根性

 最近、ちくま文庫で刊行された「吉行淳之介ベスト・エッセイ」に「「根性」この戦後版ヤマトダマシイ」という文があった。文庫にはいつ書かれたものであるかが記載されていないが、「オリンピック前後」とか「女子バレーボールの大松監督」などとあるから、1964年の東京オリンピック前後のものである。もともとは心だて、気だて、心根、性質などという意味であったこの言葉が、このオリンピックのころから「倒れてのちやむ精神」といったものに限局されてきていることを指摘し、そうなると自分たちの世代の人間は、「国民精神総動員」とか「撃ちてしやまん」といったことを思い出すという。
 戦時中の年少時代、吉行氏は軍人タイプの人間がきらいでしかたがなかった、という。日本的精神主義のにおいが「根性」というコトバにくっついているという。戦時中の「大和魂」というコトバも連想するという。
 わたくしは東京オリンピックの時に高三で、その前から、大松博文(という名前だったと記憶する)とかニチボー貝塚といかいうという名前と根性というコトバを始終きかされていて、嫌だなーといつも思っていた。わたくしは高一まで文学部に行く気でいて、その夏休みに思うところがあり、文学部志望をやめた。そうするとどういう職業をめざすか考えなくてはいけなくなったが、とにかくサラリーマンだけにはなるまいと思った。そのころの根性ブームを反映して、新入サラリーマンに自衛隊体験入隊とか寒中の禊とかを課す会社が多々あることが報道されていて、今でいう「へたれ」で筋金入りの「根性なし」であることを強く自覚していた人間として、到底そういう新人研修に耐えられるとは思えず、とにかくも組織とは無縁であるように思えた職として医者を選択した。
 本書にも収載されている「戦中少数派の発言」での真珠湾攻撃報道に歓声をあげることができず感動することのできない吉行氏の姿というのも自分と重なるところがある。
 文学部の志望はやめても、自分の感性は吉行淳之介太宰治に近いところにあると思っていて、大学3年で東大闘争(紛争)に直面することがなければ、それは変わらずにいたのではないかと思う。吉行氏はあらゆるものの判断の基準に自分の生理というものをおいて揺るがない強さをもっていたが、生理というのは言葉にできないものなので、毎日、議論にあけくれることになった大学の日々では、言葉による理論武装が必要になった。それで福田恆存吉田健一を神輿に担ぐことになった。それによって、それまでのいわゆる文学青年的な読書から、もっと広い範囲の書物に世界が広がったので、そのことを少しも後悔するものではないが、それでも自分の根っこにあいかわらず吉行淳之介的な感性が残っていることを、このようなエッセイ集を読むと改めて感じる。