山本七平ライブラリー(7)「ある異常体験者の偏見」の福田和也氏の解説

  文藝春秋 1997年
 
 本棚を整理していて奥からでてきた「山本七平ライブラリー」の解説を拾い読みしていてこの巻の福田氏の解説が目についた。
 福田氏はいう。欧米から来る日本の社会や文学の研究者には山本七平の著作を読むことを勧める、山本を読まずして、日本を語ることは出来ないといって。
 山本の本を読めば日本の社会あるいは共同体について実に多くのことを知ることができる。しかし、だからといってそのことが彼ら研究者のキャリアに有利に働くかといえば、決してそうではない、と。なぜなら、欧米の日本研究者が共通してもっている日本理解の基本は講座派から丸山眞男までの近代主義者によって形成されているから。つまり彼らの研究姿勢は、西欧から発した近代的学問の枠組みのなかに収まっているのであるが、山本の論はそういう近代的学問的枠組みから逸脱しているからなのだ、と。
 もっといえば、山本が示したのは、日本を語ることは形式的アカデミズムを踏みはずさざるをえないということであり、山本の述べたことを考えようとすると、近代的学問自体をも見直さざるをえないことになるのだ、と。
 たとえば、山本の著書にあるイスラエルにおける遺跡発掘に従事した国際チームのなかでなぜか日本人のみが発熱などの奇妙な病態を呈したとき、その日本人チームを率いていた山本は一計を案じて日本人全員をあつめて「お祓い」をした。そうすると不思議なことに日本人たちの病気は快癒した。イスラエルユダヤ教の遺跡を発掘にくるような日本人は当然に熱心なキリスト教徒である。その人たちに「祟り」を除く「お祓い」が効くとは! 山本はいう。日本人は結局日本教の外にでることはできないのだ、と。
 山本の論の強さと苦渋はこの日本人教徒のなかに自分をもふくめていることにある。日本ではかなり例外的な存在である内村鑑三由来の無教会派のキリスト教信仰をもつ山本氏にして、それでも自分は日本教のそとに生きることはできないことを認めたこと、それが山本氏の論の説得力の源泉であると同時に、氏の説がアカデミズムにはなじまないことになる原因ともなっている。
 山本が紹介しているもう一つのエピソード。敗戦後、アメリカの将校が山本にいいことを教えてあげよう、人間の祖先なサルなんだよ、といった。山本はそんなことは日本人なら中学生でも知っているよ、と辟易して答えたら、その将校は驚いていった。ではなぜ日本人は一方で進化論を理解しながら、他方で天皇は神だと思うことができたのか?
 福田氏によれば、これは日本人とアメリカ人が互いに異質な論理によってものを考え行動していながら、それをお互いに理解することなく向き合っているということである。もしも研究者がこのことを理解したら、それは彼らの研究者としてのキャリアに資するだろうか? 
 山本氏の「異常」は普通のひとなら看過してしまうようなところに敏感に反応するところにある。「ある異常体験者の偏見」もある日本人ジャーナリストの紋切型の、福田氏のいうところの、何の変哲も無い、日本のジャーナリストが好んで書く類の、無内容で仰々しい、どこにも自分の頭で思考した形跡のない、大勢に阿っているだけの、それゆえに取り立てて問題にすべき点などどこにも見いだせないような代物である凡庸で能天気な毛沢東中国賛歌の論に山本氏が強く反応するところからはじまっている。そこでジャーナリストがいう〈中国人民の「もえたぎるエネルギー」が「強大な武器」をもっていた日本帝国陸軍を倒した〉という言い方に、それはそっくりそのまま戦前戦中の日本で猖獗をきわめた論法、冷静に考えれば到底勝てるはずのない相手に、自分の側の精神力を過大にあるいは無限に評価することによって、対等に戦える、あるいは打ち負かせるとした発想とまったく同じではないかということを敏感に機敏に感じ取るのが山本氏なのである。
 
 イスラエルでの逸話は山本氏がよくいう臨在感の問題である。たぶん日本人は「骨」といったものに欧米人が持たない臨在感を感じる。一方、欧米人は「神」に臨在感を感じるが日本人は感じない。だから日本ではまったく社会生物学論争がおきなかったし、なぜそのようなことが欧米では大問題になるのか理解できなかった。
 アメリカ人将校が日本人が進化論を知っていながら天皇を神だと思っていたことに矛盾を感じるのは、彼らにとっては神が臨在感がある存在だからである。一方、日本ではごく一部の熱狂的な天皇崇拝者以外には天皇が神として臨在していると感じてはいなかったわけで、だからこそ天皇は神聖にしておかすべからずと進化論が矛盾なく並立できてしまっていた。
  山本氏によれば戦前も戦中も戦後も日本人はまったくかわっていない。だから山本氏の論は、戦後の日本は変わった、その戦前のさまざまな欠点、問題点を克服し良い方向へ向かおうとしているという論(革新派?)とも、戦後の日本は欧米の軽佻浮薄が導入されて堕落への道をひたすら歩んでいる、戦前の〈美しい日本〉へと回帰しなくてはならないという論(保守派?)とも、決定的に対立するものなのである。それなのに、なぜか山本氏は保守派の論客とされているようである。不思議な話である。
 このことはわれわれに多くのことを考えさせる。たとえば片岡義男氏が「日本語の外へ」で指摘する日本人がしゃべる英語の非論理性、いつの間にか主語がどこかに消えていってしまい、エニイウエイの連発になる英語(いずれにせよ、それはともかく、それはそれとして、ですからまあ)、主語を立てて語り始めたなら、そこには論理への責任がともなうという英語の正用法とは縁もゆかりもないわれわれが話す英語(ジャパンイーズ・イングリッシュ?)、あるいは林達夫氏が「新しき幕明き」でいう「人のよい知識人が、五年前、「だまされていた」と大声で告白し、こんどこそは「だまされない」と健気な覚悟のほどを公衆の面前に示しているのを見かけたが、そういう口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思えない軽挙妄動をうけぬけとやっていたのだから唖然として物を言う気にもならない。えてして、政治にうとい、政治のことに深く思いを致したことのない人間ほど、軽はずみに政治にとびこみ、政治の犠牲になるというのが、わが国知識階級の常套である」とも通じる。
 「ある異常体験者の偏見」でかわいそうに山本氏の論の餌食になった人のよさそうな毛沢東信者の毎日新聞論説委員氏などもこの人の好い知識人の典型である。もっと言えば、マスコミの論調というのが表面的には戦前・戦後で180度変わっているように見えても、その根っこにおいてはまったく変わっていないということでもある。
 ところで山本七平氏の書くものは、話題があっちに飛びこっちに飛びで論旨をたどるのが容易でないことが多い。とても日本語的あるいは日本語法的なのである。一方はわたくしが敬愛する吉田健一氏は牛の涎のような、いつまでも綿々と続く句読点の著しく少ない実に読みにくい文章を書いた。しかしそれでも何とか意味をとれるのは氏の書く日本語が洋文脈であるからなのだろうと思う。何しろ、子供のころは家の中で家族が英語で話していたというひとである。小説「金沢」の書き出し「これは加賀の金沢である」などというのは絶対に日本語ではないと思う。「これ」というのは何なのだろうか? 以下に書かれることすべてなのである。まず結論を述べ、しかる後にそれがどうしてであるかが説明されていく。
 われわれが書く(書かされる)学術論文というのが洋文脈そのものである。養老孟司氏は氏が文章を発表し始めた頃、専門の論文を英語で書くようにといわれるのがどうしても納得できないということを言っていた。「いわゆる自然科学の文章を、日本語で表記したいという気持ちが、大きな動機だった」と「ヒトの見方」のあとがき」に書いている。「自然科学の基礎は、およそいまでも、なおざりにされているように私は思う」とも書いている。「なによりも基礎的な考えの問題である。ことばの問題も、とうぜんその一つである」ともいう。また「文化というのは、もともと物差のことをいうのではないだろうか」とも書く。しかしその後延々と養老氏が書いてきているものはアカデミー内部では一顧だにされていないだろうと思う。
 何かで丸山眞男山本七平を読んだことがなかった(名前も知らなかった?)というようなことを読んでびっくりしたことがある。やっぱり丸山眞男はアカデミーの人だったのなあと思う。山本氏のものを書く書き方はアカデミーで評価されることを期待していないことが(そうとは書かれていないにしても)明白である。とすればアカデミーの側でも自分宛てに発信されていないものをとりあげる必要などさらさら感じないわけである。
 わたくしが今まで面白がって読んできたひとを考えてみると、ほとんどがアカデミーの外のひとであることを感じる。あるいは、ある問題自体を論じているものよりも、その問題がもっと大きな全体の中でどのような位置づけにあるかということを論じているものにはるかに大きい関心をもってきたように思う。わたくしは医者であるけれども、医療における個々の問題よりも、医療というものがもっと大きな全体の中でどのような位置にあるのかということのほうにずっと大きな関心をもってきた。たとえば、喫煙ということは医療の中で考えれば有害な行為であることは明々白々であるが、わたくしは禁煙派というのが嫌いで、それは禁煙派にピューリタニズムの匂いを強く感じるからである。それは、ピューリタニズムというのが西洋の諸悪の根源の一つであるとわたくしは思っているということでもある(あるいはキリスト教、その原罪意識がということになるのかもしれない)。
 キリスト教は西欧の文化の背骨であるから、西欧からキリスト教をなくしてしまえば西欧というもの自体がなくなってしまうわけであるが、キリスト教の持つ野蛮を能うるかぎり少なくしていくことが西欧の心あるひとびとが営々と努力してきたことなのではないかとわたくしは思っている。
 この福田和也氏の解説を読んでそんなことを考えた。

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