広岡裕児「EU騒乱」(6)

 
 第5章「民主主義の出口」
 いわゆる難民の問題を扱うとともに、欧州の現状とその打開法への広岡氏の展望を提示している。
 2015年9月2日、トルコからギリシャに渡ろうとしていた難民のボートが転覆してライアン君という3歳の男の子が死んだ。この報道がシリアの難民問題に世界の目をむけることになり、シリア難民が多く滞留するハンガリーと国を接するオーストリアやドイツが難民に門戸をひらくことを表明し、難民が一気にオーストリア国境に殺到することとなった。数日のうちに2万人の難民がドイツにはいった。そのため、一週間後にはドイツは再び国境警備強化へと方針を変えた。
 この当時、ドイツでは、エンジニアやプログラマーが14万人不足しており、職人やサービス業でも大幅な人手不足であった。2020年には180万人の人手が不足すると予想されていた。難民受け入れは人道問題という側面だけでなく経済問題という側面もある。
 スウェーデンが従来から積極的に難民をうけいれてきた背景には、出生率の低さによる労働者の確保ということがまずあった。最初に北欧から、次にイタリア・ギリシャ・ユーゴから受け入れていった。フランスもまた第二次世界大戦後の復興期にはアラブ人労働者の労働に大きく依存していた。
 しかし、いくら人手不足とはいっても、移民労働者のおかれている環境は厳しい。EUのどこの国においてもEU域外の国籍を持つものの失業率は自国民の2〜4倍の高さである。難民がドイツなどにはいっても仕事がある保証はない。
 欧州の難民問題はISの拡大ではじまったわけではない。アラブの春やシリア内線以前から、ソマリアスーダンエチオピアコンゴなどの内戦、さらにはクルド人パレスティナの問題と、常に難民の問題をかかえていた。
 そして少子高齢化が進んでいる欧州では、移民なしには労働力不足に直面することは必至と考えられている。
 テロの問題をイスラム教の問題としてみてはいけない。ヨーロッパで生まれた移民の2世が多くテロにかかわっている。かれらはたとえばパリで生まれ、わざわざシリアやイエメンにわたり、軍事訓練を受けて、ふたたび欧州にもどってテロを起こしたりしている。欧州がテロリストを輸出しているのである。フランスからの1700名を筆頭に多くのEUのひとがシリアやイラクにわたっている。かれらはそれまでイスラム教に親しんでいたわけではない。育った環境の多くは無宗教であったり、カトリックであったりであり、イスラム教信者は少ない。またイスラム教徒であっても熱心な信者ではなかった。
 広岡氏は40年のフランス生活の中でイスラム教徒が授業や仕事を中断して祈る場面を見たことが一度もないという。フランスでのテロ事件の犯人たちはそういう人々のなかからでてきてるのであり、イスラム教徒だからテロを起こすという認識は過りである、と広岡氏はいっている。
 テロリストの目的は政治的なものであって宗教的なものではないのだから、イスラム教の専門家がこういう事件を宗教の視点から論じることは、かれらの行為を正当化してしまうというマイナスの効果を生んでしまう。
 「ライシテ」: かってフランスでは、フランス語を頂点にするフランス文化に同化させるというのが移民政策であった。しかし現在では180度変わっていると広岡氏はいう。各民族の固有の文化を大切にし、多様性を尊重することを原理とするようになっている、と。すべての宗教を尊重するのであり、もちろん唯物論者も無神論者も等しく尊重される。これは「寛容」とは異なる、あるものが優れてはいるが、そうでないものも許容するということではない。みな等価値なのである。高所からの容認ではなく、水平である。「一人一人の個人の自由を尊重すること。個人の独立自立を尊重すること。お互いの権利を認め、一緒に生活すること」を欧州は目指していた。そうすると、自由の制限と人権とのかかわりが問題となる。
 アメリカの共同体主義では白は白、黒は黒、黄は黄でテリトリーを決めて共存する。フランスの「ライシテ」では、一つの社会のなかで白も黒も黄もが混じる。アラブ系もベトナム系もみなフランス人になる。
 しかし、かつては存在していた「ライシテ」の精神が失われてきており、人々の許容範囲が狭くなってきている。9・11以後にそれが目立ってきた。
 アルジェリア戦争と68年の「五月革命」はフランス人の民族優越意識を粉砕してしまった。そのため異質への許容範囲が極端に狭くなってきている。
 郊外団地は劣化し、失業率や犯罪率が急増した。
 発端は治安でも同化でもなく失業であったのだが、失業の問題は次第に移民のほうに責任が転嫁されるようになっていった。90年代になると失業の問題だけでなく、努力すれば上にあがれるという社会的モビリティも失われてきて、社会的亀裂が問題とされるようになっていった。
 欧州連合憲法が否決されたのはそれによる。正社員は賛成し、派遣社員や期限付き労働契約者が反対した。高収入のものが賛成し、貧困層は反対した。グローバリゼーションの流れのなかで、リベラルな資本主義ではなく、ソシアルな資本主義を欧州は推進していたはずであったが、しかし実際にはそうはなっていないことへの不満が表面化したのである。
 都市と地方の差が顕在化してきた。ヨーロッパの子供たちの将来には繁栄はなく、幸せもまた存在しないのではないかという予感を持つものが増えてきている。
 そういうなかで、EUの官僚たちは、市民たちからかけ離れた存在となってきている。ヨーロッパの近代民主主義を生んだ思想家たちは、労働者が知識階級の下にあることを自明の前提にしていた。フランスでもドイツでもエリートと庶民の差は自明のものとされてきた。
 従来からいわれてきた民主主義とはエリートの民主主義であった。欧州憲法の顛末はまさにエリートの民主主義の問題点を典型的に示している。憲法は密室のなかでエリートたちによって作られ、フランス語でA4で700ページ超の文書がいきなり提示されたのである。
 「ポピュリズム」とはエリートが「下からの判断」を否定する場合にしばしば使われる。しかし「合理的で客観的な診断は庶民階級のものである」と広岡氏はいう。
 しかし、国民投票とは、エリートの民主主義の世界に国民を土足で参加させるものであると多くのエリートが感じている。ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」という絵は、エリートという自由の女神が民衆といわれる衆愚を先導する図なのではないだろうか? しかしいまや「民」は「衆愚」ではない、と広岡氏はいう。
 そこで広岡氏が提示するのが「民主主義ステージ2」という概念である。民衆が「お上」にしたがうのが「民主主義ステージ?」で、それが限界にきていることを示すのが現在の欧州である、と。この「民主主義ステージ?」の具体像はまだ形がみえないと広岡氏はいう。とにかくも、エリートには「知識」があるが、民衆には「知恵」がある、と。わかっていることは「グローバル資本主義の「スーパー国家」は「民主主義ステージ2」ではないということである。ひとが「人間」ではなく「単なる消費者」と化してきているのが民主主義の現状である。
 
 この章にはいくつかの論点が混在している。
1)難民の問題は欧州で進行する少子高齢化に起因する労働力不足の問題と密接に関係しており、難民の流入と関連する欧州での階層分化の進行と若い世代の未来への展望の無さが、テロリズムの根源であり、イスラムという宗教にテロの第一の原因をもとめるべきではない、という議論。
2)欧州が希求してきた多民族共存のありかた(ライシテ)とその行き詰まりあるいは崩壊。
3)欧州における知識人と一般の市民たちの乖離。エリートが民衆を指導する従来からの行き方が直面している明白な限界。
4)民主主義というものが基本的に知識人による構想だった啓蒙主義時代以来の民主主義概念の行き詰まりと、それを代替するものとしての「民主主義ステージ?」という概念の提唱。
 さて、1)は現状をどう認識するかの一つの見方を提示するもので、欧州に現在ある問題の根源をそこで進行してきている階層の分化とその固定化にみようとするものである。2)は多民族の共存とはどうであるべきかについてのあるべき像と、それとは乖離してきている欧州の現状を述べていて、広岡氏は明白にライシテという概念の賛同者である。3)はヨーロッパの現状の指摘であるとともに18世紀以来のヨーロッパを指導してきた啓蒙概念の行き詰まりという広岡氏の認識をも提示するものとなっている。ところが4)のみは非常に思弁的で空想的な世界像を提示したものであり、それまでの地道な議論とは大きく異なっており、わたくしの印象としては急に地に足がつかない論になってしまっているように思えた。
 わたくしの印象では本書は知識人によって書かれた知識人によって読まれることを想定した本であって、「民主主義ステージ?」というのも知識人にしか通用しない言葉であろうと思う。なぜなら「民主主義ステージ?」という概念がそもそも知識人にしか通用しないものであるからである。
 啓蒙主義というのも知識人による知識人のための知識人による言説であって、ここで大衆といわれているひとにはもともと関係のないものである。「エリートには「知識」があるが、民衆には「知恵」がある」などというのは悪い冗談としかいいようがなく、ここで「知恵」といわれているものには一切の定義が与えられていない。
 「すべての宗教を尊重すること」というのは、裏を返すと宗教の否定、少なくとも一神教の否定である。「日本国憲法」第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」などというのは、一神教を信じるひとにとってはありえないことであって、一神教というのは他の宗教と並立はできないはずのものなのだから、この憲法条文は一神教を否定しているということである。
 キリスト教というのは西欧の病の根源のようなものだから、日本国憲法をつくった当時のアメリカのリベラルたちは、キリスト教のない世界という理想郷を夢見てこの条文を書いたのであろう。もちろん、日本国憲法というのは、エリートたちが密室でつくりあげたものである。。
 本書での難民の問題は「食べていく」「生き延びていく」という「生存」の問題であって、人権などという思想の問題ではない。そして欧州人の場合にも、権利といった思想の問題以前に生存の問題に直面している(特に若者)が増加してきている。ということが欧州の現実の問題としてここに提示されている。
 貧しいということもただ貧しいというだけでは思想の問題にはならない。貧しいことは惨めであるという認識がでてきたときに貧困ははじめて思想の問題となった、というようなことを橋本治さんが「貧乏は正しい!」で言っていた。
 中学生のころ、はじめてマルクス主義という思想について見聞きしたとき、なぜ世の中から困窮しているひとを無くしていこうとする方向に反対するひとがいるのかが理解できなかった。反対するひとはプチブルとかいわれて自己の経済的基盤が損壊されるから反対しているのだというのが公式見解であったように思うが、高名な思想家であってもマルクス主義に激烈に反対しているひとがたくさんいたのである。
 もしも共産主義というものが経済体制の問題、どのように経済を運営してくのが効率がいいかという点にのみかかわるのであれば、それは非効率な体制であって、市場経済体制に敵うものではないというのが現在の共通の理解となっているとしていいようである。本書での広岡氏もまたそう述べている。それは歴史のなかで実際に証明されてしまった事実の問題であって、もはや議論の余地はないとされてしまっているようである。
 しかし、マルクス主義の問題を「何が正しいかをいち早く知ったひとが、まだなにが正しいかを知りえていない蒙昧な人たちを指導していく体制」を唱えているものとして、その点を批判する立場のものもあった。これにもいろいろなヴァージョンがあるはずであるが、第一に、そもそも人は何が正しいかを知りうるのかについての懐疑という立場があって(わたくしの個人的な理解では、これが啓蒙主義)、そこから寛容ということがでてくる(広岡氏は啓蒙を何かを知ったひとがまだそれを知らないひとを啓発していくものととらえているようであり、寛容という言葉も知識をもったひとがまた持たないひとを哀れみながらも許すというようなイメージでとらえているように感じる)。この批判の立場は本書でのEU官僚批判とも通じるものがあると感じる。
 そしてマルクス主義批判の、わたくしから見ると一番根源的なヴァージョンは、マルクス主義の人間観がおそろしく浅いという方向からのものではないかと思う。人間というのはいかに暗く恐ろしい側面を持った存在であるかということへの理解がそこではほとんど欠けているとするものである。
 「わたくしは貧しいひとの味方である。したがってわたくしは良い人間である、善意の人間である」と無邪気に信じるようなひとに、「あなたは貧しいひとのことになど実は一片の関心もないのではないか? あなたはただ自分が良い人間であると思いたい、あるいは人からそう思われたいというだけでそのようにふるまっているのではないか? あなたの行動の根っこにあるのはただの利己心ではないか?」と冷たく指摘するような立場である。このような立場にたつとほとんどのひとはすべての行動に利己心を見るようになり、何も行動できなくなってしまう。シニックという泥沼に落ち込んでいってしまう。だからこの論はとても多くの問題を内包しているのではあるが、現実政治においては、共産主義体制というもののほとんどが恐怖政治になっていったということのかなりを説明できてしまうものではあると思う。これは「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」といったものとも違って、権力の座についたものだけについての指摘ではなく、ごく普通の人間がごく普通の生活の場においてさえ、その行動原理に利己主義をみる立場であるから、人間関係が生じるところすべてで、それは現前してくることになる。
 この立場から広岡氏の説を見ると、知識人とされるひとには厳しい氏が一転して「民」と呼ぶ人たちについてとになると、夢みる地に足がつかない人となってしまっているように感じる。
 「民主主義ステージ2」という言葉を見て、梅田望夫氏のWeb 2.0というのを思い出した。単に「2」という数字からの連想に過ぎないのだが、梅田氏は広岡氏とは違ってエリート志向というか、Webの世界が拡大してくると、その中での玉石混交状態から玉がある数以上になり、そうするとそれが質的変化をおこしてくるのではないかという期待を述べていたように思う。だが、実際にはWebの世界では石のほうの発言がめだつ方向となってきているということがあり、そういうWebの現状に梅田氏は悲観的となっているというようなことをどこかで読んだことがある。
 実はわたくしがこのブログを始めたのも梅田氏に煽動?されてという部分が大きいのだが、わたくしとしては、自分が少数派という自覚が明確にあるので、自分は多数派とはここが違っているというようなことを書き留めていくと、ひょっとしてどこかで誰かの役に立つこともあるかもしれないとは思っているとしても、多数派を形成したいという気がまったくないし、もちろん多数派になれるとも少しも思っていない。
 広岡氏の「民主主義ステージ2」というのは、知識が普及してくると知識人に独占されていた知識がもっと大衆にも広がっていき、知識人主導の民主主義がもっと多くのひとに立脚する民主主義となっていくという方向の希求で、大衆を衆愚制とかポピュリズムといった見地からみる方向に異を唱えようとするものである。
 梅田氏との関連でいえば、今まで石であると思われていたものが知識の普及でいつのまにか玉になってきているのだというようなイメージであるのかもしれない。正直このあたりの広岡氏の議論は整理されておらず現状の分析というよりも、自身の願望を一筆書きで書いたという印象に近いように思った。
 何よりも広岡氏もまたまぎれもない知識人であって大衆ではなく、その氏が書く本書のようなものを大衆が読むとはとても思えないということがある。広岡氏がいうのは、日々の生活の中で大衆が実感しているその体感から、エリートが頭のなかで考えた机上の論のおかしなところもおのずと明らかになってくるというようなことであると思うが、大衆はノンということはできても何かをつくってくることはまずいかないのではないだろうか?
 ちょっと変な例であるが、最近の都知事選挙鳥越俊太郎氏がある数の票をとったことについて、「新聞とテレビしか見ず、ネットとかWebといったものにまったくアクセスできないひとが、まだその数いるということなのだ」というようなことをある人がいっていた。「だって、少しでもネットとかを見ることができれば、まさか鳥越氏に投票しようとする気がおきるはずがないではないか」というのである。しかしわたくしの同年配の知り合いには「確かに鳥越氏には感心しないが、さりとて安倍自民党政権に通じる小池・増田両氏に投票するわけにもいかない。自分たちの子供や孫の世代が戦場にいくことがないようにするためには鼻をつまんでも鳥越氏に投票するしかない」というようなことをいっているひとがいる。
 問題は、われわれの世代の一部から戦争に駆り出されることを心配されているはずの当の若い人たちでは鳥越氏に投票しているひとが少ないことで、その支持率はかなりきれいな逆三角形になっている。10代を除けば、20代以降、年代が上になるほど鳥越氏への投票が増えるのである。最高が70歳超。
 われわれの世代の一部は若者の未来に重大な懸念を抱いているわけであるが、その当の若者は未来のことについてではなく、現在に大きな不満と不安を持っていて、未来のことばかりを語っている鳥越氏ではなく、一見過激で何かを壊すことをしそうな雰囲気を演出していた小池氏に票を投じたということなのかもしれない。
 本書を読んで一番納得したのは、現在のヨーロッパにある一番の根っこの問題は若者が抱いている「失業率の高さという現実の不安」と「将来の展望が開けない閉塞感」にあるという指摘であった。そして、そこからの類推として、今回の都知事選挙の結果は欧州の問題と相似の問題が今の日本でもおきていることの反映と見ることができるのかもしれないとする見方もでてきうるのだろうと思う。
 英国のEU離脱の国民投票と同じようなものとして、今回の都知事選の小池氏圧勝があった。さてそれなら、今回の都知事選の結果をポピュリズムの表れと見るのか否かも問題となろう。英国のEU離脱もまたポピュリズムであるとみるか否かと平行した問題として。
 欧州の一番の問題に、少子高齢化の進行があり、その具体的あらわれとして若者の失業と未来への展望がみえない閉塞感ということがあるとすると、同じ少子高齢化が欧州よりももっと急激に進行している日本において、それが問題にならないはずはないのであるが、日本では少子高齢化の問題が、年金の破綻、高齢者の年金もらい逃げといった観点から語られることが多く、若者の失業といった観点から語られることは多くないように感じる。どうしてなのだろう? 少子化が進むのであれば、若年労働者の不足が当然生じるわけであるから、一見すると、失業が多くなるのはおかしい。これは単純労働への需要が減少しているという少子化とは別の要因が第一にあり、そういう仕事は移民などの賃金コストの低い層に仕事が流れていくという欧州の現実から生じていることである。
 日本では欧州にくらべると失業率はかなり低く、欧州での失業の問題は日本では正規雇用と非正規雇用という問題としてあらわれてきているように思う。そして非正規雇用という形態が未来への展望を描きにくくするのであれば、事態は日本と欧州でそれほどは変わらないということになる。しかし、日本の「左」は現実にある雇用の問題よりも平和憲法といった問題のほうが大事であるとしているようなのである。
 だが、少なくともいえると思うのは、今回の都知事選の結果は、知識人が大衆を指導していくという行き方の失敗の何回目かの例であり(60年安保、68年の騒乱・・)、そしてひょっとすると最後の例になるのではないかと思えるということである。そういう前衛の思想、民主集中制といった下級は上級にしたがうといったやりかた、エリートの指導という理念、そういうものは、われわれの世代にはまだ微かに残ってはいるが、われわれが現実の舞台から退いていけば、もうそういった行き方は顧みられなくなるのだろうと思う。
 しかし、その後からでてくるものがポピュリズムとは無縁なもっと有効性の高い何かとなるかといえば、そうそうは楽観はできないように、わたくしには思われる。
 広岡氏は「民主主義ステージ2」というが、民主主義というものの耐用年数がそろそろ切れかかってきているという見方だってあるように思う。しかしそれに代わりうる体制もでてくることもなく、世界はより混迷の度を深めていくだけという未来もまた十分にあるうるのかもしれない。
 あと、終章とあとがきが残っている。
 

EU騒乱: テロと右傾化の次に来るもの (新潮選書)

EU騒乱: テロと右傾化の次に来るもの (新潮選書)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

市民の国について (下) (岩波文庫)

市民の国について (下) (岩波文庫)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)