橋本治「知性の顚覆」(2)

 
 今日、書店にいったら「石牟礼道子」という本があって、巻末の文献をみていたら、当然のことかもしれないけれども、渡辺京二さんの本がたくさん並んでいる。しかし、知らない本もたくさんあって、渡辺さんはまだ旺盛に本を出しているのだなと思い、書店めぐりして、以下の渡辺氏の本を入手した。「気になる人」「日本詩歌思出草」「さらば、政治よ 旅の仲間へ」「私のロシア文学」。

気になる人

気になる人

 その「気になる人」の巻末の伊藤比呂美さんとの対談で「東京と熊本、そしてカリフォルニア」というところがあった。渡辺氏はもとより、伊藤さんも熊本に住んでいるらしい。そこで伊藤さんは東京は排他的な世界だということをいっている。この前のエントリーで東京対地方ということを書いたけれども当然アンチ東京派というのが存在するわけである。わたくしは渡辺さんの書くものに多くの点で共鳴するけれども、氏の持つコミュニタリアニズム共同体主義?)への傾きにだけはついていけないものを感じる。そのことから何となく考えたのが、地方=集団主義、東京=反集団主義個人主義?)というような傾向があるのだろうかということである。あるいは徒党を組むことへの嫌悪というのは都会(東京)の人間のものものなのだろうか?
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

 「逝きし世の面影」はおそらく渡辺氏の名を天下に知らしめた著書ではないかと思うが、同時に、それまでいたコアな渡辺ファンの一部は、左派の渡辺氏が先祖返りして右にいったといったうけとりかたをしたものがあるのではないかと思う。それは措いておいても、「逝きし日・・」に描かれているように、江戸末期の日本あるいは日本人を西洋から来た人々の多くが賞賛賛嘆したということは、前回のエントリーで論じた「近代の顚覆」での橋本氏の主張、自分は明治以降の近代はすっとばして江戸末期と自分とをつなぐ道を模索しているという話とどこかでつながるのではないかと思う。そしていきなり話をひろげると、ヨーロッパ19世紀はヨーロッパが愚かになった時代であり、ヨーロッパ18世紀こそヨーロッパ文明の精髄であるという「ヨオロツパの世紀末」での吉田健一の見方もそれと重なるところがあるのではないかということもあるのではないかということである。
 江戸末期対ヨーロッパ18世紀、明治大正昭和前期対ヨーロッパ19世紀、という対応が考えられないだろうか? 第一次と第二次の世界大戦はヨーロッパを根本から変えてしまったわけだが、その二つの愚かな大戦を準備したのが19世紀であると考えるなら、何となく辻褄があわないこともないような気がする。
 ヨーロッパで18世紀と19世紀を画するのがフランス革命であり、フランス革命国民国家をつくり、国民国家がこの二つの世界大戦をもたらした。そして日本が明治においてなによりも目指したものが国民国家の形成であったわけである。
さらば、政治よ: 旅の仲間へ

さらば、政治よ: 旅の仲間へ

 「さらば、政治よー旅の仲間へ」では「ネイション・ステート」の問題が正面から論じられている。渡辺氏が問題にするのは世界の均一化である。それが世界の必然であることはみとめるが「国家から自立した人間がともに生きうる共同世界を作りたい」というのである。このやや奇妙なタイトル「旅の仲間へ」というのは「共同世界をめざす同士」といったことを指すようである。
 そして我が身を顧みてみると「共同世界を作りたい」という志向はまったくないなあということを感じる。この点がわたくしが渡辺氏についていけないと感じる部分である。
文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

 「私のロシア文学」では文学を思想として読んだということをいっている。自分が主として中学時代に岩波文庫赤帯などでドイツやロシアやフランスの翻訳小説を読んだのはなぜだろうと思うと、やはり渡辺氏のいうように思想として読んだのだと思う。渡辺氏とは違い、後に何の財産になるものがそこから得られたとは思わないが、まだわたくしが10代の頃、昭和30年頃というのは日本文学も世界文学もそのような読まれかたをしていたのだと思う。
 後年、吉田健一に親しむようになって、文学は言葉である、従って文学の精華は詩にあるという話を読んでも最初はなかなか納得できないものがあったのは、そのことが大きいと思う。
日本詩歌思出草

日本詩歌思出草

 「日本詩歌思出草」は、その氏が日本の詩のいくつかをとりあげて論じているものであるが、北村透谷とか土井晩翠与謝野鉄幹、薄田泣薫、伊良子清白といったひとをとりあげていて、意識的に反動を気取っているような気がしないでもない。もっとも金子光晴中原中也三好達治西脇順三郎鮎川信夫田村隆一石原吉郎などはいくらでも論じるひとがあるだろうといっているから、他がとりあげない詩人の小さなアンソロジーを作りたいということなのかもしれない。
 
子どものための精神医学

子どものための精神医学

看護のための精神医学 第2版

看護のための精神医学 第2版

 最後に、まったく関係のない滝川一廣というかたの「子どものための精神医学」という本も買った。中井久夫氏の「看護のための精神医学」の児童精神医学版をという依頼に応じて書いたものだそうである。ということで精神医学の根本のところから説かれている本のようである。精神医学は「理系」か「文系」か、といったことまで論じられている。「正統精神医学」と「力動精神医学」の問題も書かれている。わたくしのような精神医学部外者が精神医学における問題点を整理する上でも役立つのではないかと思う。こういう視点はどうしても宗教という問題を呼びこんでしまうように思うが、その点にはふれられていないようである。