橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(1)

 橋本氏が「小説トリッパー」に2017年秋号から2018年冬季号まで、連載したものの書籍化。おそらく、この後も書き継ぐつもりでいたものが、氏の死により中断されたもののように思う(161ページに「六月の末に癌の摘出手術を受けて入院中とある)。それで「あとがき」がない。しかし、おそらく後1~2回で終わる予定でいたのではないかと思うで、今回刊行部分で評することには問題はないように思う。
 この「小説トリッパー」に連載されたものとしてはすでに2017年に刊行された「知性の顚覆」がある。その副題が「日本人がバカになってしまう構造」で、イギリスのEU離脱やトランプ大統領誕生などをとりあげているものの、話があっちにいったりこっちにいったりで、書いた本人が「むずかしい本だな」などと嘯いている焦点がしぼりにくい本であった。それにくらべると本書は、父権制・家父長制・家制度・戸籍制度といった方向に話が絞られているので、その分、方向が見えやすいが、それでも「スター・ウォーズ」や「ゴッドファーザー」などへの脱線は相変わらずで、もうすこし話をまっすぐ進めてくれたらな、と思う部分がある。それで敢えてくねくねした進行をまっすぐにして考えていきたいと思うので、橋本氏の論の進行の含みや奥行が消えてしまうことをおそれるが、それはお許しいただければと思う。
 それで話は、主題が「父権制の崩壊」であって「父権の崩壊」ではないというところからスタートする。父権制しなわち家父長制は、父親を「一家の長」とする制度で、父親に家族を扶養する義務を負荷するのと同時に、家族を支配統括する権利をも与える制度で、この制度での一家の長を戸主と呼ぶ(戸というのは家であり、戸籍制度の戸である)。日本ではそのような制度は1947年の民法改正で廃止されているので、その時点で、家父長制は法的にはなくなっている。
 家父長制は「お父さんはえらい」という考えを基礎にしていたわけであるが、法律が変わったら、すぐにその考えがなくなったわけではなく、戦後においても日本を長く呪縛した。しかし、それが今ようやく瓦解しようとしている。それは「女の力」によってである、と橋本氏はいう。
 東京では、1970年代までは普通にあった木造アパートが80年代になると消えていき、若者もワンルームマンションなどに住むようになる。大家さんや管理人がいなくなり、地域社会というものが下町を残しては消えていった。
 現在進行している世界的な右傾化の傾向はかなりの部分が《家父長制に帰りたい》という動きによって説明できる。その《家父長制に帰りたい》と思う人達の理想のおやじがドナルド・トランプである。
 男というものは自分の外側にあるシステム(「社会」とか「全世界」)にシンクロするようにして生きている。男の外部にあるというのがそれに同調する男にメリットをあたえるようにできているからで、その典型が戦後日本の会社である。
 「論理」というのは少なくとも、今のところは、男のものである。「論理は女のもの」とはなっていないし、「論理は男のものだった」という過去形にもなってもいない。
 セクハラは《男性優位ということを当然としている》男性がおこなうものである。だからする側にそれが悪いことであるという自覚がない。1968年ごろの学生運動を思い出すと、それは理解しやすい。なぜ、学生たちはそれを闘争と呼び、大学当局は紛争と呼んだのか? 大学当局は自分達は学生より優位であることを疑っていなかったからである。学生たちがそれが問題だ!といいだした時点でも、大学当局は、だから何なの?としか思えなかった。大学当局が当たり前としていたことも、学生たちには当たり前とは思えなったのである。これは当たり前と思って好き勝手をしてきた男が「セクハラ!」と訴えられて慌てるのと同じ構造である。
 そのように「男の論理だけが論理である」が通らなくなってきており、女をも包括する論理が必要とされるようになってきている。
 森友、加計学園問題で明らかになったのは、中央の人間は地方の人間を下にみている、ということである。下のものは上のものにしたがって当然と思っているということである。
 パワハラは組織内の上下関係から生まれる。パワーハラスメントは、その人個人のパワーではなく、組織がその人にあたえる「場の力」によって生まれる。つまりパワハラは「組織という構造に由来する病」である。
 組織とは単なる会社といった単位ではなく、もっと大きな業界といったものもふくむ。「個人」がパワハラを告発すると、「あいつは組織に馴染めない人間だ」といわれる。
 これはいじめとその告発の構造とも同じである。完結した自分達の世界の中に住んでいるひとは、自分たちの世界の外に別の価値基準を持つ世界があるとは考えない。組織の外側にいる個人というものを想像できないのである。
 しかし少しづつ、「組織とは個なる人によって出来あがるものだ」という常識が浸透してきている。その個人はひとりひとりが自分の考え方を持っている。
 日本でも、「組織というものは上から下に下がっていく枠組みである」という見方と、「組織はそれを構成する個々の人間が作っていくものだ」という考えが拮抗して併存するようになってきている。
 パワハラは組織の上位者による下位の人間への凌辱行為である。「お前は組織のなかにいて組織に面倒をみてもらっているのだから、組織に逆らってはいけない」という考えを基礎にしている。その声はかつては非常に強力であったが、それがようやく今、変わろうとしてきている。
 セクハラの構造もパワハラの構造とまったく同じである。だからセクハラをしたとされて辞任した財務省の事務移管は「自分はセクハラはしていないが、自分の所属する組織に迷惑をかけたので辞める」のだといった。これは組織の内側でしか通用しない言語である。「自分の考え方」を持った個人には通用しない。「組織に所属する人間」である前に「自分なりの考えをもった一個人」であることが現在では要請されてきているのである。「組織はすでにできあがっていて、上から下への命令がおりてくるもの」という考えと「組織は我々が作っていくものである」という考えが併存するようになってきている。
 組織のほうでは、「お前は組織のなかにいて組織に面倒をみてもらっているのだから、組織には逆らえないよな?」と思っている。しかし昨今、セクハラ被害への告発が続いているということは、それが崩れてきているということである。
 日本ボクシング連盟の問題というのは日本の組織というものを何よりもよく示した事件であった。山根会長というのは「日本の昔にいた田舎のおっさん」そのものである。1960年以前の日本は圧倒的に農村社会であった。そして昨今の事件は永田町もまた同じ構造のままであることを示した。
 人間の歴史は「男社会の歴史」である。とすれば、それを壊すものがあるとすれば当然「女」である。
 かつては、「男=主、女=従」が当たり前とされていたから、女がそれを抑圧と感じることもなかった。しかし、もしそれを女が抑圧と感じるようになれば? それが現在である。女を守るものでもありまた抑圧するものでもあったタガは外れた。そのタガというのが結婚である。『両性の合意のみによってなりたつ結婚』は脆い。「家」という抽象概念を背景に持たない結婚は危い。
 今では「というのが単なる建物のことになってしまった。しかしそうではあっても、今でも結婚届けを出すと新しい戸籍が作られる。その場合に誰を戸主にするかが問題となる。姓は二つという選択は現在の制度では認められていない(夫婦別姓が日本で容認されにくいのはそのためである)。しかし二人で作るシステムの代表が一人でなければならないというのは最早時代錯誤になってきているのである。家父長制という、家を代表するものはただ一人で、それは男でなくてはならないといういきかたはもはや機能しなくなってきている。
 明治に統治者としての天皇を神格化した。これが普通の家庭にも波及し、家長の絶対化がおこった。このことによって日本での男の在り方は、明治以降、江戸時代よりも後ろ向きとなった。敗戦で天皇は自らの神格性を否定した。それと並行して、民法は改正され、制度上の家父長制は消えた。日本の家庭はただの家庭に戻った。
 それでは本来、家というものがもっていた機能というものはどのようなものであったのかを考察する途中で本書は終わっている。おそらく橋本氏の死によってそれが中断してしまったのであろう。もしも氏が存命で連載が続いていたら、現在の改元とともに出てきてきている皇位継承の問題、女性天皇などの問題についても大いに議論がなされていたはずである。
 
 わたくしは1947年生まれなので、丁度、民法が改定された年である。その改定によって、『家・戸主の廃止、家督相続の廃止と均分相続の確立、婚姻・親族・相続などにおける女性の地位向上』などが図られたとされている。
 わたくしは長男であるが、家督というようなことを今まで意識したことはまったくないように思う。父は三男坊であり、母は二人姉妹の妹。父母は母の両親と同居し、その死後もそのままその家に住み続けた。わたくしは結婚して家をでた後、しばらくしてまた親と同居するようになり現在にいたっている。
 家督という意識はまったくなくても、不動産というものあるいはその相続ということについては、血縁という意識が日本の法律にはあるのではないかということを感じる。母方の祖父が取得した不動産は母に相続されたわけで、それには父は一切の権利を有していない。民法改正以前は長男に相続されたものが改正によって女である母にも相続の権利が生じたということなのかなと思っている(改正前民法についての知識が不足しているので違っているかもしれない)。後は墓であろうか? 母方は女二人姉妹であるので、その死後の墓の維持ということが母の懸念であるらしい。
 そのようにわたくしからみると戸というものは不動産相続の問題であったり、墓の問題であったりといった即物的な方向だけなのであるが、そうではない見方をするひともあるわけで、ソーントン不破直子氏の「戸籍の謎と丸谷才一」では、戸籍という制度を「可死性への挑戦」への一つの挑戦として捉えている。
 不破氏(と書くとすでに問題がおきるのだが、正確にはソーントン不破氏?)がそのようなことを意識するきっかけとなったのが、氏が国際結婚をしたことである。氏は一人っ子で将来子供が生まれたら少なくとも一人は日本国籍にして自分の姓を継いでもらいたいと思ったという。それで法務省に確認したところ、それはできないことがわかった。日本の戸籍法では、子供は父親の戸籍を取得しなくてはいけないので、米国籍となる。それを逃れるためには私生児とするしかない。そうであれば父親がいないので母の国籍となれる。米国での小切手ではナオコ・フワ・ソーントンという記載であったが、日本における戸籍は結婚後も旧姓のままだった。(結婚によって両親の戸籍からは除外され、、旧姓のままで新しい戸籍の筆頭者となっていた。) 国籍が違う配偶者とは同性になれなかった。長男はアメリカで生まれたので出生届けを州の役所に届けた。次男は日本で生まれたので在日米国領事館に届けパスポートが発行された。子供を日本国籍にすることはできなかった。自分との親子関係を示す戸籍は存在しないことになった。
 その後、国籍と戸籍にかんする法律がかわり、子供が望めば母親の国籍を取得することも可能となった。1990年代にさらに姓をソーントン直子からソーントン不破直子とすることも可能となった。しかし、相変わらず戸籍には子供にかんする記載はない。
 そこから不破氏は戸籍にかんする議論にうつる。戸籍は東アジアの中華文明圏にのみみられる制度(中国 朝鮮 日本)であり、たとえばアングロサクソン系では、出生届けは個人単位である。それは徴兵と課税のためのものとされる。
 しかし日本ではそれ以外に家族関係についての公文書という色彩も持つようになった。公民の家系意識と皇統の万世一系の物語が、個々人のアイデンティティと国のアイデンティティを支えることとなった。
 江戸時代には、武家では子がないと家名断絶となるので、子がない場合、養子をとったり側室に子供を産ませようとした。武家では相続権は男子のみ(庶民では女子の相続もあった)であった。
 明治にはいり、武家と庶民の別は廃され、明治31年の明治民法で現在のような夫婦同姓となったため。この民法の成立から「家」の概念が濃くでてくる。戦後の民法改正によっても、この「家」の概念は残っており、一人一戸籍ではなく「夫婦と同氏の子」を戸籍編成の基準とした。
 人間が自己の死を自覚した場合、何らかの永世を信じる手段として、青史に名を残すとか、いろいろな足掻き方があると思うし、家というのもその一つの手段たりうるとは思うが、戸籍というものもその一つなのであるという不破氏の見解にはいささか納得しずらいものを感じる。あるいは丸谷氏の諸作を「可死性への挑戦」という観点から見るという方向に疑問を感じる。丸谷氏は日本の私小説を中心とする文学風土に「逆らって」、あるいは主観的にはそれに「たった一人の反乱」をおこすことを自分の立ち位置とすることを選んだひとであったのだと思う。何らかの個性を主張する文学ではなく、大きな文学の伝統の流れの中に生きる一人の文学者としての自分という位置づけである。この文学観は、血縁の流れの末端にいる自分という見方とパラレルの部分がある。丸谷氏の文学が血縁、戸籍というものにこだわるように見える部分があるのはそれによるのではないだろうか?
 橋本治氏は「宗教なんかこわくない!」の中の「近代人は二度死ねない」の項で『「魂の不滅」は、やっぱり、人間の死に対する恐怖であろう』といって、なんとドーキンスの「利己的な遺伝子」まで持ち出してくる。 やはり、近代人には「可死性への挑戦」という方向は嘘になるのである。同じ「宗教なんか・・」で橋本氏は"自分の頭で考えられるようになること”―日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない、といっている。本書「父権制の崩壊・・・」もその延長戦の方向なのだろうと思う。
 わたくしは家意識といったものが極めて乏しい人間なので、この不破氏の著作で戸籍制度というのが中華文明圏でのみ見られる制度であることをはじめて教えられた。そして不破氏はそれを個人単位で出生を管理するアングロサクソンのやりかたと対比させている。わたくしは個人というものを西欧の発明だと思っているので、この対比は魅力的である。しかし、そこから可死性への挑戦といった方向にいくのは飛躍であると感じる。
 それで家族類型からわれわれの生き方を説明するE・トッドの家族システムの見方のほうがずっと説得的であると感じる。それで鹿島茂氏の「エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層」を見ながら「父権制の崩壊・・」をみて行きたいと考えるが、長くなったので項をあらためる。
 

戸籍の謎と丸谷才一

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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