橋本治「知性の顚覆」(5)

 
第3章は「不機嫌な頭脳」と題されている。
 橋本氏は、自分には上昇志向がないという。それは「東京生まれの東京育ち」であり、特に貧しくはない家庭に育ったからであるという。
 東京の山の手は近代日本の中核となるような中流階級の本拠地であり、近代市民であるための「勉強」が必須であると考えられ、進学するのも当然であるとされていた。橋本氏の家は商家だった。
 氏は就職をした経験がなく、組織の中で働いて順位付けられるという経験もないという。また本格的な貧乏の経験もないという。だから現在「ゆとり世代」といわれるひとたちの特性は自分にも備わっていて、「これでいいじゃん」という中流意識が根付いてしまえば当然の現象なのではないかという。
 橋本氏は東京の山の手である杉並区や世田谷区という新興住宅地に育ったわけであるが、その土地には歴史がない。
 「歴史」というプレッシャーが存在しないことが「好き勝手」を野放しにする。だから自分は「歴史がないって困るじゃないか」という考え方をするようになったのだが、問題はそのような中流意識の生む自己満足が「反知性」とどのように関係するのかである。
 自分は上昇は望まないがしかし沈下はしたくない。自分のありかたが揺らいで沈下するように感じると不機嫌になる。「沈下」とは自分が漠然と「特権」であると感じていたものに陰りを感じることである。
 問題は日本がかつて一億総中流ということを実現させたように思った時期があったことで、それが今では崩壊して格差が問題になってきていることである。そこからヘイトスピーチも生まれてくる。
 そして中流化の問題は世界の問題ともかかわる。そこでの問題は経済発展とは「中流」の問題であるということである。「上流」は貴族の領域である。共和制とは「中流」の制度であり、中流である共和国は「経済発展」をしなければならない。それをしなくてもいいアラブの産油国は十分な資源があるので、王制のままである。(ロシアは金儲けのうまくない王制の国であり、中国は金儲けの意味を知った王制の国である。)
 中流の共和制の国は金儲けをし続けない限り没落する。だったら《みんなで仲良く金儲け》というのがグローバリズムという悪魔のささやきである。
 この流れのなかでの落ちこぼれから「ホームグロウン・テロリスト」も生まれてくる。橋本氏は2015年のパリ同時多発テロのニュースをきいてオウム真理教の無差別テロを思い出したという。不機嫌と宗教はどこかで相性がいいのかもしれないと氏はいう。だからイスラム国をかりに殲滅することができても、それを生み出した「不機嫌」はなくなることはないし、それに対して「知性」はなんの力も持ちえない。これが「現代の知性の顚覆」だと橋本氏はいう。
 
 自分の個人的な履歴の話がいきなり世界の動向の話と連結してしまうところが橋本氏の論の凄いところなのだが、氏の履歴はわたくしのものと非常に似ている。
 氏は1948年生まれ、わたくしは1947年。氏は杉並区和泉中学から豊多摩高校だそうであるから、わたくしよりは少し新宿より、井の頭線よりで生まれ育ったようであるが(わたくしの方がもう少し中央線よりであり山の手的であるのかもしれないが、同じ杉並であり、かなり似たような生育環境であったと思われる)、わたくしが小学校のころ井の頭線沿線は一面の田圃であり、学校からそこにザリガニ釣りにいったりしたといった経験は共有しているのではないかと思う。
 氏は商家の育ちであるというが、わたくしの父は勤務医であったのでいわばサラリーマンである点は若干異なるかもしれない。
 今から思えばわたくしもまた典型的な中流階級として育ったわけである。わたくしは中学から私立の学校にいくことになったが、これは父親の選択である。おそらくまだ大学進学率などがそれほど高くなった時代であろうと思うが、父親も大学進学を当然と思っていたからこその選択であろう。小学校は地元の区立小学校であるが、第一次ベビーブームの時代であり一クラスが60人くらいであったと思うが、それでもその一クラスから東大進学者が3名でている。早慶をあわせると10人くらいになるのではないだろうか? やはり大学進学が当然とされていた地域の環境というのがあったのであろうと思う。
 わたくしもまた上昇志向がないと思う。35歳で病院に勤務することになったが、そこのなかでの順位づけといったものがそもそも存在しなかった。一人一党のようなもので、いきなりお山の大将で勝手なことができた。大学の医局にはいったのもどこかの病院に就職するまでの勉強の場というつもりで、大学にずっと残って教授を目指すといったことは考えたこともなかった。まだ大学にいるとき、医局の旅行などで偉い方が「研究をする以上はノーベル賞を目指せ!」などといっているをきいて強い違和感を感じた(東京大学は日本全国から大学生が集まるわけで東京という地に根付いた大学ではない)。病院に30年勤めて後半の15年を院長をする巡りあわせになったが、わたくしより年上の常勤医がほとんどいなかったことによるただの偶然である。
 橋本氏がいう山の手には歴史がないという問題は吉田健一の本を読むようになってから随分と考えるようになった。吉田氏は街にしろ家にしろ長く住み長く暮らすことによってはじめて自分のものになってくるということをくりかえし述べていた。わたくしが今住んでいる家は建ててもう40年くらいになると思うが未だ自分のものという気がしない。基本的に夜寝にかえるだけ、最近の建材が容易に古びないといったことも関係していると思うが、そもそも地元と付き合おうという意思がないことが大きいと思う。近くになじみの呑屋さんがあるわけでもなし(だから「先生の鞄」のようなことがおきる気遣いはない)、町内会的なものも敬して遠ざけている。他人に干渉されないで暮らせる、抛っておいてくれるというのが都会のいいところであると思っていて、大袈裟にいえば、人中の孤独を楽しめることこそが都会の生きるものが望んでいることではないだろうか? 吉田氏が「東京の昔」などで描く戦前の東京はたしか本郷あたりを舞台にしていたと思うし、吉田氏は牛込あたりに住んでいたのではないだろうか? 山の手と下町というのは根本的に異なるのだろうか?
 医者という職業を選んでよかったなと思うのは、貧乏という問題に直面せずに生きてこられた点で、「経済発展」への強迫観念のようなものを持ったことは一度もない。また宮仕えの苦労といったものもほとんど知らずに生きてくることができた。1970年代のオイルショックというのもほとんど記憶にない。トイレットペイパー騒ぎなどという変なことがおきているなと思ったくらいである。ようやく研修医として医者の第一歩をはじめたころで、そのころの研修医の給料などというのは酷いもので月5万円くらいなものではなかったかと思うが、それを補うためにアルバイトをすることが公認されていて、食べていけない心配といったものをした記憶がない。
 そうであるなら「ホームグロウン・テロリスト」の気持ちというは理解できないことになり、そういうことを考えるには実感ではなく理屈をもってするしかなくなるが、橋本氏のいう「不機嫌と宗教はどこかで相性がいいのかもしれない」という点については、わたくしが最初に入れ込んだ文人である福田恆存の神輿であったⅮ・H・ロレンスの「黙示録論」(福田氏の訳出のときの最初の題は「現代人は愛しうるか」)を想起しないわけにはいかない。宗教には個人のための宗教と集団(民族)のための宗教という二つの側面が(同じ宗教のなかにも)あって、個人にとっては愛の宗教であるものが集団にとっては憎悪の炎を燃やすための宗教にもなるという構造である。神の教えにしたがって敬虔で清く正しい生活をしている自分達が貧しい生活を強いられれているのに、ふしだらな神をもおそれぬ生活をしている者たちがなぜ富栄えているのか? 彼らには必ずや神の罰が下され、彼らは業火に焼かれるであろうという思想である。容易にみてとれるように、マルクス主義の根っこにはこの見方が踏襲されている。貧しいものこそが正義であり、富めるものは邪悪であることになる。上昇志向は容易に嫉妬にかわることになる。
 谷沢永一氏に「人間通」という本があるが、そこには羨望・嫉妬・引き降ろしなどという項目が並んでいて、「人間はいつも自分と他人とを比較している。片時も気をゆるめず、世間のあの人この人と自分を見くらべている」というようなことが延々と書かれている。「隣の貧乏、鴨の味」とか「隣に蔵立ちゃ、儂は腹が立つ」とか、人間は嫉妬心で動いている、それを理解できた人間が人間通なのだということが述べられているのだが、そうなのかなあと思う。谷沢氏は大阪の人であるがやはり東京とは違うのだろうか?
 足を引っ張るという言葉あるが、英語にも pull the legs という言葉があるらしい、からかうというような意味で、日本でいわれる他人の出世を妨害するというような意味ではないらしい。吉田健一は生涯、「足を引っ張る」というような感覚が理解できないひとであったらしい(丸谷才一山崎正和木村尚三郎「鼎談書評」のなかの吉田健一「まろやかな日本」の項による)。それを丸谷才一は「吉田健一という人が一種の奇蹟的な存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか」といっている。もちろん村落的の対語は都会的であろう。日本においては都会においても村落的な何かはまだ色濃く残っている。しかし吉田氏においてはそれがどういうわけか消えているということなのでろう。そういえば、「人間通」にも「引き降ろし」という項目があった。
 

東京の昔 (ちくま学芸文庫)

東京の昔 (ちくま学芸文庫)

ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)

ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

人間通 (新潮選書)

人間通 (新潮選書)