山口真由「リベラルという病」
新潮新書 2017年8月
このようなタイトルではあるが、実際には「アメリカにおけるリベラル」を論じたもので、ヨーロッパにおけるリベラルについては一切言及されない。そして日本のリベラルについても、ほとんど論じられない。
何よりもわたくしが奇異に感じたのは著者が(わたくしの読み落としでなければ)リベラルについて論じていながらマルクス主義についてまったく論考していないということであった。著者は1983年生まれで、1991年のソ連崩壊時にはまだ8歳くらいであったわけである。
わたくしがこの本に目を通してみようかと思ったのは、もちろん最近の衆議院選挙をめぐるゴタゴタを見てということがある。そこではさかんにリベラルという言葉が用いられている。そしてその「リベラル」と連携しようという側に社民党とか共産党とかがいて、それらの政党を考える場合にマルクス主義を抜きにしては何も語れないことは明らかであると思われる。
最近中国共産党第19回全国代表大会が開催されたが、中国を統治している中国共産党がマルクス主義と何か関係があるか否かは大いに疑問があり、むしろ中国伝来の統治形態がたまたまマルクス主義を利用しているだけという側面が強いようにも思われる。しかし日本にいて日本から中国を見ていたひとたちには、毛沢東の「実践論」とか「矛盾論」とかを感涙に咽んで読んでいたがたくさんいたと思われ、そういう人たちがソ連崩壊によりマルクス主義が現実の社会を運営していく体制としては適応できないことがはっきりした後も、自分がマルクス主義にひかれた根源にあった心情自体は捨て去ることなく持ち続けている、その心情をあらわすものが「リベラル」という言葉なのではないかとわたくしは思っているので、リベラルについて論じながらマルクス主義についての言及がないことに違和を感じた。
本章は4章の構成で、最終章は「奇妙な日本のリベラル」と題されている。その書き出しは「日本に住む私達は、リベラルとかコンサバとか、革新とか保守とか、左翼とか右翼とか、こういう言葉を好まない。この本をお読みになっている皆さんは、おそらくご自分は左翼でも右翼でもなく、リベラルでもコンサバでもない、ごく「ふつう」の考えを持っていると認識していらっしゃることだろう。/ 私達日本人は、右翼も左翼も極端な人々というイメージを持っている。」というものである。自分を全然「ふつう」とは思っていないわたくしとしては、まずこういうところで躓いてしまう。
著者は、アメリカではイデオロギーは一部の人のものではなく、普通の人が持つ「人生哲学」であるという。それならば日本の「ふつう」の人々が持つ「人生哲学」が「日本教」(山本七平)なのだろうか? この最終章でも「奇妙な日本のリベラル」というタイトルであっても実際に論じられるのは、アメリカにおいては大きな政府と小さな政府のどちらを支持するかがリベラルとコンサバをわけるのに対し、日本でリベラル政党とされる民進党にはそのような核がなく、その政策を見ても「大きな政府」「小さな政府」どちらを目指しているのかさえ不分明であることが指摘され、さらには実は自民党においてもそのことは同様で自民党にもまたイデオロギー的な核がないのだということがいわれる。
戦後のある時期までは日本にも保守(コンサバ)と革新(リベラル)という明確な対立軸があったが、それが高度成長のなかでしだいに消失し、自民党はかなり右のコンサバから穏健なリベラルまでを包含する政党になっていったのだ、と著者はする。だからこそ自民党が賃上げを要求し、「働き方改革」まで主唱するようになってきているのだ、と。著者によれば、自民党のポジションはアメリカでは民主党が担うものである。一方、レーガン共和党時代の小さい政府志向のアメリカにも中曽根政権が連携し、さらには小泉純一郎のような明確な小さな政府志向の政権さえ自民党のなかからでてくる。
さて著者は「私達日本人の底には、人知を超えるものへの畏怖が根付いているのではないか」という。これは著者の見方からすればアメリカのコンサバに通じる方向。である。
「おわりに」で著者は、アメリカのコンサバの根底にあるのは「大いなる自然に対する畏敬の念」であり、その逆である「自然の征服」がアメリカのリベラルの基礎にあるとする。
著者は東大法学部を卒業後、財務官僚を経て弁護士として活動、その後ハーバード・ロースクールを卒業して、ニューヨークで弁護士登録という将にエリートコースまっしぐらという経歴の方で、アメリカなら民主党リベラル一直線という履歴である。しかし、アメリカで生活してみて感じた違和感が本書を書かせたらしい。「日本が日本にあったリベラリズム(それをリベラリズムと呼ぶかは別として)を手に入れるのはいつになるのだろうか」というのが著者の結語であるので、やはり著者は基本的にリベラルを志向するひとなのであろう。しかし「私達日本人の底には、人知を超えるものへの畏怖が根付いているのではないか」などといっていると、いつの間にか鵺のような自民党路線に絡めとられてしまうのではないかとも思う。
さて、ここまで最終章から先に論じてきたが、第1章から第3章まではアメリカのリベラルとはどういう存在かという紹介で、本書ではそこのほうが面白い。
第一章は「リベラルという宗教」で、議論は1952年の信教の自由をめぐる判決でのダグラス判事の「我々は、信心深い国民であり、その社会制度は神の存在を前提にしている」という判決文からはじまる。このダグラス判事は頑固一徹のリベラル派なのである。
アメリカ人の71%がキリスト教徒で、41%がプロテスタント、21%がカトリック。熱心なキリスト教徒ほど右、コンサバとなる。そういうひとはダーウィンの進化論を信じない。しかしそれならリベラルは信仰をもたないか? そんなことはない。彼らは立派な信仰をもつ。それは「人種間の平等」という宗教である、と著者はいう。著者はそれハーバード・ロースクールの憲法の授業で教えられたのだという。アメリカは原罪を持つ。それは奴隷制である。その原罪を購うために南北戦争の血が流され、リンカーン(そしてマーティン・ルーサー・キング)の血が流されたが、まだ原罪は購われていない、それをアメリカ国民全体が負っているのであり、それがリベラルのよりどころなのだ、と。このすべての人間は平等という信仰がリベラルの側が持つ信仰なのだ、と。
奴隷制がアメリカという国が持つ原罪なのだなどという説ははじめて聞いた。おそらく著者もハーバード・ロースクールに留学して、そういう説を初めて聞いて、驚いたのであろう。その驚きが本書執筆の動機になっているのかもしれない。
この辺りを読んでいて想起したのが、進化論におけるS・J・グールドとドーキンスの対立である。グールドはゴリゴリの左翼でかつ「人種間の平等」の闘士でありながら(つまり生粋のリベラル)、科学と宗教の共存といった方向の主張を一方ではしていた。それはわたくしにはきわめてわかりにくいのだが、グールドが米国人であるという補助線をそこに入れると見えてくるものがあるのかもしれない。一方のドーキンスは進化論の啓蒙家であると同時に最近ではむしろ反=宗教の闘士として有名であるのかもしれない。ドーキンスは英国の人である。そしてわたくしなどから見ると、本を通してみる限りではあるが、グールドのほうが複雑で面白い人、ドーキンスはなんだか浅薄なひとという感じがする。
わたくしにはキリスト教というのが野蛮なものとしか思えなくて、そうであるなら71%がキリスト教徒というアメリカはただもう野蛮な国なのである。野蛮というのは歴史がないということでもあって、それに較べたらはるかに長い歴史を持つ日本は、別に「人知を超えるものへの畏怖」などと大げさことは言わなくても、いささかの文明は作り上げてきている。
三好範秀氏の「ドイツリスク」という本に「ドイツ人は夢見る人」という言葉がでてくる。この夢見るというのはロマン主義と通じるものである。言うまでもなく、ロマン主義は啓蒙主義的合理主義への反動として生じたものであり、古典主義や近代科学と対峙する。
啓蒙主義的合理主義の一つの頂点がフランス革命であり、マルクス主義もその申し子(鬼っ子?)であるとするならば、アメリカのリベラルの根底に自然のコントロール、自然の征服があると主張するのが本書の主旨からみると、当然そこに西欧における啓蒙思想の系譜についての何がしかの考察があるべきではないかと思うのだが、本書にはそれがみられない。さらには啓蒙主義もひたすら人間のコントロールの拡大を目指す方向の啓蒙と、人知の限界を知るという方向の二つの啓蒙があると思うのだが、それも考察されない。
それで日本のリベラルである。昨今の報道ではそれは少なくとも保守に対立する人たちである。しかしそこに資本主義に対立するという要素があるかというとどうもそれは見られないようで、経済体制は市場経済体制以外には選択肢がないということは(暗黙裏に?)共通の認識になってきているように思われる。
では日本のリベラルを規定するものは何か? それは《戦前の日本は間違っていた》という認識なのではないかと思う。そして《戦前の日本は間違っていた》ことの象徴的帰結が広島と長崎への原爆の投下なのであり、戦前の日本の間違いを糺す方向を具体的に示したのが現行の憲法ということになのではないかと思う。そしてわたくしからみると、それゆえに現行憲法は一部のひとにとっては一種の宗教経典のようになっていて、それを変更可能で他の法典とかわるところのないものとみなす方向については許しがたいものと見ることになるのではないかと思う。原爆もまたアメリカが投下したものではなく、あたかも天罰のように我々の間違いをこらしめるために天から降ってきたもののように認識されることになるのではないかと思う。
一部の人が抱く安倍首相への強い反発も、戦前の日本のすべてが悪かったわけではないという方向の思想を安倍氏が抱いているように見える(実際にそう思っている)ことにあるのではないかと思う。そして憲法改正を唱えるひとも、それが不羈の聖典であることをやめて一般の普通の法典の地位になること望んでいて、そのことによって戦前の日本のすべてが悪かったわけではないという方向に道をひらくことを考えているのではないかと思う。
おそらく日本のリベラルは人知によってすべてのことが解決できると思っているひとではないと思う(そういうひともいるではあろうと思うが)。そう思っているひとは自民党側にもたくさんいるはずで、中央銀行の政策によって経済を調整できると信じているひとなどはたとえばそうなのかもしれない。しかし、だから自民党がコンサバかといえば決してそうではなく、そこには多くのアメリカ的リベラルもいるはずである。官僚出身の議員の多くはそうかもしれない。
そのなかで第一次安倍内閣のときには「美しい国へ」などといって、安倍宰相も戦前日本の復権の方向を強く意識していたと思うし、何よりもその当時の安倍応援団が経済などという下世話な実用のことよりも、日本という魂の問題に目をむける宰相がようやくでてきたということで、その張り切り方が半端ではなかったように思う。だから第一次安倍内閣が崩壊したときの安倍応援団の失望も大変なものだった。そして安倍首相も第二次安倍内閣以降、経済の安定ということがないとどのような政策も実現は困難であるという方向に舵をきって、応援団のかなりは失望したのではないかと思う。
そして自民党のなかにも戦前の日本は間違っていたとする人間も少なからずいるはずで、自民党がコンサバといった何らかの思想的方向を旗印にして出来上がっている政党とは到底思えない。むしろ、そういう旗印がない政党が自民党で、なんらか旗印がある政党が日本共産党であったり社民党であったりしているのだと思うが、それらがマルクス主義の尻尾を引き摺っているのに対し、マスコミ的戦前原罪意識を主たる根拠としているのが最近の立憲民主党といった方向なのではないかと思う。マスコミの言論人は言葉のひと、思想のひとであるから原罪意識はそこに最後まで残っていくのではないかと思う。しかし戦後すでに70年以上、ソ連崩壊後も30年近くがたとうとしているわけで、戦前日本に原罪意識をもつひとたちが退場していくと日本のリベラルもまたどこかに消えていくのではないかと思う。そうなったときに自民党が割れて、コンサバとリベラルに別れていくことになるのか、それはわからない。保守の思想というのは、世の中が変わっていくのは仕方がないが、なるべくゆっくりと変わっていくほうがいい、激変は避けたほうがいいというものだと思うので、一つの政党のなかにある程度の変化を志向するひとと、その変化は極力スローなペースでなされるべきとする人は共存しているというのは合理的であるのかもしれない。
第二章はアメリカの司法の特異なありかた、第三章はアメリカの特異な家族像を論じていて、それぞれ面白く、いろいろ教えられるとことがあったが、著者が司法を専門にする女性であるという個人的な興味に発している部分が多く、リベラル一般の考察という点からはややこなれていない部分があるように感じた。
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