鹿島茂「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」 加藤典洋「敗者の想像力」 山川方夫「春の華客 旅恋い」

 
 

 エマニュエル・トッドの名前をはじめて知ったのは、確か毎日新聞の読書欄の毎年恒例の今年の3冊といった特集で養老孟司さんが、その一冊としてトッドの「帝国以後」を挙げていたのを読んでであったと思う(と思って調べてみたら、2003年5月11日の単独の書評であった。タイトルは「乱暴な仮説が導く明快な世界像」(丸谷才一池澤夏樹・編「怖い本と楽しい本」で確認。毎日新聞の書評であることは間違っていなかった)。
 わたくしがまもとに読んでいるのはこの「帝国以後」くらいで、「新ヨーロッパ大全」とか「世界の多様性」といった本格的な著作も買ってきて本棚に置いてはあるのだが、歯が立たないでそのままになっている。
 後は最近次々に刊行される新書版のトッドのインタービュー集であるが、やはりもう一度勉強しなおさなければと思っていたところ、書店で偶然にこれを見つけ、トッドの勉強の足慣らしにと思って買ってきた。
 鹿島茂さんの最近の本を読むとやたらとトッドの名前がでてくるので、氏がトッドにいれあげていることはわかっていたが、「あとがき」を読むと、氏はこの3年ほど勤務先の明治大学でトッドについての講義や演習をおこなっていたのだそうで、それをもとにまとめたのが本書ということである。
 なるほど大学の先生というのはその手があるのかとちょっとうらやましく思った。給料もらいながら勉強ができるというのはなかなかのシステムである。鹿島氏は性愛方面の権威でもまたあらせられるのだが、それも大学で講義したりしているのであろうか?
 わたくしが一部の文科系の人の著作を読んで、しばしば感じる不満というのは、このひとは進化論についてほとんど何もしらないのではないか、あるいは考えたこともないのではないかということである。人間もまた動物であるという当たり前のことが思考からまったく抜け落ちているように思えることがある。
 いまわれわれがなじんでいる学問体系は西洋由来のものであり、西洋文明の背骨にはキリスト教があり、キリスト教は人間と人間以外の動物を峻別するのであるから、これは実にやっかいな問題をおこす。
 人権がどうこうとか、本来的に男女間に差異はないとか、そういうことをアプリオリにいわれると実に困る。しかし、進化の課程が人間を規定しているのは狩猟採集時代までであって、農耕時代以降の時代は、われわれの遺伝子にくみこまれるためにはまだ時間が全然足りないのだそうである。
 とすると文化とか文明とかを遺伝的につまり染色体レベルに組み込まれたものとしては説明できないことになる。そしてそこをうまく説明するものとして、トッドの本は画期的ということなのだろう。
 まだ序章の「人類史のルール」のあたりを読んでいるのだが、人口学における最大の問題が人類における多産多死系から少産少死系への移行ということがあり(しかも少死化は少産化に必ず先行するから移行期には必然的に人口の急激な増加をある時期ともなう)、従来はそれを規定するものは「経済」の問題であると説明していたが、そうではなくそれは「識字率(とりわけ女性の識字率)」であるとした点がトッドの業績であるということが説明される。そして、この女性識字率は家族システム(家族類型)によって大きく規定されるとトッドはした。家族の分類に大家族と核家族ということは従来からいわれていたが、トッドはそこに兄弟間の遺産相続の平等・不平等という視点を導入した。親子関係が「権威主義的」か「非権威主義的」かにこの兄弟間の相続の平等不平等の視点を加えると、家族は当然4類型に分類されることになる。親子関係が権威主義的で兄弟間の相続が不平等が、ドイツであり、韓国であり、日本である。一方権威主義的だが相続平等なのが、ロシア・中国・フィンランド、非権威主義的だが相続不平等が、英国、北米、オーストラリア、非権威主義的で相続平等なのが、フランス、スペイン、イタリア、ポーランドということになる。
 「帝国以後」を読んだときも、この女性の識字率の向上が出産率を低下させるという指摘が非常に衝撃的だったことを覚えている。そして若者人口の急増とそれによる社会の不安定化というのも、それは少死化への課程の一時的現象なのだからいずれ必ず沈静化するものであるという指摘もとても衝撃的だった。
 鹿島氏は1949年の生まれである。わたくしが1947年生まれなのでほぼ同世代としていいであろうが、まさに戦後(第一次)ベビーブームの世代である。そして大学闘争を経験している世代でもある。その混乱が何だったのかということは、われわれの世代の最大といっていい問題である。おそらく鹿島氏がトッドに惹かれる背景としては、自分でベビーブーマーであること、大学闘争時代を経験している人間であるということが大きく関係しているのではないかということを感じる。つまり、鹿島氏にはトッドの本は、われわれの時代になぜ大学闘争といったものがおき、なぜ今大学はあきれるほど静かなのかということを説明してくれるものと思えるのであろう。われわれの時代の大学はヘルメットとゲバ棒と立て看であった。今の時期、街にあふれているリクルート・スーツを身にまとう若者たちをみると本当に隔世の感がある。

 

敗者の想像力 (集英社新書)

敗者の想像力 (集英社新書)

 加藤氏の本は「戦後入門」があまりにつまらなかったので(知識人あるいは読書人が社会にどのような影響をおよぼしうるかという点に根本的な誤認がある本であると感じた。だからひたすら空しい大言壮語としか思えなかった)、もう読むこともないかなと思っていたのだが、本書はカズオ・イシグロ林達夫大江健三郎山口昌男多田道太郎吉本隆明鶴見俊輔といったこちらが読んでいたり、関心があったりするひとを多く論じているようであるし、加藤氏が本来の自分の領域に戻ってきて書いている本であるような気がしたので買ってみることにした。
  
  山川方夫は1930年に生まれ、1965年に35歳で交通事故死した(郵便をだしにいく途中でトラックに轢かれた)小説家である。もはやほとんど忘れられた作家であろうが、生前においてもマイナー・ポエットという扱いであったような気がする。シャイなというか死んでも大言壮語はできないひとという印象で、江藤淳が随分と高く評価していて、それでわたくしも死後にでた全集の何冊かを買った記憶がある。今でも書棚の片隅にあると思う。その小説のいくつかは断片的に覚えている。他人とかかわることに奥手であるというか、基本的に他人とつきあうのが苦手というような感性が基本にあるひとだと思うので、わたくしも自分にどこかそういう部分があるように感じているので、そしてわたくしと同じくどこか生きるためのエネルギーが不足しているようなところもあるひとだと思うので、偶然、書店で目について懐かしくて買ってきた。(今、本棚から冬樹社版「山川方夫全集 第四巻」を見つけてきた。その中の「他人の夏」という小説が記憶に残っている。解説を曽野綾子が書いていて、これも読み返して初読の印象が蘇ってきた。二段組み11ページの随分と心の籠った解説であるが、たとえば「あなたとお会いすれば、もう、下らぬ話ばかりでした。下らぬ話というのが、実は私たちにとっては意味があったのですが・・」といった調子なのであるが、それは山川氏も曽野氏もともに「東京人」であったからではないかという。「東京人は、深刻になることを好まないのです」、そう曽野氏はいう。
 さて今、橋本治さんの「知性の顚覆」という本を読んでいるのだが、そこではもっとはっきりと東京の山の手の生まれという問題が主題となっている。わたくしは東京の山の手の生まれ(杉並区)で、治さんもそうらしい(もう少し新宿寄り?)。上昇志向のなさというのが東京の山の手生まれの特徴であると治さんはいうのだが、これが大学闘争の問題とからめて論じらていれる。そしてそういうことになると庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」が連想されて、とかどんどんと話が広がっていくのだが、それについては、「知性の顚覆」を見ていくときにあらためて考えてみることにしたい。
 
帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)