養老孟司「特別授業 坊つちやん」

 2018年 9月 NHK出版
 
  いろいろな人が中学生に一冊の本をとりあげて講義するというNHKの番組があるらしく、これは養老孟司氏がお茶の水女子中学の生徒15人に夏目漱石の「坊っちゃん」について語った番組をテキスト化したものらしい。
 漱石坊っちゃん」について語っている部分が半分、養老氏がいろいろなところで語ってきたことを再説している部分が半分という感じである。
 小説の「坊っちゃん」では、四国の中学に就職したばかりの坊っちゃんが教頭の赤シャツなどと対立、それに天誅?をくわえるが、それがために、就職したばかりの松山の中学を去ることになるのが主筋であるが、養老氏はそれを自分が東大を定年の3年前に大学という職場に嫌気がさして辞職したことにパラレルなものとみている。坊っちゃんは先に一切の展望がないまま、学校に喧嘩を売ってやめてしまうわけであるが、養老氏は退官時にはすでに多くの著作を刊行していて、それが結構売れるようになっていたわけで、わたくしも氏の本がでるたびにせっせと買っていた。まだ「バカの壁」のバカ売れの前であったとしても、著述によって生活していける目途がたったので、大学を定年前にやめたのだと思っていた。氏のそういう行動は坊っちゃんよりも、漱石東京帝国大学を辞して、朝日新聞社にはいった行動のほうに近いのではないかと思う。漱石朝日新聞に入るにあたり、生活の保障について、随分と細かい点まで交渉していたということを聞いた記憶がある。
 さて、第一章は「「大人になる」とはどういうことか」と題されている。このタイトルですぐに想起するのが、内田樹さんの2002年の本「「おじさん」的思考」に収められた「「大人」になること―漱石の場合」である。ここで主としてとりあげられているのは「虞美人草」であるが、そこに「漱石が大学を辞めて、新聞小説家になった理由ははっきりとしている。 漱石は「啓蒙」家の責務をその身に感じたのである。明治の若者に「これからどうやって大人になるのか」の指針を示さなければならないという強い使命感に駆られたのである。」とある。養老氏もまた啓蒙家の責務を感じているところがどこかにあるのだろう。そうでなければ、これほど多くの著作を世に問うことはないのではないか?
 この講義で養老氏は「坊っちゃんは大人でしょうか」という問いを提出し、まだ大人になりきれていない、だからこそ坊っちゃんと呼ばれるのだという指摘をして、それゆえに「坊っちゃん」のテーマは「大人になる」ということなのであるとして先にすすむ。
 第二章「自分の頭で考えろ」では、漱石の「自己本位」という言葉を援用して「自分で考える」ようになることこそが大人になることであるとされる。そして漱石東京帝国大学を辞めて新聞社に勤めるようになったことに、その「自分で考える」ということの一つの典型的な姿をみている。
 さて、内田樹氏の「「大人」になること―漱石の場合」では、取り上げられるのは漱石の新聞社入社第一作の「虞美人草」である。「虞美人草」の主人公の一人の宗近くんは、内田氏によれば帝大出の「坊ちゃん」である。そして「坊っちゃん」の隠れた主人公である清は、やはり「虞美人草」に描かれた漱石の理想の女性である糸子とパラレルな存在であるとされている。「学問も才覚もない。けれども、人間として最高の美質である、真摯、誠実、正直、清純を備えている」女性。
 この養老氏の本でも、「坊っちゃん」の末尾が清の記述で終わっているに注目するように、生徒の中学生たちに促している。
 吉本隆明氏の「夏目漱石を読む」でも「虞美人草」での宗近くんがする糸公賛美の甲野くんへの大演説を、「文学とはこういうものだったんだという感じが油然とわいてくる」部分といっている。「虞美人草」という欠点だらけの小説も、この部分があるから読むに値するのだ、と。
 糸公は君の知己だよ。・・糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解している。・・糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ。・・糸公は尊い女だ。誠のある女だ。正直だよ。・・
 内田氏もほぼその辺りを引用しているが、こちらは小野くんへの宗近くんの演説の部分。
 こういう危うい時に、生まれ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中には真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間が幾何もある。・・真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰の据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。・・
 そして「坊っちゃん」の清を、坊っちゃんは、
 清なんてのは見上げたものだ、教育もない身分もない婆さんだが、人間として頗る尊い・・
 という。
 本書での養老氏の「坊っちゃん」の読みはごく正統的なものであって、特に養老氏に特有な読みというのは示されていないように思う。むしろ、「坊っちゃん」でのいくつかの出来事を自分自身におきたこととの関連で読んでいるという読み方が特異なのであろう。
 養老氏があちこちで書いてきている、大学紛争時に当時助手であった氏が、学生たちがから「この非常時に何が研究か!」といわれて研究室封鎖をされ研究室を追い出されたという体験が本書でも語られる。しかしそれが、「坊っちゃん」とどう関係するのかがよくわからない。しかし、氏のなかではどこかで関連があるものと捉えられているのだろうと思う。
 氏は助手という新米の社会人として大学紛争に遭遇したわけだが、わたくしは医学部の1年生として、それに遭遇した。今から考えるとおかしいとしかいいようがないのだが、学生たちはストライキをして授業を拒否していることになっていた。そしてたくさんの学生のなかには、自分は医学の勉強をするために大学に来たのだから、授業を受けたいと言い出すものがあって、それらはスト破りと呼ばれて徹底的に嫌われ排斥された。「この非常時に何が勉強か!」である。自分は勉学や研究を拒否しているのだから、その間に抜け駆けをして、勉強したり研究したりしているようなやつがいるのは許せない、そういう論理(心理?)である。自分が止まっているのだから、ほかの人間もまた止まらないければならない。ひとりだけ先にいくようなやつは許せないという理屈あるいは心情である。
 そして、わたくしのまわりで飛び交っている言葉もまた、その根底にあるのが、どのような言辞を弄すれば、人の上に立てるか、他人に対して偉そうな顔をできるかというものなのではないかと感じることがしばしばあった。猿山のボス、あるいはマウンティングである。この学生たちの運動が糾弾の対象としたものの一つが、その当時「進歩的文化人」と呼ばれた人たちであった。この人たちは本当に言葉で扇動することをもっぱたらにしていた人たちだった。
 いわゆる進歩的文化人の権威が大いに失墜したことはこの学生たちの運動の大きな成果であったと思うが、それはその当時の学生たちが、進歩的文化人の弱点、脅かしどころを心得ていたからで、文化人たちは、「お前らは口先だけではないか!」といわれることにとても弱かったのである。学生たちはとにかくも口先だけではなく、石を投げていた。
 さて、どこで読んだか忘れたが、吉田健一が「坊っちゃん」のことを無責任な人間であり、鷗外なら絶対に書かない人物であるといったことを書いているのを読んだ記憶がある。そしてまた、山崎正和氏に「鴎外 闘う家長」がある。
 「坊ちゃん」対「家長」である。漱石対鷗外あるいは下町対山の手。本書にあるように「坊っちゃん」の根底にあるのは「東京の下町の倫理観」である。「そういう汚いことはできねえ」という感覚。
 わたくしは東京の山の手生まれの山の手育ちのためか、坊っちゃん的倫理に憧れがあるにもかかわらず、どうもそれだけでは、という感覚もまたある。わたくしのような万年子供がそんなことを言ったら笑われるにきまっているが、どこかに家長的なものへの憧れもあることも感じている。
 下町=坊っちゃん、山の手=家長、というのはあまりに単純化した話になってしまうと思うけれども・・。


「おじさん」的思考 (角川文庫)

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夏目漱石を読む (ちくま文庫)

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