堀井憲一郎「1971年の悪霊」(1)

 堀井氏の名前を最初に知ったのは、どこかの週刊誌(週刊新潮?)で連載していた「ホリイのずんずん調査」?というコラムでだったと思う。何かの話題について私見を述べるのではなく、とにかく調査してみるという姿勢のユニークなコラムだった。
 堀井氏の書くものには二つの系列があって、一つは落語についてのもので、もう一つが時事的な問題を論じたものである。落語についてはわたくしはまったくの門外漢なので特に述べるべきものを持たないが、後者の「若者殺しの時代」とか「やさしさをまとった殲滅の時代」などは、少し人生の先輩として若者たちに時代にだまされるなと呼びかけるような方向の本で、「若者殺しの時代」の末尾「すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。/ うまく、逃げてくれ。」という言葉はよく覚えている。
 本書はそれらとも少し違って、自分の生きてきた時代について語ったものである。堀井氏は1958年生まれであるから、わたくしのほぼ10歳年下である。タイトルの1971年というのは別に1971年でなくてもよくて、1968年でも1972年でもかまわないわけであるが、要するに1970年前後に日本において生まれたある気分がまだ現在の日本を覆っているのではないかというようなことを述べたものである。1970年に堀井氏は中学にはいったばかりということになる。
 第1章「1971年、京都の高校で紛争があった夏」は、1971年に京都のある高校で、期末試験粉砕のために生徒たちが教務室を封鎖し、期末試験は延期されたが、機動隊が導入され封鎖に参加した生徒たちが逮捕されるということがあったことが述べられ、堀井氏はその2年後の1973年にその高校に入学したことが述べられる。その事件をきっかけにその高校は「民主化」され、京都大学入学を目指す受験校であったその高校で、中間テストが廃止され、成績表が5段階評価から絶対評価に変更され、制服がなくなり、生徒が自分でテーマを選び研究するというゼミ制度のある「自由で革新的な」、生徒の自主性が尊重される高校になっていたのだが、その紛争の当事者ではない堀井氏は、ちょっと変わった高校だな、でも居心地は悪くないなと思っただけだった。
 1971年にはまだ世間は学生運動に好意的だった。それが1972年の浅間山荘事件で空気が変わり、学生運動への好意的見方は失われた。しかし1973年に高校にはいった堀井氏は、1971年の出来事の恩恵をうけて自由でのんきな高校生活を送ることができた。しかし、それは1971年の理念を受け継いだからではなく、ただそこにあるものとしての自由を享受しただけである。パリコミューンからちょうど100年の後に日本のある地方の高校でおきたささやかな左翼運動の勝利。
 「はじめに」は「白く冷たかった2009年の夏」と題されている。麻生太郎内閣は漢字の読み違いで追い込まれ?総選挙となり、民主党が政権を担当することになった。そこには無意味な明るさがあった。まるで昭和16年を思わせるような。そこにあるのは自民党でないなら、何でもいい、というだけの気分だった。堀井氏は1968年に盛り上がり1972年ごろに鎮静化していったある気分が、そこでふたたび帰って来たように思ったという。2009年からの民主党政権は、「理想に満ちているが、運営力がない学生運動気分」という1970年の思念の再現だったのではないか、と。
 この前とりあげた富田武氏の「歴史としての東大闘争」は、1968年の気分のまま、そのままずっと生きてきているひとの記録として読めるのではないかと思ったが、そのような気分というのは一部のマスコミにはいまだに生きていて(典型的なのが朝日新聞?)、確かに2009年の民主党への政権交代時の朝日新聞の高揚というのだろうか、躁状態というのはいささか常軌を逸したものだった。
 堀井氏はそのような気分というものの典型を例えばフォークソングというものに見る。それで第2章は「1971年、岡林信康が消えた夏」と題される。「若者たち」(1966)、「今日の日はさようなら」(1967)、「戦争は知らない」(1968)、「友よ」(1968)、「青年は荒野をめざす」(1968)、「風」(1969)・・。堀井氏は中学生のころフォークソングに感じたものは政治的なメッセージとか社会的メッセージではなく、「切なさ」であったという。これはアメリカから輸入されたもので、たとえばピーター・ポール&マリー。その曲のなかには「異議申し立て」「反戦」のメッセージが込められた歌もあったが、その基本はやはり切なさであったのではないか、と。
 さて、1968年になり土俗的なフォークソング関西フォーク)がでてくる。その象徴が岡林信康。フォークの神様とも呼ばれた。しかし岡林がプロテストソングを歌っていたのは1968年と69年の2年だけ。1971年からは吉田拓郎井上陽水の時代になってゆく。岡林は「なんや、いまの社会はおかしいんと違うか」という疑念を歌った。「みんなももっと歌いださなあかんとおもいますし、黙ってることはないとおもうんです・・」 抗議するとか、社会運動をしようという以前に、今の気持ちを言葉にしようという呼びかけであり、別に暴力革命などは想定してはいない。しかし運動家たちは岡林を自分のため仲間だと思った。
 1969年ごろ、新宿西口広場で毎週開かれていたフォークを歌うフォークゲリラと呼ばれた集会があった。これはフォークを歌うことが目的であったのではなく、たとえば「ベトナム戦争反対」が目的だった。
 「友よ」は「今はつらいだろうが、耐えれば、やがていいこともあるさ」という歌であり、負けた、でも進め、という歌である。当時の反体制運動にもそういう気分が流れていた。「負けるとわかっているけど闘っている。」「勝てないことはわかっている。それでも何かしないといられない」という気分。当時人気であった東映やくざ映画ともシンクロする気分。「とめてくれるな、おっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへゆく」 
 1971年、岡林信康は失踪する。フォークコンサートの後におこなわれるようになった討論会にもつきあわされることに耐えられなくなったからだという。金儲けのために歌うなどというのは言語道断、より大事なのはみなの意識を高めることである・・。小さな反抗から社会を変えられるとみな信じていた。大人の世界とはまったく違う若者の世界があるとみな信じようとしていた。
 1971年の中津川フォークジャンボリーではついにコンサートが中止され、朝まで「ティーチイン」が続いた。それをきっかけにフォークは岡林信康の時代から吉田拓郎の時代へと転換していった。プロテストソングからラブソングへ。闘争時代は終わり、同棲時代がはじまった。
 「歴史としての東大闘争」でも、「当時、時代の気分を表したフォークソングが流行した」とあり、ボブ・デイランの「風に吹かれて」やジョーン・バエズの「花はどこへ行った」がヒットしたと書かれているし、また著者のふた回り下の奥さんはアルフィーの熱烈なファンなのであるとも書かれている。
 
 わたくしは中学1・2年のころにクラシック音楽のほうに逸れてしまったので、ここに書かれているフォークとかもあまりリアルタイムな経験としては聴いていない。それでももちろん、「友よ」とか「青年は荒野をめざす」とか「風」とかは知っていた(アルフィーはまったく知らない)。しかし「友よ」を岡林信康が歌っているのを聴いたか否か記憶が定かではなかったので、検索してみると、you tube というのは便利で、すぐに岡林歌唱の「友よ」がでてきた。実に優しい声の優しい歌である。戦闘的とかいった雰囲気は一切ない。そしてyou tube にはいくつかのヴァージョンがあるなかで、歌に被って「安田城落城シーン」がずっと流れるものもあった。少なくとも1968年当時の学生運動家の一部にはこの歌の心情をバックボーンとしていたものがあったということなのであろう。
 では、中学から高校にかけてわたくしがどのような音楽を聴いていたのかといえば、ベートーベンの「悲愴」とか「熱情」とか「テンペスト」といったもので、反抗的気分というか、鬱積した何か、要するに「ロマン主義」に通じる何かである。そして困ったことに大学に入るまでには、小林秀雄の「モツアルト」などというのもすでに読んでいて、ロマン主義を否定する、あるいは惑溺したロマン主義を否定する視点もまた知っていた。小林秀雄ランボーから出発した人なので、「モツアルト」には若気の至りのランボー路線の否定あるいは懺悔の書という趣が大いにあると思うが、それでもロマン主義を全否定はせずにその精髄は残すというような曲芸を試みたものだったのだろうと思う。
 そして当時の学生運動に参加したひとのなかには、フォークソングではなく、小林秀雄ランボー路線からそこに参加したひともある程度はいたのではないかと思う。
 とすれば問題はもっと広く何らかのロマン主義的心情ということになる。ロマン主義は先進した英仏に対する後進ドイツのルサンチマンから生まれたもので、要するに物質では負けても精神で勝つという路線である。ドストエフスキーロシア正教もその流れ。あるいは昭和16年の日本もまたその驥尾に付していた。
 それでは、1968年の学生たちの運動もまたその流れの中にあったのか?
 橋本治は「ぼくたちの近代史」で、全共闘って、一言でいうと、あれは「大人は判ってくれない」ですよね、と言っている。「大人は判ってくれない」と言っていた彼らは、何を判ってもらいたかったんだろうかというと、「‟大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、その事を判って欲しい!」って風に言っていた、ということになる。
 富田武氏の「歴史としての東大闘争」には、こまかい経緯がいろいろと書かれているが、加藤執行部との間の10項目確認書などというのは、子供たちが騒いでいたら大人がでてきたというようなものであったのだろうと思う。ごく一部の「ぴんの頭に天使が何人とまれるか?」に類した煩瑣な議論に意味を見出していた人たちを除けば、全共闘運動に何らかの反抗的気分から参加していた人たちは、そこに出現したある祝祭的空間に子供のころ遊んだ原っぱが再現されるのを見て、それが少しでも長く続くことだけを望んだのだろうと思う。大学での講義などというのは少しも面白くない。そこでは自分たちは主人公ではない。しかし、原っぱでは自分たちが主人公である。大学を出て社会人になった未来の自分を想像しても、そこにあるのは大学の講義をきいている自分と同じの何かの一員としての、ただの一つの駒としての自分である。そうであるなら今の原っぱでの遊びをできるだけ長く続けたい。しかしそれは所詮モラトリアムであることもわかっている。しかし、自分からそれをやめることはできない、誰かがそれを潰しに来てくれない限りはそれを止めることができない。
 第1章で描かれた高校紛争の話からすぐに連想したのが村上龍の「69」である。1969年に佐世保の高校をバリケード封鎖をする話で、その動機は女の子の気をひくためというとんでもないまったく非政治的動機なのであるが、おそらく「昭和歌謡大全集」とともに村上龍の小説のなかでもっとも楽しい小説である。愚かさも含めた若さを描いたものとして出色だと思う。ちょっと「坊ちゃん」をも想起させる。村上氏の作で同じ学生の反乱(こちらは中学生だが)を描いていても「希望の国エクソダス」の学生(生徒)たちにはまったく魅力がない。ツルンとしていて、若くなく、愚かでもない。「坊ちゃん」もそうであるが、「69」も「正しい」けれども「負ける」というところで物語のバランスがとれている(あるいはわたくしはほとんど観たことがないけれども東映やくざ映画もそうなのだろうと思う)。
 さて、2009年の民主党政権の成立もまたこの流れの一環として説明できるのだろうか? 鳩山由紀夫菅直人という二人の首相が子供じみたひとたちであったことは確かであろうと思う。鳩山氏の最初の施政方針演説の青臭さにびっくりしたのを覚えている。例の「命を守りたい・・」とかいうものである。文才のない文学青年の戯言のようなもので、政治ということには何のかかわりもないものだった。わたくしは市民運動家というのは人前で偉そうな顔をしたいのだけが動機の人間であると思って一切信用していないので、菅氏もその経歴のはじめからただただ嫌な奴と思っていたが、そういうひとを支持し持ち上げるひとが少なからずいてついには宰相にまでなってしまったということがただただ驚きであった。トランプさんがアメリカの大統領になったことも驚きだが、まだトランプさんはその経歴のなかで政治とかかわりがないとは言えないような経験はしているのだろうと思う。しかし、鳩山・菅両氏ともに政治よりも反=政治のような方向で生きてきていた人間であると思うので、2009年の民主党政権というのはとても不思議なものであったと思う。
 堀井氏は、この民主党政権は「理想には満ちているが、運営力が劣る学生運動気分」ととても似ているがゆえに困ったものだと感じていたという。
 「理想には満ちているが、運営力が劣る学生運動気分」を遡っていくと、その始原がフランス革命にまでいたるのか? それが難しいところである。本書の後のほうでは1968年のパリ五月革命も論じられている。
 フォークソングの話の後では、一転して硬派の高橋和巳が論じられることになる。それは稿をあらためて。

1971年の悪霊 (角川新書)

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若者殺しの時代 (講談社現代新書)

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歴史としての東大闘争  (ちくま新書)

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ぼくたちの近代史 (河出文庫)

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69 sixty nine (文春文庫)

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