鹿島茂「ドーダの人、小林秀雄」(その4)

 
 第2章の「小林秀雄のフランス語と翻訳」では、小林秀雄のフランス語がいかにとんでもないものだったかということが縷々述べられている。
 そういうことを初めて知ったのは開高健谷沢永一向井敏の鼎談「書斎のポ・ト・フ」を読んだときで、そこに篠沢秀夫の「篠沢フランス文学講義」が紹介されていて、その一節には小林秀雄フランス語目茶苦茶論もあった。それを読んで面白く、「篠沢フランス文学講義」も買ってきたと記憶している。「篠沢・・」には58・5・3という書き込みがあり、昭和58年(1983年)5月に読んだらしいい。「書斎のポ・ト・フ」もその少し前に読んだのであろう(昭和56年刊の本)。今から33年前、36歳ごろである。なんで「書斎のポ・ト・フ」を読んだのかはまったく覚えていない。
 この「ドーダの人・・」でも、鹿島氏は、篠沢氏の「フランス文学精読ゼミ」から、ランボーの詩集の題名を小林秀雄が「地獄の季節」と訳したことについて、それが誤訳であるとの篠沢氏の説を紹介している。Une saison en enfer であるから、地獄での一つの季節である。最近では「地獄での一季節」というのが定訳になっているらしいが、小林は「地獄の季節」とした。その訳名では「地獄の」は「季節」を修飾している。まるで「地獄のような恐ろしい季節」というように。しかし篠沢氏によれば、ランボーは「自分は地獄で一季節を過ごした。しかし、それはもう終わった」ということをいったのである。実は、小林秀雄もそのことには訳している途中で気がついてはいた。だが、小林がランボーの詩に見たのがまさに「地獄の季節」なのであり、その印象をもとに翻訳をしたので、ランボーの翻訳という体裁はとっていても、ほとんど小林の創作のようになっていたため、修正ができなかったのだと。
 そして、小林訳ランボーの性急でパセティックな文体が、小林と同じような精神の傾向をもった同時代の青年に熱狂的に歓迎され、小林は時代のヒーローとなった。そして、以後の50年もの間(1980年代に時代が変わるまで)「文学の神様」で居続けることになったのだ、と鹿島氏はいう。
 鹿島氏は小林秀雄がフランス語から翻訳した本の目録をたどり、最後がサント・ブウブの「わが毒」で終わっていることに注目する。なぜ最後がサント・ブウブだったのか? 一般には、批評とは他人を借りて自己を語ることだというサント・ブウブの方法を、自分の方法の先達と小林秀雄が思ったからであるとされている。
 ところで「わが毒」の翻訳刊行は昭和14年である。それに先立つこと2年の昭和12年に中原中也が死んでいる。そのことが「わが毒」を訳出させたのだ、というのが鹿島氏の説である。
 よく知られているように小林秀雄中原中也の内縁の妻を奪った。そして、わたくしは知らなかったのだが、フランス文学者の間では周知のこととして、サント・ブウブがヴィクトル・ユゴーの妻を奪ったということがあるらしい。そこに共通する「親友の妻(内縁の妻)を奪った」ということが、「わが毒」を翻訳させたのだと鹿島氏はいう。
 この辺りは、第3章で縷々検討されるのだが、中原・小林の共通の女性である長谷川泰子というのが、ここに描かれていることが本当だとしたら、なんともとんでもない女性であって、中原も小林もただ利用されているだけである。また長谷川泰子はかなり重度の強迫神経症であって、それにまともにつきあった小林秀雄は偉いといえば偉いが、御苦労様としかいいようがない。
 ふたりの関係について、セクソロジーの大家でもある鹿島氏はうれしそうにいろいろと分析しているが、われわれにとってかかわりがあるのは、この経験を小林秀雄が「Xへの手紙」に、「女は俺の成熟する場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた」などと書いていることである。なんとも偉そうであるが、嘘八百であって、小林秀雄は全然成熟などしていない。かりに学んだことがあったとすれば、書物からの知識など女との関係においては何の役にも立たないということだけであったはずである。それとも、そういうことをも成熟というのだろうか? 書物を読むことは生活ではないが、女と暮らすことは生活ではある。それがブッキッシュな知識で頭をいっぱいにした生意気な文学青年には有効なパンチにはなったかもしれない。「現実」を持ち出して、知識人を恫喝するという手法からわたくしが連想するのが、またしても、吉本隆明の「大衆の原像」なのである。
 さてこの辺りから、(わたくしから見ると)鹿島氏は迷走をはじめる。唐突に、人口学からユース・バルジという概念が導入されてくる。それは若者が人口のなかで占める比率が極端に高くなることをいうのだが、小林秀雄もユース・バルジの世代であったことが論じられ(第4章「ドーダと人口の関係性)、さらには父親との関係あるいは父と子の問題が検討される(第5章「小林秀雄と父親」)。
 小林秀雄中原中也長谷川泰子の関係というまったく偶発的な個人の間の関係が論じられたあと、一転して世代論的視点、マスからの視点が(わたくしから見ると)木に竹をついだような感じで、検討されることになる。
 小林秀雄のフランス語が出鱈目だったことがユース・バルジ論から説明できるかといえばそれは無理で、「女は俺の成熟する場所だつた」などというのを説明できるかといえばそれも無理である。ユース・バルジ論というのは、ある世代の特徴はどのようなものであるかということである。それはその世代の大雑把な傾向ではあっても、その世代に属する個々の人間がすべてその特徴を持っているわけではない。だから、小林秀雄もまたそれを備えている必然はない。おそらく父親のことがでてくるのはそのためで、ユース・バルジ論だけでは弱いから、もう一つの環境が導入されるわけである。だが、小林秀雄の父が46歳で死んだことは偶然である。それが父と子の対立を不完全なままで終わらせたとしても、それが小林秀雄をどこまで説明できるかも疑問である。父が自分が成人する前に死に、長谷川泰子のようなおかしな女性とかかわりができた小林秀雄世代の男というのはたくさんいたはずで、小林秀雄をそういう方向から説明することがどのくらいの説得力を持つのか、どうも納得できない。
 中学か高校で小林秀雄訳のランボーを読んで「凄い!」と思い、そのあとにフランス語を学んで、原文にあたり、あれ?、何か変だなと思ったひとはたくさんいるに違いない。例として、「書斎のポ・ト・フ」で向井敏氏はいう。「小林秀雄の誤訳珍訳はじつは昔から有名で、ぼくなんかもフランス語がやっとわかりはじめたころ、彼の訳したヴァレリーの『テスト氏』を原文と対照して読んであきれはてたことがあるんだが、だれもそれを言わずにきたのね。いまさら大人げないということもあっただろうけれど、どちらかといえば日本の文学界の小林秀雄信仰に遠慮したせいだったと思うな。」
 また、「篠沢フランス文学講義」では、「あなた方が、今非常に発達した仏和辞典をですね − 日本の仏和辞典というのは、世界的意味でもって非常に高い水準にありますね。・・ − この字引を使って、小林秀雄訳を左に置いて、ランボーの原文を真ん中に置いて、逐一照らし合わせて読んでいけば、間違いを幾つも発見できるでしょう。最近は随分直してますけども、例えば、昭和五、六年ごろに流布していた小林秀雄ランボー訳というのが古本屋で手に入ったとしますね。・・アッと驚くような間違いを続々と発見すると思います。・・一つ例をあげてみますと、これは散文詩『地獄の一季節』の中ですが、≪Je disais adieu au monde dans une espece de romance.≫(espese の真ん中の e にアクサン)というのがあって、・・「一種の恋歌の中で、わたしはこの世に別れを告げたのだ」というだけの意味なんですが、ぼくの記憶の中の小林秀雄訳だと、「おれは物語の一種としての世界に別れを告げたのだ」というんですね(現行の小林秀雄訳は、「物語の中にゐて、人の世には俺は別れを告げたのだ」となっているのだそうである。なんだかよくわからない日本語であるが、「自分にとっては物語の世界のほうが真実に思え、現実の世の些事などはどうでもいいことに思えたので、そんなものには俺のほうから愛想尽かしを言ってやった」というようなことだろうか?)。・・この種の間違いが続々とあるんですね。しかし衝撃的な名訳であることに変りがない。・・全く小林秀雄さんという人は、普通のフランス語はまるきし話せないし、聞いてもわからない。そういう人多かったですね。あのころの東大の仏文というのは。」
 要するに、小林秀雄というかそのころの東大仏文の学生は普通の本は読まずに、文学史に残るような作ばかりだけを読んでいるので、読む言葉読む言葉のすべてに意味があるように思えてしまうわけである。わたくしのフランス語は後にも先にも大学がごたごたして授業がなかった一年に通ったアテネフランセで学んだことがすべてであるが、dans などいう言葉は初歩の初歩というか一番最初のほうに出てくるわけで、ごく普通の基本的な構文の文がなぜそのように読めてしまうのか不可解である。
 さてこの本「ドーダの人、小林秀雄」が、ドーダしたいという人間の性向を論じたものなのか、小林秀雄をドーダという観点から見ると今までみえていなかった像がみえてくるということがいいたいのかが、どうもこのあたりからよくわからなくなる。
 中原中也との関係とか長谷川泰子とのかかわりとかを詳細に論じているところを見ても、小林秀雄という個に鹿島氏は烈々たる関心をもっていることは明らかななのだが、しかし、本書で論じられるのは若い時の小林氏とその作品だけであり、若い時にむき出しのされていたドーダがもっとソフィスティケートされた形で後年の氏の作品にはでてきているといった方向は追及されない。
 ランボーなどは例外であって、通常の作家の若書きなどは碌なものではなく、それにもしも価値があるとすれば、そのような若気の至りが後年、どうやって克服されていったかの検討資料としてではないかと思う。
 おそらく鹿島氏が「ドーダ」を最初に論じた文である「日本ドーダ文学史」(「モモレンジャー秋葉原」所収)で、氏は「正直自慢ドーダ」を問題にしているが、これはすでにラ・ロシュフーコーの「箴言集」でも言われていることであったといっている。そして「ドーダ理論を厳密に応用すると、口を開いて一言発する言葉、原稿用紙に書き付ける一語がみなドーダであって、しかも、それを自らドーダと認識する能力においてもドーダであり・・と、無限のドーダ連鎖地獄に陥るのである」という。
 このような困った状態を小林秀雄はどこかで「らっきょうの皮むき」といっていたはずである。自己分析という行為自体が非生産的で不毛なものであるということである。ある言語表現(だけでなく身体動作、表情といったものもふくめ)があったとき、「そこでどのようなことが言われているか」と「その表現をした人間は何を目的にしてそのようなことをいったか」という二つの側面があるが、数学の論文などは前者がすべてであるはずである。一般に理科系の論文というのはもそうであるはずである。そこには「Introducton」があって、「何を目的にして以下の論を書くか」が示されるが、そこでも目的は一意的に示され言外の意味をくみとる作業が要求されることはない。しかし文科系の文章では、「そこでどのようなことが言われているか」と「その表現をした人間は何を目的にしてそのようなことをいったか」を同時にくみ取ることが要求される(少なくともわたくしが受験した当時の国語の現代文ではされた)。
 内田樹さんが「太宰治村上春樹」(「村上春樹にご用心」に所収)で、太宰の「桜桃」の書き出し「子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」をフランス語訳したものをさらに日本語訳した文を示している。「両親は子どもに優先する、というふうに私は思いたい。古代の哲学者たちのように、まず子どものことを考えるべきだ、と私も思ってみたけれど、そうもゆかない。両親は子どもより傷つきやすいのだから。」 内田氏は「つまらない」という。内田さんがわざとつまらなく訳しているのだから、当然なのであるが、「そこでどのようなことが言われているか」というだけをみれば太宰の文もフランス語訳経由の内田訳の文もほぼ等価である。
 内田氏が注目するのは、太宰の文の一語「何」である。これは仏語訳では「eh bien non, croyez-moi」となっているのだそうで、croyez というのは「信じるという動詞の二人称複数命令形なのだという。つまりここで「あなたたち」が呼び出されてくる。だから仏訳経由の日本文も「まず子どものことを考えるべきだ、と私も思ってみたけれど、あなた方も同意してくれると思うが、両親は子どもより傷つきやすいのだとわたしは思う」とでもすべきなのである。つまり太宰の文の「何」という一言が、それまでの話者のモノローグから読者との交流への転換を導入するきっかけになっている。こういう語の使い方を、ヤコブソンは「交話的メッセージ」名づけたという蘊蓄を披露することで、内田氏は「学識自慢ドーダ」をかませているのであるが、それはさておき、文科系の文章では、「そこでどのようなことが言われているか」だけでなく、「その表現をした人間は何を目的にしてそのようなことをいったか」「話者は読者に何を伝えたいか」ということもまた読みとることが要求されるわけである。小林秀雄の文がある時期、入試の現代文の問題に頻出したのは、「そこでどのようなことが言われているか」以外の要素を大量にふくむ文章の典型であったからなのであると思う。「次の交差点を右折して100メートル歩くと交番があります」という文を現代文に出題するわけにはいかない。
 小林秀雄は言外の意味を大量にふくむ文を書くのを得意とするひとであったから、ランボーの詩からも過剰に意味を読み取ってしまったことが、あのようなランボー訳ができたことの根底にあるのではないかと思う(フランス語の基礎力の問題が根本ではあるにしても)。
 言語がモノローグではなくダイアローグとして発せされればすぐにそこに人間関係が生じ、支配と被支配の関係が生じるわけであるし、さらにはモノローグの場合においてでも、自分のなかに二人の人間がいて、それが会話しているという構造があることが問題となる。考えるということは、自分はこう思う、本当にそうか? という会話を自分のなかですることである。自分のなかに二人の人間がいる(倉橋由美子の言い方では「わたしのなかのかれ」)。その自分のなかの二人の会話が無限退行におちいっていく不毛を小林秀雄は「らっきょうの皮むき」といったのだと思う。
 「小林秀雄長谷川泰子」の章で、鹿島氏は「そもそも自己意識というのはいったい何だろう?」と問うて、こう回答する。「二つ(あるいはそれ以上)に分裂した自我の片方がもう片方を批判的な目で眺め、その反省的(自己回帰的)意識を自らのうちに取り込んで、自己制御や自己抑制に役立てることであり、基本的には、思春期の自我の肥大化が起こってから、大人になるまでの過程で誰にでも訪れる「必然」なのである。」と。
 この問いが出てくるのは、ユゴーを論じている部分においてなのであるが、鹿島がいうのは、ユゴーは自己意識のスイッチ・オンを自覚できなかったほど肥大した自我を持つ人で、極端にいえば最晩年に至るまでスイッチ・オンを自覚せずに済んだ幸福な人間(つまり一生の間、自分を疑うというようなことを本気でしたことがない人)であるのだ、と。
 吉田健一は「ヨオロツパの世紀末」でこんなことを書いている。「人間が自分の内部を覗いてそこで行われていることに注意するというのは永遠の責め苦という種類の刺戟があって始めて人間が本気でそれをやることで、その結果は自分を見失うに至ることに他ならず、・・こうしてヨオロツパ人は自分というものをなくしたのである。・・もしヨオロツパ人に自分はと聞いたならばその答えは少なくともかなり最近までは自分の魂ということだったはずで、・・その魂の持ち主である自分という事情が生じてヨオロツパ人の精神を支配し、あるいはこれに或る特定の働きを与えることになった。その働きは古代人になかったと確実に言えるものである。」
 とすればユゴーは古代人であったわけで、自分を失うことのない自分をつねに信じられる幸福なひとだったことになる。本書で小林秀雄の周辺においてユゴーになぞらえられているのが中原中也で、中原中也は自分を信じることのできる幸福なひととされている。中原中也は三十歳で死んでいるから、もっと長生きすれば直面したかもしれない自己意識による葛藤を経験せずに済んだ幸福な人なのである。それと対比される小林秀雄は、その葛藤のなかで進退窮まっていたわけで、その泥沼から氏を救い出してくれたのがランボー(あるいは小林秀雄が誤読したランボー)であったわけである。その時代に、小林秀雄と同じような鬱屈を抱えていた青年がたくさんいたため、小林秀雄訳の「地獄の季節」はそれらの青年たちのバイブルとなり、小林秀雄が「文学の神様」に祭り上げられたということなのであろう。
 そして、小林秀雄の同時代ばかりでなく、その後も青年期に同様の煩悶をかかえる青年は多くあって、ランボー小林秀雄は読み継がれていった。しかし20世紀後半のある時から青年の持つ悩みの方向がかわり、故に小林秀雄も読まれなくなっていったという見解が本書の後半で展開される。
 小林秀雄がその後に著した様々な書物もその根底に一貫してあるものは自己意識のもたらす不毛と、その不毛の克服ということであったのだと思う。たとえば「モオツァルト」。「疾走するかなしさ」というのはかなしさの停滞しないということである。ゲーテがベートーベンを介して知った「シュトルム ウント ドランク」というのも、ロマン主義の再興であり、その異常な自己主張の危険であり、人間的な餘りに人間的な劇の持つ問題であり。それと対比されるモオツァルトの音楽はどつぼに停滞することなく駆け続けるのである。
 「もう二十年も昔の事を、どういう風に思ひ出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大坂の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴つたのである。僕がその時、何を考へてゐたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、さういふ自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついてゐたのだらう。」 モオツァルトの音楽はただ音楽としてあるのではなく、若い日の自意識の空転と対比されることで、小林秀雄にとってはじえめて意味のあるものとなるのである。
 われわれは小林秀雄の「モオツァルト」を読んでも、モオツァルトについて何事かを知るということはない。われわれがそこに読むのは、モオツァルトについてさまざまな断定を連ねる小林秀雄という一人の著作家の声なのである。さまざまな証拠からこうであると述べていくのではなく、自分はこう思うということをただ述べていく。
 だが、これを書いている小林秀雄は、初期の作品とは違って、自分を示そう、自分をドーダしようとはしていない。自意識の空転は克服されねばならないという視点から見えるモオツァルトの像を示そうとするのである。
 誰だったか(青山二郎?)が小林秀雄の書き方を評して、釣った魚を示すのではなく、魚を釣る手つきを見せるだけだというようなことを言っていた。「ほらほら、かかったぞ! 大きいぞ! 来た来た来た!」 だが、釣った魚のことは決して書かれないのだと、つまり、読者にさんざん期待させるが、実は何も見せるものがないのだ、と。魚は釣れていないのだから。
 どーもユース・バルジという論点は唐突なので、第6章「アーサー・シモンズの影響」を先にみることにしたい。

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

書斎のポ・ト・フ (ちくま文庫)

篠沢フランス文学講義 2

篠沢フランス文学講義 2

モモレンジャー@秋葉原

モモレンジャー@秋葉原

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)