吉田健一訳 ポール・ヴァレリー「精神の政治学
   中公文庫 2017年12月
 
 吉田健一の若き日の散文というのは読めたものではない悪文であること。同時に、同じ時期の翻訳というのが極めて明晰流麗なものであるというのは健一ファンの多くが知るところなのではないかと思う。
 たとえば、「ハムレット異聞」(昭和25年 角川書店)に収められた「ラフォルグ論」の一節、「近代は、いはばなくてもよかつた時代であり、因果関係によつてその存在を説明することしか出来ない時代なのである。すなはち理想論的に言へば、また近代以前までは恐らく事実であつたことに従へば、過去は或る一時代に於て歴史的なものであり、それを史的に統一できる材料に於て貧困であり、之に反して現在は現実に充満してゐて、その無碍の現実感は過去を現在の見地より観照し、未来を現在の発展として想見することを許すものなのである。」というのは、もう何がいいたいのか少しも理解できない悪文であるが、それが同書の収められたラフォルグ「ハムレット」の翻訳の「鉛の格子で菱形に区切られてゐる黄色い硝子がはめてあつて、あけると軋つて微かな音をたてるお気に入りの窓から、奇妙な人物に違ひないハムレットは気がむいた時に水の上をあちらこちらと眺め廻すことが出来た。それは水の上でも空でもどちらにも通用することで、彼の瞑想や錯乱はさういふ場所を出発点としたのだつた。」の流麗明晰と同じ本のなかに収められているわけである。だから出発の時点で吉田健一はもっぱら翻訳家として遇されたわけである。
 それは若き日の吉田氏が日本語よりも英語やフランス語のほうがはるかに堪能であったということが第一なのであろうが、そもそも吉田氏が日本語で書きたいと思ったようなことを日本語で記した参照しうる文章がまったくなかったのだから仕方がないことだったのかもしれない。本書の解説を書いている四方田犬彦氏も「何をいいたいのか、さっぱりわからない」悪文の一例をひいている。そして、同時にその当時の翻訳の明晰さも。
 本書の四方田氏の解説だけでも、本書は購入に値すると思う。しかし、今頃、なんで本書が文庫として刊行されたのだろうか? 吉田氏の翻訳というだけで本を手にとるひとがある一定数いるからなのだろうか? そうであるなら、どこかで吉田健一の翻訳した小説だけを収めた文庫シリーズというのを刊行してくれないものだろうか? わたくしは買うのだが。