的なものへの恐怖感とも連続しているように思う。おそらくヴァレリーやトッドが頭に浮かべるヨーロッパとは多様性を許容するものとしてのヨーロッパ、何らか豊穣なものとしてのヨーロッパなのだと思うが、現在のヨーロッパが均一な価値観へと収斂していっているように見えることがトッドなどには耐えがたいのであろう。
 そういう水と油が一緒になろうというのだから、EUというのがいかに大変な試みであるかということである。
 国民戦線(FN)はどこかで「アクション・フランセーズ」の流れとつながるらしい。「アクション・フランセーズ」とその周辺のことを知ったのはもっぱら福田和也氏の「奇妙な廃墟」によるのだが、ドイツ占領下でナチスに積極的に加担した文学者たちはとても一筋縄ではいかない人たちであることがよくわかった。つまり今われわれが自明のものとしている「西欧近代」というものが病的で腐敗したものである見てナチスに希望を見出したひとたちがいたということである。
 福田氏の「奇妙な廃墟」で、コラボの世代へと続く右翼作家の源流として大きく取り上げられているモールス・バレスの「精霊の息吹く丘」などというのを翻訳し、その『精神主義』を称揚する篠沢秀夫氏というのもなかなか大変なひとなのだが、「フランス三昧」という本で、パトワということを言っている。定訳はないらしく、篠沢氏の訳語では「里ことば」。良いフランスと現在言われているものは人工語であって、「革命とナポレオンが推進した共通語普及は17世紀に完成した「良いフランス語」の全国制覇という形になる」という。わたくしのフランス語の知識は大学3年のときに一年くらい通ったアテネ・フランセの授業がすべてなのだが、その時に習ったフランス人の先生のフランス文化への自信というかフランス語を普及させることへの情熱というのには驚嘆した記憶がある。(ところで、アテネフランセで教えているフランスがラシーヌの時代のフランス語なのだといっていたひとがいたが本当なのだろうか?) 篠沢氏訳のこのパレスの本も題名の通り、地霊というか土地に根付くという方向の作らしい(買っただけで読んでいない)が、フランスだけでもそうであるなら、ましてもっと抽象的なヨーロッパというようなものである地域をまとめていこうという試みがどれほど大胆なことであるのかということなのであろう。同じ篠沢氏の「日本国家論」では、「普仏戦争」でのフランス第二帝国の崩壊が明治初期の日本にいかに大きな衝撃をあたえたかということをいっている。ドイツを手本とすることになったので、西洋文明の後進部分を手本として、西洋の先進部分と武力で対立するようになったのだ、と。
 ここで、「ミグラン」とか「イミグレ」ということがいわれているが、これはヨーロッパ文明に憧れてなどということではなく、生きていくため、食べていくために欧州を目指してくるわけである。
 そして本書で強調されていることは、ヨーロッパ内部においても、生きていくこと、食べていくことが困難になってきているものが多数でてきているということであり、それが現在EUでおきているすべての問題の根幹にあるということである。フランスが「二重の社会」であることが明らかになってきたのであり、右派のシラクが「経済的安全と明日への確信は、もはや特権となり、フランスの若者はそれに困惑している」と指摘する事態になってきているということである。「安定した収入があり安心して生活できること」ができず、「自分の生活も社会全体も今日よりは明日のほうが良くなっていくという確信」を持てない若者が増えてきているということである。「社会における可能性が奪われていて」「貧乏人でも努力すれば金持ちになれる」「一生懸命に勉強すれば末は博士にも大臣にもなれる」という希望が絶たれたことであり、「社会の流動性が失われ」てきているということである。「社会からの落ちこぼれ」がフランス全体の問題となっていたのである。
 ピケティの「21世紀の資本」も例によって買っただけで読んでいないのだが、日本でもある程度評判になったのは、フランスほどではないにしても、日本もまた社会の流動性が失われ、若い世代が未来に希望を持ちにくくなってきているという自覚がでてきているからなのであろう。EUのような国家を超える組織は貪欲な多国籍企業を利するだけであるというのがFNの主張であるようであるが、同様にグローバリズムの進行がわれわれを不幸にしつつあるという見方は日本でも多くみられる。その点で本書はEUを論じながら、日本についても大いに考えさせるものを持つ本となっている。
 それで、次の第二章ではEUを翻弄しまたEUに翻弄されたギリシャの事例が検討される。

EU騒乱: テロと右傾化の次に来るもの (新潮選書)

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篠沢フランス文学講義 2

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精霊の息吹く丘

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フランス三昧 (中公新書)

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日本国家論―花の形見

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21世紀の資本

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