亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(2)

  
 23ページで亀山氏は「革命は善であるという前提がいつ、どこで崩れたか」ということをいい、それに対し沼野氏は自分にはその前提はない」と答える。それに対し、亀山氏は自分は「暴力というものに嫌悪感をもつのだが、ロシア革命というのは正義の暴力だったと思っていた」と答える。あとから考えると浅はかだったが、自分たちの世代の大半がそうだったのではないか、と。
 亀山氏はわたくしより2歳年少であるのだから同世代といっていいのはないかと思うのだが、わたくしは革命が善であると思ったことは一度もない。それは革命というものが暴力を内包するからではなくて、社会の体制を変えることによって人間を変えることができるとする見方を信じたことが一度もないからであると思う。そして、そういう自分の見方は文学によって培われたと思っているので、文学の側の人間である亀山氏がそういうことをいうのがわからないことになる。
 第一章の最初で「文学がロシア革命を準備したのだ」(沼野氏)ということがいわれて、ドストエフスキーの「罪と罰」をロシア革命に至る歴史の流れのなかにどう位置づけるかというというような方向に議論が進んでいく。
 しかし何よりもロシア革命というのはフランス革命なしには生まれなかったものであり、フランス革命は西欧の合理主義あるいは啓蒙主義の一つの結節点なのであるのに対し、ドストエフスキーはその西欧合理主義への抵抗ということを自分の根幹においていたひとであると思われるので、議論の方向が根本からおかしいように思う。「罪と罰」について、「一人の人間が一人の人間を個人的動機で殺したという殺人のむこうに、結局革命にいたる巨大な歴史をのうねりが背景として透けて見えてくる」などといわれるのだが、「罪と罰」はこの殺人が否定される話なのだから、この小説をテロリズムの問題と結びつけるというような議論も理解しがたい。
 第2章と第3章はチェーホフトルストイが取り上げられるのだが、チェーホフロシア革命を結びつけるのは無茶としかいいようがない。トルストイは晩年の家出のあたりが主に論じられるのだが、人によっては老年の錯乱とみなすであろう出来事に過剰な意味づけをしているだけのように思える。
 急に話が飛ぶが、福田恆存の「チェーホフ」に、チェーホフのスヴォ―リンあての手紙というのが紹介されていて、そこにこんな部分がある。「俗衆はなんでも知り、なんでもわかっているとおもひこんでゐる。ばかなほど視野が広い気なのです。俗衆から信頼されてゐる芸術家が、自分の頭にうつるものでなにひとつわかるものはないといひきる勇気をもつたとすれば、それこそ思想にとつての一大収穫、一大進歩といふべきでありませう。」
 本書を読んでなによりも感じるのが、本書の二人が何でも知っていて、なんでもわかっているということである。もちろん、このことについては知らないとかわからないといっている部分もあるのだが、それでもである。
 福田恆存ついでに、同じ「福田恆存評論集2 人間・この劇的なるもの」(1966年)から「ふたたびロレンスについて」からも。「問題は・・・スラブ人だといふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフリュードフ対カチューシャは、西欧対スラブといふことなんだ。」
 明らかにマルクス主義は西欧の出自である。福田氏によれば、それはスラブと対立するものなのである。亀山氏も沼野氏もロシア文学と文化の専門家として「スラブ」ということについてわたくしの何十倍、何百倍もくわしい。そして帝政ロシアが1917年に倒れ、ソヴィエト社会主義共和国連邦という共産主義国家が地上はじめて出現したという事実が一方にあると、どうしてもそれを生み出したものの根底にあるのがスラブであるに違いないということになって、延々と「ロシア革命100年の謎」が探られることになる。
 ここにないのが、ロシア革命というのが何かの間違い、ほんの偶然の産物であってなんら必然の産物ではなかったのではないかという視点である。そもそも共産主義国家は資本主義の爛熟に果てに出現するはずだったものであり、農奴制ロシアなどから生まれるはずはなかったのである(中華人民共和国についても同様であろうが、中国にあった易姓革命による王朝の交代という歴史観は、ソ連の場合よりはずっと共産中国を正当化しうるものであった可能性がある)。
 本書の前半半分はロシア革命前の前史にあてられていて、ソヴィエト建国後は後半に論じられる。したがってもしもロシア革命が「スラブ」の産物ではなかったのだとすれば、本書の前半は二人のロシア文学者のスラブというものへの蘊蓄をきくだけの無駄話ということになってしまう。
 第4章は「世紀末、世紀初頭」と題されていて、そこで語られることは、例えばトルストイの「戦争と平和」が西欧近代の文学の規範からみていかに異様なものであったかというようなことである。そして19世紀末のロシアは終末論に覆われていて、1900年に世界はおわり、永遠に女性的なるものを仲立ちとして神の国が出現するという思想がロシア知識人たちにひろく受け入れられていたということが指摘される。この話ははじめてきいたので勉強にはなったのだが、今までわたくしが知らなかったのは、このことをロシア革命前史として指摘したひとがあまりいなかったためだろうと思う。つまり歴史としてのロシア革命を研究しているひとには少しも説得的ではないということなのだろうと思う。
 そして、ここで語られるのが、2月革命まではよかったが10月革命がまずかったのではないかというような心情である。つまり2月革命でとどまることができず、10月革命まで進んでしまったことで、国家的暴力や粛清というものがその後の必然としてソヴィエト国家に生じてきてしまった、その後のソヴィエトの悪として現在のわれわれが認識しているようなものがすべて10月革命で解放されてしまったという見方である。沼野氏はこういう見方を「歴史や政治に素人の、きわめて文学的な説明」というのだが、亀山氏は「その説明が唯一正しい説明かもしれないなと思うことがある」という。しかし、そんなことを言ってどうなるにだろうと思う。事実として10月革命はおきたのであり、圧制も粛清もおきたわけである。
 だから1917年の問題が「マヤコフスキーの運命」というようなほうに収斂してしまい、革命のおこなった偉大なる父殺し、形而上学的には神殺しというような議論にむかってしまう。こういうものは閑人のたわごととして思えなくて、しかもそれぞれの教養のひけらかし競争にも見えてくる。
 みたび福田恆存の「チェーホフ」より、「退屈な話」からの引用。「いいかげんにしなさい。だういふつもりできみたちは、二ひきのがまみたいに座りこんで、自分たちの息で空気を腐してるんです。もうたくさんだ。」 19世紀ロシア文学に登場する人物像の一つに余計者というのがあったような気がする。
 小説というのは西欧近代の産物であって、小人の説、神々や英雄ではなく市井の一個人もまた語るべき物語を持つという信念から生まれた。亀山氏も沼野氏もともに文学者なのであるから、その思いから文学にむかったはずである。小説にくらべれば韻文というのはもっと古代的、神話的起源を持つものであり、本書でスラブであるとかロシア語ということでいわれているものは小説のための言語としてではなく、韻文のための言語としてのロシア語である。わたくしはロシア語を一句も解せぬものであるので、ここでいわれていることの正否は判断のしようもないが、日本語の翻訳で読んでも、「戦争と平和」も「カラマーゾフの兄弟」も面白いと思う。そして、それがロシア革命と関係があるとは少しも思えないのである。

ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎