辻原登「籠の鸚鵡」

   新潮社 2016年9月
 
 辻原氏は19世紀の発明である小説を信じているひとなのだと思う。19世紀の小説は西洋が発明した個人とかかわるもので、市井の平凡の人間のなかにも神話の英雄に勝るとも劣らないドラマがあるのだという信念に基づく。ところが20世紀になると、個人にくらべてあまりに大きい国家であるとか組織であるとかが意識されてきて、個人というものをそれまでと同じようには肯定できなくなってきた。たとえばカフカ
 西洋由来の小説を信じる辻原氏は市井の平凡な個人を描く。そしてここで描かれるのはやくざとその抗争であり、それにまきこまれる小役人、飲み屋の女などである。インテリは一人も登場しない。
 物語は前半は後半に展開されるやくざの抗争の伏線のためについやされていささか説明的である。後半になって話が動き出す。
 三島由紀夫中村光夫の対談「人間と文学」で三島由紀夫がこんなことを言っている。「ぼくはドナルド・キーンで感心しているのは、「道行」で人物の背が非常に高くなるということ、それまでは背の低い人物たちが争ったり恋したり泣いたりしている、それが心中直前の「道行」の文章にきてそこで背がすっと高くなるという、あれは非常にうまい批評だと思う。やっぱり背の高くなる文学というのは非常に必要ですよね。」
 本書もまた一種の「道行」の話でもあるのだが、それで人物の背丈が高くなっているか? 「市井の平凡の人間のなかにも神話の英雄に勝るとも劣らないドラマがあるのだ」ということは、よくみれば彼らの背丈も高いのだ、ということである。少なくとも高くなれる可能性があるのだということである。わたくしにはそれが十分にそうなっているようには読めなかった。
 難しいのは、人物の背が高くなろうとすると、しばしば超越的な何かに接近してしまうことである。途中まで、この話は町田康さんの「告白」のような方向にいくのかと思って読んでいた。町田さんは救済への希求のようなものがとてもつよい方だから、それでいいのだが、辻原氏はそこまでのものはもたないひとであるように感じる。そして個人というものも19世紀の小説家ほどは信じることができないのだとすると、現在においてこの方向の小説を書くことはとても難しい作業になるのではないかと思う。たぶん、後は技術ということになるのではないかと思う。その技巧に関しては辻原氏はとても大きなものをもっていると感じる。

籠の鸚鵡

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