J・マーチャント「「病は気から」を科学する」(1)はじめに
講談社 2016年4月
大変面白かったので、時間をかけて見ていきたい。訳者解説のようなものはないが、著者は女性科学ジャーナリストのようである。
「はじめに」は、ある女性がホメオパシーで湿疹が治ったといっていたというエピソードからはじまる。科学の側の人間として、著者はホメオパシーで使われているのはただの水なのだとその女性に説明する。しかし、その女性は「科学者の理解を超えたホメオパシーの本質をわかっていない」として著者を少々鈍い人間であるかのように見たのだという。ここに「今日の医療における大きな哲学的な論争のひとつ」が現れていると著者はいう。
哲学的というのがいささか意味不明であるが、医療における論争は「従来の西洋医学の擁護者」(合理的で、還元主義的で、物質界に根をおろしている)対「それ以外の全員」でなされていると著者はいう。
「従来の西洋医学の擁護者」にいわせれば、「体は機械のようなものであり、思考とか信仰とか感情といったものは、病気の治療とはほとんど関係がない」のであり、彼らは物理的方法で検査し、物理的方法で治療をする。ようするに彼らは壊れた部品の修理をする人である。
一方「それ以外の人たち全員」は、古代の医療、代替医療、東洋医学といったものの信奉者で、物質よりも非物質的なものを優先する。個々の症状よりも人間全体、検査結果より主観的な体験や信仰を重視する。彼らは「気の場」というようなことを盛んにいう。
前者の典型としてはドーキンスやゴールドエイカーのような人がいる。医療には根拠に基づく治療法以外は必要ないという。そして、著者もまたその側の人間であるということがここで宣言される。だが、それにもかかわらず、「正統派」が「それ以外の人たち全員」を正しく理解しているとはいえないと著者はしている。正統派は何かを見逃しているのではないか、と。すなわち「心」のことを。
ということで、当然、ここにデカルトが登場することになる。西洋医学における心身分離のきっかけは彼に由来するから。科学の対象となりうる物質と、神の贈り物であり科学的に研究することができない非物質的な精神がそこで明確に区別をされたのだから。
現在、デカルト的二元論を採用している哲学者や科学者はほとんどいない。思考あるいはこころといわれるもおは脳の状態の反映であり、脳はニューロンという物理的な構造の集合体であるのだから、心もまた物質で説明可能であるのだから二元論は必要がない。だが、そうではあっても「主観的な思考」や「感情」といわれるものは通常は物質的なものではないと考えられている。
1950年代から、無作為化対照試験が導入されてきたことにより、「主観的な体験」は医療の場からさらに排除されていくことになった。
現代医学において、物質主義的な取り組みが非常に大きな成果をあげてきていることはいうまでもない。しかし、そうではあるが、疼痛、うつ病、あるいは心臓病、糖尿病、認知症などの慢性疾患については必ずしも十分な成果をあげているとはいえない。現代医学が測定できる物質的なものに拘泥しているあいだに、思考や信仰には人を癒す効果があるという見方は正当派以外のさまざまなひとびとに乗っ取られてしまった。書籍、ウエブ、ブログには「心の葛藤をなくせば、がんは治る」といった話に充ち満ちている。あたかも心は病気を治す万能薬であるかのごとくである。
もちろん、それは間違っている。と同時にそれを「正統派」がやっきになって否定することにより、「心が健康に影響を及ぼすこと、代替医療も多くの症例で効果があること」という現実までも否定してしまうという行きすぎもおきてきてしまっている。心が健康に影響することは素直に現実をみるならば、明白な事実ではないか。
ということで、本書の構成として、まずプラセボ効果、心を騙して病気と闘わせる催眠術などをまずとりあげ、その後、瞑想とかバイオ・フィードバックなどへと進んでいく構想が示される。そして最終的な方向として、心は万能薬ではない、しかしそれが効果がある場合も少なくないという結論となることが示唆される。
ドーキンスの本はここでもかなり取り上げていると思う。ゴールドエイカーの「デタラメ健康科学」も取り上げた。
ドーキンスを読んでいて(とくに近年の宗教批判派としてのドーキンス)を読んでいて感じるのは「野暮な人だな」ということである。ドーキンスと対立するグールドを「粋な人」とはいわないまでも「複雑な人」であるとは思う。一般的にいって西洋は東洋にくらべ「野暮」であるということはいえるだろうと思う。とおすれば、ドーキンスは正統派西洋人、ドーキンスは異端派西洋人ということになるのだろうか。
デカルトが後世に残した最大の問題点は「心」と「身体」を分けたことにあるのではなく、「心」は人間にしかないとした点にあるのだと思う。人間の持つ心(精神)は神の恩寵の賜物なのであり、それを持たない人間以外の動物は単なる機械である。つまり、人間と人間以外の動物の間に明確な線を引いてしまったことで、人間も動物の一種であることをその出発点する医学では、人間にしかない「心」はそもそも扱いかねるものとなってしまう。
それゆえに精神医学というのは臨床医学のなかで非常に奇妙な立ち位置にいることになってしまう。精神医学以外は身体医学ということになって、身体というのは人間から心を抜いたものということになる。機械としての人間を研究するのが身体医学ということになる。
お釈迦様が死んだときには様々な動物がそのまわりに集まっていたと思うが、キリストの死をみとったのは弟子たちだけである。西洋では人間は特別であり、東洋では人間は動物の仲間である。一切衆生悉有仏性。
われわれがおこなっている医学は西洋の医学であって、そうであるからには野暮は必然的にそれにつきまとう性格となる。だが一方、代替医療だとか統合医療だとか言っている人たちの多くは、俺たちは肉体などという下賤なものではなく、心とか精神といったもっと高級なものをあつかっているのだという変な高等意識が感じられるいんちき宗教家めいた胡散臭い、つまり野暮な人も多い。
そういうなかで、本書があまり抵抗なく読めるのは、地道で野暮な西洋流のやりかたで問題が論じられているからであると思う。
若い時に読んだG・ベイトソンの「精神と自然」のなかのいくつかの言葉がいまだに頭に残っている。「生ある世界(区切りが引かれ、差異が一つの原因となりうるような世界)とビリヤード球や銀河系のような生なき世界(力と衝撃こそが出来事の原因となる世界)との間がいかなる根底的概念によって区切られているか」「量ではない、常にカタチ、形態、関係なのである」「あるコンテキストの中に置いて見なくては、何事も意味を持ち得ない」「‟コンテキスト”は‟意味”という、これまた未定義の概念と結びついている。‟コンテキスト”なしには言葉も行為もまったく意味を持ち得ない」 あるいはまたポパーの「果てしなき探求」のなかのいくつかの言葉。「生命の起源と問題の起源は一致しているとわたくしは推測する」「いかなる物理化学的理論も新しい問題の発現を説明できない」「生物体のもろもろの問題は物理学的なものではない」
これらの言葉は、生命を持つものと生命を持たないものを峻別するということをいっている。人間と人間以外のものの間に線を引くのではなく、生命を持つものと生命を持たないものの間に線を引くということである。
戸田山和久さんは「哲学入門」で、こういうモノの世界とココロの世界を峻別する二元論的見方を強く批判して「世界をふたつの交わらないパーツに分けておくのは無駄だし不健全だ」といっている。つまりココロといわれるものだって唯物論的に説明可能なのであってココロを特別あつかいする必要なないのだということである。しかし唯物論的に見れば、生きていたものがあるとき死んでしまったとしても、それはまったく一連の物理化学的過程の連続であって、そこには何ら不連続なものはない。つまり物理学的にみえれば生命は特別なものではない。わたくしから見ると、戸田山さんの論は、もはや誰も信じるものはいないであろうデカルト的なココロを聖別する見方(それはキリスト教を文明の基礎とする西欧においては依然として力を失っていないのかもしれないが)を未だ強力な力を持つものとして敵にしたてて戦いを挑むといういささかドン・キホーテ的な試みであって、本当に大事な問題から目をそらす結果になっているのではないかとわたくしは思う。つまり戸田山さんの論は狭い哲学業界(とりわけ西欧、もっといえば英米の哲学業界)のなかでの内輪の議論であって、われわれが日々直面している問題とは少しも関わらないまさに形而上学に過ぎないと、わたくしなどにはどうしても思われてしまうわけである。
デネットは「解明される宗教」(原題は「呪縛を解く」)で、この本はアメリカ人である自分がアメリカ人の読者に向けて書いたもので、アメリカ人でないほとんどの人にとって、そのことは当惑をおぼえるもの、不快なものであるであるだろうことを著者は十分に理解していることを述べている。「アメリカは、宗教に対する態度という点で、世界の主要な国々とは著しく異なっている」からそうなるのだが、もちろんデネットが問題にしている宗教はキリスト教なのであって、神によって聖別された存在である人間、その聖別の根拠である心(あるいは魂)ということが西欧の根底にいまだずっしりと存在しているからこそ、われわれ日本人にはまったく不要のものと思われるその本が書かれることになった。
この「「病は気から」を科学する」もイギリス人である著者によって書かれたものであるから、最終章が「ルルドの奇跡」をあつかうことにもなる。最初、目次を読んで、最終章がルルドになっているのを見て、ちょっと嫌な感じがしたのであるが、特に科学から外れることなく本が終わっていたので安心した。
われわれが心と呼んでいるものは中枢神経系の機能のある側面であるとしていいのであろうが、本書でいわれていることは、中枢神経系は従来想定されていた以上に免疫系をふくむ様々な身体機能に密接にかかわっているということで、あるいはそれのみであるといってもいいくらいであるのかもしれない。そうであるならば心が病の過程に影響するのは当然であるし、また中枢神経系に一切かかわることなく自律的に運営されているシステムには心は影響を及ぼすことがないというのも当然ということなる。
心身二元論ではなく、生物‐物質二元論である。もちろん、生物の機能も完全に物質の言葉で語られうる。しかし物質の言葉で語ったとしても生物を生物たらしめているものはそこから完全に抜け落ちてしまう。「生き残る」という〈問題〉は、あるいは生物がおかれている〈状況〉は物質の言葉では説明ができない。
というようなことを書いているわたくしは戸田山氏の論を根っこのところから誤解しているのであろうが、わたくしには氏の論はもうとっくにわれわれのわまりからは消えてしまった「神さま」をまだ現実にいる敵として戦いを挑んでいるように思える。われわれが心というものを必要以上に自律的なもの思いがちなのも、キリスト教の神様の亡霊の影響なので、そういう先入見をとって心というものをようやく自由にみることができる時代になってきているということなのではないかと思う。
要するに、生物学を物理学・化学に還元できるかということだと思う。もちろん還元できるのだけれども、還元すると生物学から生物が消えてしまうのである。
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