岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(4)

 
 クラシック音楽とは何か、という問いに、仮に答えて、それはベートーベンのことである。あるいはベートーベンの作曲した音楽のことであるとしてみよう。
 吉田健一の「文学の楽しみ」の第7章は「西洋」と題されていて、そこに岡倉天心がベートーベンの第五を聞いて「東洋にない唯一のもの」と嘆じたという話が紹介されている。「文学の楽しみ」であるから別に音楽のことが論じられているわけではなくて、岡倉天心が「西洋にあって東洋にない唯一のもの」といったものが「普遍性を求める」という行き方であるという方向に話が進み、その例としてプラトンのことが言われる。
 小林秀雄の有名な『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』は、だから西洋否定の宣言で、同時に「漢心」の否定でもあるわけだが、そうすると中国文明にも「普遍性の探求」があることになるのだろうか?
 もうすこし吉田健一につきあってみる。吉田氏によれば「ヨオロツパの恋愛文学は世界に比類がない。その恋愛の観念自体がヨオロツパのものではないか」ということになる。一方、中国にはほとんど見るべき恋愛文学はない。
 ヨーロッパは「影がない世界である」と吉田健一はいう。ここのところを読むと、わたくしは河上徹太郎の「自然人と純粋人」の「例へば赤い林檎を見て、「この林檎は赤い。」といつた場合、自然人は純粋にそれだけを意味してゐるに対し、純粋人は「その陰は紫だ。」といふ意味を必然的に含んでゐるのである」を想起する。河上氏のいう純粋人とは近代人とほぼ同義であろう。
 音楽のほうに話題を戻す。われわれはベートーベンの第五をきいてベートーベンという個人を超えた何かもっと大きな何かがそこにあるように感じる。つまり普遍性である。ベートーベンは曲を作るときに、自分は自分という個人のことではなく、人間に普遍的な何かを描いていると信じていたに違いない。これはハイドンモーツアルトが決して抱いていなかったであろうものである。音楽自体の論理ということであれば、それをどこまで拡張できるかということをハイドンモーツアルトも考えたていたに違いない。しかし、それは音楽という世界の内部のことである。人間一般というのは音楽固有の世界を超える。
 フォースターの「ハワーズ・エンド」の第5章では、登場人物たちがベートーベンの第5交響曲を聴いている。みな違うことを考えてそれを聴いているのだが、「とにかく、だれだろうと、生きていることに覚える情熱がこの音楽で一層掻き立てられる」のだという。
 ヘレンという女性は第三楽章を「初めに妖怪が出てきて、それから象が三匹で踊るんです」という(このトリオを「象の踊り」といったのはベルリオーズだと思う)。妖怪たちは「ただ単に、栄光だの、献身だのはない」というだけなのだそうだが、第4楽章ではベートーベンが妖怪どもを吹き飛ばし「どんな人間の宿命にも偉大なものがあり、いかなる戦いも望ましくて、勝ったものも、負けたものも天上に住むものたちの喝采を受ける」ことになるが、しかし妖怪どもは第4楽章で戻ってきて、ふたたび宇宙の端から端まで歩いて行く。その結果、そこにあるものは空白と狼狽だけになって、世界の輝く城壁が今にも崩れそうになる。しかし、ベートーベンが最後に再びそれを追い払い、第5交響曲は超自然的な喜びの嵐のうちに終わる。「しかし」と小説では続く。「妖怪どもがいることには変わりがなくて、いつ妖怪どもが戻ってくるか解らなかった。ベートーベンはそれをはっきりいって、それゆえに彼が他のことをいうときにも彼を信用することができるのである」。
 音楽の形式上は、妖怪どもが追い払われてフィナーレを迎えなければならない。しかし、それは音楽が曖昧なままで曲が終わることを許さないから、そうなっているというだけのことであって、音楽自体には妖怪を追い払う力はなく、音楽が終わったあとも妖怪たちは生き残っているわけである。
 岡田氏はベートーベンをフランス革命とナポレオンに熱狂した時代に属する「政治の時代の子」であるという。そしてベートーベン後期という問題が残る。後期のピアノソナタ弦楽四重奏曲にはそういう「政治の時代の子」の熱狂とは無縁の何かもっと個人的でintimateでそして不可解なものがある。
 それならベートーベンの後に続いたロマン派はベートーベンの中期を継いだのだろうか? それとも後期を継いだのだろうか?

クラシック音楽とは何か

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文学の楽しみ (講談社文芸文庫)

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小林秀雄全集 (第8巻) 無常といふ事.モオツァルト

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ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)

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