上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(1)

朝日文庫 2018年10月 
 
 2010年の刊行された単行本の文庫化で、文庫化に際し2編の文が追加されている。
 この本を読んで、どこかで丸谷才一氏が、まだウーマン・リブと呼ばれたりもしていたころのフェミニズムのある集会を評して、観念論に門構えとしんにゅうをつけたみたいと揶揄していたのを思い出した。随分と理屈っぽい本である。
本書は学術論文ではないのだからそれでもいいのかもしれないが、フロイトセジウィックフーコー、サイードといったひとの言説があたかもそれが真理をいいあてた説であるかのように自明のものとして導入されているところが多々あることに面食らった。人文科学の分野ではまだまだこんな手が通るのだろうか? そしてそれと裏返しの関係として、生物学からの観点をほとんど完全に欠いているように見える点も気になった。進化論とか脳科学とか進化心理学などの成果は一顧だにされていないように思えるし、精神医学といえばフロイトラカンではちょっと困るとのではないかと思う。
 本書はジェンダーを論じたものであるので、生物学からみたセックスとは異なる視点がとられていること自体は当然なのであるが、従来は文化的なものとされていた男女の差が、本当は生物学的な基礎をもつのではないかと見直されてきているものが多々あるのであるから、それへの配慮を欠いていることはやはり問題であると思う。どうも本書は自分に都合の悪い言説は一切無視するという傾向がみられるように思う。
 「共感する女脳、システム化する男脳」というタイトルで訳されている本(原題は The Essential Differense 「本質的な違い」2003)の著者サイモン・バロン=コーエンは「(この本で論じているようなテーマは)政治的に扱いが難しく、1990年代にはとても発表することができなかった」と書いている。フェミニズムの運動はある時期、脳科学の学問研究に抑圧的であったのである(今でも禁煙運動はタバコに関する学問研究に抑圧的に作用しているのではないか、とわたくしは疑っている)。
 さて、表題にあるミソロジーというのはまだ日本語として熟していない用語であるが、通常の訳は「女性嫌悪」あるいは「女ぎらい」、もっとわかりやすくは「女性蔑視」のことであると上野氏はいう。しかし、通常の日本語での「女嫌い」「女性蔑視」とは随分と趣の異なる含意をもつ特殊な用語である。この言葉は男性にとっては「女性蔑視」、女性にとっては「自己嫌悪」と性によって非対称にあらわれてくる、と上野氏はいうのだが、本書で扱われるのはほとんどが男性の女性蔑視のほうである。
 そこで、とてもわかりにくいミソジニーという言葉を理解するための具体例として上野氏が提出してくるのが、吉行淳之介である。上野氏のいう「女好きのミソジニーの男」である。下世話にいえば、人間としての女は嫌いだが、生物といしての女は好き。
 しかし、ここでの吉行氏をめぐる議論は人文科学の学問的手続きとしても、かなり杜撰なものであるように感じる。上野氏にいわせると、吉行は「女の通」ということになっていたが、「性の相手が多いことは、それだけでは自慢にならない。とりわけ相手がくろうと女性の場合には、それは性力の誇示でははなく、権力や金力の誇示にすぎない」として、「作家吉行エイスケと、美容家として成功した吉行あぐりの息子として生まれた淳之介は、カネに困らないぼんぼんだっただろう」という。しかし、いささかでも吉行の書いたものを読んでいれば、吉行淳之介はぼんぼんなどではなく、しばしばカネに困っていたひとであると思っているのではないかと思う。金持ちのボンボンと思うひとはまずいないはずである。あまり売れない作家であったエイスケは淳之介が中学五年の時に急死しているわけだし、あぐりさんの美容室がどのくらい流行っていたかはしらないが、淳之介が親の金で遊び暮らすぼんぼんの生活をおくっていたとは到底思えない。
 また、吉行が銀座のバーでモテたのは、「カネばなれがよいだけでなく、「ボク、作家の吉行です」と自己紹介したからこそだろう」と書く。これまた「だろう」という推測ではあるのだが、かつて吉行読者の一人であったわたくしとしてはは(そしてある程度吉行を読んでいるひとならみなそう感じるのではないかと思うが)、吉行は「ボク、作家の吉行です」というようなデリカシーのないことは決して口にしないひとであったであろうと確信している。そういうことを平気で言う人であれば、氏の書く小説があのようなものになったはずは絶対にないとわたくしは感じる。もしも氏がモテたとすれば、氏がある種の繊細さを持つ人であったからであろうと思う。「原色の街」での一エピソード、望月五郎と春子という女の写真撮影をめぐるエピソードを耐えらられないと感じる主人公元木英夫は、それを自分の感受性の鋭さではあっても優しさではないと自己分析をする。吉行氏の小説のモチーフはそういう感受性あるいは繊細さの提示であって、物語はそれを具体的に示すための装置に過ぎない。上野氏は吉行氏の小説やエッセイをどのくらい読み込んでいるのだろうかと疑問に感じる。そしてミソジニーということの一般論からの類推で勝手に吉行氏の像をつくりあげているとすれば学問的手続きとしては論外である。「吉行を読めよ。女がわかるから」という男とか、「女が何か知りたくて、吉行を読んでいます」という女というのもいたのかもしれないが、それはどこの世界にも程度の低い人間はいるというだけの話であって、そういう人間から上野氏は被害を被ったらしいけれども、それだからといって吉行淳之介が悪いということにはならないはずである。そもそも何かのために文学を読むということ自体、文学の享受のしかたとしても論外である。
 上野氏は、吉行の作品を読んでわかるのは女がどのようなものであってほしいかについての男の幻想であるとして、なんとサイードの「オリエンタリズム」まで議論に持ち出してくる。男(西洋)が女(東洋)に抱く幻想が書かれているのが吉行の作である、というのである。なんとまあ大袈裟な! 牛刀で狗肉を割くような野蛮である。そういうことをしたら文学の繊細な手触りなどどこかに消し飛んでいってしまう。
 上野氏は吉行が自作の指標の一つとしたであろう永井荷風の場合、荷風と娼婦との関係は「女がその境界を越えて自分の領分に入ることを決して許さない。女と目線の高さを同じくしてつきあったというより、女を別人種と見なすからこそ、成立した関係である」としている。そして吉行もまたそうなのである、と。それはその通りである、と思う。
 橋本治は「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」でのなかで、三島の原理を「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」であったとしている。それゆえに、恋愛というのがその原理を覆す可能性のある恐ろしいものとなりうるがゆえに排斥されるのだ、と。そして三島に体現されたこのような原理は多くの男に、大なり小なり共有されているものであるから、そこに女たちの「どうして他者と向き合えない? どうして他人を愛せない?」という声が生まれてくるのだという。
 ここで上野氏がいっていることも、それと同じことなのだと思う。なんで男は女と向き合えないのか? 女をモノ扱いするのか、一個の人間として見られないのか?
 中村光夫の最初の長編小説「『わが性の白書』」に、ある男が銭湯にはいっている場面がある。何でここでは気が晴れるのだろうと考えて、たぶん女が絶対に這入ってこないせいだろう、と思う。この場面を、ある女性評論家がバカじゃなかろかというように言っていた。しかし、かつてイギリスのクラブは女人禁制であったという話もある。イギリスでの女性参政権獲得が1928年である。
 吉行淳之介に「春夏秋冬女は怖い」という本があって副題が「なんにもわるいことしないのに」である。それによると、男は自分というものを客観的にみている。しかし、女は自分しか見ていない。男は繊細であるから、見て見ぬふりということができる、しかし女は平気で人の中にまで踏み込んでくる。だから怖いということになる。
 三島由紀夫はその「第一の性」で、男はみな英雄で男の栄光の源はすぐに足が地につかなくなってしまうことにあるという。ところが地に足がついていて地上の現実こそがすべてである女は、それゆえに愛の専門家となるのだが、「(地に足がつかず、現実がみえない)男は愛についてはまだお猿クラスですから、愛されるほうに廻るしかない」ことになる、という。男は自分のしたいことをしたいから、抛っておいてほしいのだが、女はそれを許してくれない。「わたしはあなたが好き」といって勝手に侵入してくる、だから女は怖いということになる。ミソジニーの根源は男だけのクラブには勝手に侵入してこないでほしいという男の切なる願望に発するのだと思うが、女から見ると自分の中に閉じこもっていて自分のほうに目をむけてこない男が許せないわけである。
 そして、男が女を怖いもう一つの理由として、男は自分に自信がもてない存在であるということがあるのだが、それなのに(男がら見ると)女がなぜか自信をもっているように見えるということがあるのではないかと思う。そのあたりのことはたとえば山崎正和氏の戯曲「おう エロイーズ!」などによく描かれているように思う。山崎さんというひとは政治とかいった自分の外部のことを論じている場合と、戯曲で個々人を描く場合とで、まったく別人なのではないかと思うくらい肌合いの違う論をなす不思議なひとである。
 その山崎氏をふくむ丸谷才一木村尚三郎の「鼎談書評」で、吉田健一の「まろやかな日本」が論じられている。そこで丸谷氏は「吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の習慣は不思議でしょうがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇蹟的存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか」といっている。
 本書の第二章で、上野氏は「男の値打ちは、男同士での覇権ゲームで決まる。男に対する最大の評価は、同性の男から、「おぬし、できるな」と称賛を浴びることではないだろうか」と書いている。「男でないわたしにはよくわからないが」という但し書きつきではあるが、上野氏もまた村落的学者共同体のなかで生きているひとなのではないかと思うので、女性としては例外的に「おぬし、できるな」という賞賛に反応するひとなのではないかという気もする。叙勲などというのも公認「おぬし、できますな」であると思うが、上野氏などにもいずれその順番がまわってくるのだろうか?
 「第一の性」で、三島由紀夫は、男は子供の時から競争原理の中で生きてきて、その英雄ごっこの延長戦上にあらゆる政治・経済・思想・芸術の成果が生まれてきたのだといっている。こういう競争原理がどれくらい日本の村落的性格に由来するのかはわからないけれど、上野氏を駆動してきたものの根源に、もしも自分が男と差別されずに公平に扱われるならば、もっと上にいけるのにという心情があったのではないかと思う。「セクシー・ギャルの大研究」などというのを書いていたころには、まさか将来、自分が東大教授になるとは考えてもいなかっただろうと思う。
 氏に「ケアの社会学」という本があって、何だかものものしい本で本屋さんで見て、何で今頃こんな本を出すのかなと思っていたら、学位論文なのだった。東大教授になってからのものである。上野氏には「家父長制と資本制」というこれまたものものしい雰囲気の本があって、学位論文なのかなと思っていたら、違っていたらしい。上野氏ほどの盛名があって東大教授にまでなれば、今更、学位なんて関係ないのではないかと思うのだが、学者社会のメイン・ストリートに入ることになるとそうでもないのだろうか。江藤淳さんが東工大教授になってから学位をとったことを思い出した。
 くだらないことばかり書いていたら、なんだかまだ30ページくらいまでである。もう少し書くつもりでいる。
 

女ぎらい (朝日文庫)

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共感する女脳、システム化する男脳

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原色の街・驟雨 (新潮文庫)

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「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

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第一の性 (1973年)

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鼎談書評 (1979年)

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まろやかな日本 (1978年)

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ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ

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