橋本治「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」(2)

 わたくしはE・トッドの著作は「帝国以後」しか読んでいないので、以下、鹿島茂氏のまとめにしたがう。
 トッドは世界の家族を4類型に分ける。
1)絶対核家族イングランドアメリカ型):結婚した男子は親と同居しない。別居して別の核家族をつくる。親の権威は永続的でなく、親子関係も権威主義的ではない。結婚しなくても、生計が立つようになると子供は独立する。
 親の財産は兄弟のなかのひとりに相続されるが、誰とはきまっていない。そのための争いがしばしばおきる。
 教育には不熱心(識字率は低い)。ただし、女性の地位は比較的高く、女性識字率も比較的高い。
 イングランド、オランダ、デンマークアメリカ合衆国、オーストラリア、ニュウジーランドなど。
2)平等主義核家族(フランス・スペイン型):子どもは結婚後、親と同居することはまずない。親の権威は永続的でなく、親子関係は非権威主義的。その点は1)に似るが、遺産相続が完全に平等である点で異なる。
 識字率は低く、家庭内における女性の地位も高くない。
 フランスのパリ盆地一帯、スペイン中部、ポルトガル南西部、ポーランドルーマニア、イタリア南部、中南米など。
3)直系家族(ドイツ・日本型):結婚した子どもの一人(多くは長男)が両親と同居する。親の権威は永続的で、親子関係は権威主義的。兄弟間は不平等。財産は多くは長男が相続。長男の嫁も比較的権威を持つ。
 識字率、特に女性の識字率が高い。
 ドイツ、オーストリア、スイス、チェコスウェーデンノルウェイ、ベルギー、フランス周縁、スペインの一部、オルトガルの一部、スコットランドアイルランド、韓国、北朝鮮、日本など。
4)外婚制共同体家族(ロシア、中国型):男子はすべて結婚後も両親と同居する。父親の権威は強い。父親の死後は、財産は兄弟同士(ただし姉妹は排除)で平等に分割されて、個々が独立する。家庭内で女性の地位は低い。女性の識字率は低い。
 ロシア、中国、フィンランド、フランスの中央山間部、イタリア中部、ハンガ説リー、セルビアボスニアブルガリアマケドニアベトナム北部など。
 
 人間を決定するものは、生得的な遺伝的なものか、後天的に文化によって決定されるのかについては従来から喧々諤々の議論があり、従来の人文学では後天的文化決定論が主流であったものが、次第に生得説が勢いを得てきているというのが現状であろう。遺伝説はわれわれにはまだ狩猟採集時代の環境に適応した生得の傾向をもっているというわけであるが、トッドの家族類型論は生得説と後天説の中間に位置するように思われる。
 日本は明治以降、西欧を受け入れてきた(あるいは押しつけられてきた)わけで、さらに敗戦後はアメリカを受容したわけであるが、トッドの分類によれば一言で欧米といっても、ドイツ・フランス・英米でそれぞれまったく異なる類型に属するわけである。明治期以降、日本の洋学派はフランス派、ドイツ派はたくさんいたが、イギリス派やアメリカ派というのはずっと少なかったように思う。ヨーロッパの文明の精華というのは主としてドイツやフランスにあって、それに比べたらイギリスなどにはあまりみるべきものはないということになっていたのかもしれない。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」にはドイツのことはあまりでてこない。ゲーテが少しでてくるくらいかもしれない。健一さんにとってヨーロッパの精華は英仏にあるのである。そして「英国の文化の流れ」という文章(「英国に就て」所収)では、水洗便所がフランスなどよりもはるかに早くイギリスで発達したことに、イギリス文化の特色をみている。要するに生活の快適を何より重視する姿勢である。
 さて、1947年の民法改正は直系家族の行き方を一編の法律によって絶対家族型へと転換させようとしたものである。しかし、単なる法律の条文の変更が社会をすぐにかえるということはない。とはいっても長い時間軸のなかでは社会も変わっていく。その変化の要因としてトッドが重視するのが「女性識字率」で、女性の識字率が50%を超えると出生率が下がるとトッドは主張する。事実、日本では女性の教育水準はどんどんとあがっていて、その一方で、出生率は低下してきている。なぜ教育水準があがると出生率は下がるのか? 教育水準があがると子供を産む産まない(あるいは、そもそも結婚するしない)の選択の主体が男性から女性に移るからである。そして女性が選択するものは子供を産む産まないだけではない。
 ここまで来て、ようやく「父権制の崩壊 あるいは指導者はもういない」の「父権制を‥転覆させたのは女である」の議論に戻ることができる。
 トッドの家族システムの分類において女性は大きな役割を演じていない。女性の識字率が低い傾向にあるか、相対的に高い傾向にあるかは家族類型によって違いはあるが、女性識字率を向上させる動機自体は家族システムには内在していない。
 すべての家族システムにおいて男が主導権を握っていることについては狩猟採集時代の生活形態という進化論的な背景があるのであろう。一方、農耕の開始にともなう余剰な富の蓄積は言語を産み、文字を産み、都市を産み、文明を産み、そしてついには当初は男性だけのものであった教育が女性にも普及するようになり、それが家族システムという下部構造を侵食しはじめている、
 橋本氏がいう『父権制の崩壊』というのはそのことで、侵食の具体例はセクハラやパワハラという形であらわれてきている。しかし、セクハラもパワハラも組織という背景があるにしろ、個対個の問題である。問題は女性の識字率の向上に相当するものが、日本の疑似《家》である会社組織においてもみられるだろうかということである。山本七平のいう、日本においては機能集団は共同体化しないかぎり機能集団としての機能も果たせないという問題である。日本においては確かに《家》は《戸》ではなくなってきている。しかし《疑似家》はあいかわらず《戸》のままではないのだろうか?
 正社員と非正社員の別は、家族と家族外の区別であるし、年功序列は長男優先である。いわゆる日本型雇用(終身雇用、年功序列企業別組合)の慣行が確立されたのは高度成長期であるとされているが、そのルーツは陸軍内務班にあるのではないかと思っている。あるいは「直系家族」の文化が組織を作ると何らか陸軍内務班的なものになるということなのかもしれない。「星の数よりメンコの数」「私的制裁」・・・。現在のパワハラはもとをたどれば「私的制裁」にいたるのではないだろうか?
 わたくしはこの辺りの問題について山本七平氏から多くを学んできたと思っているが、山本氏は日本の組織というものについて愛憎半ばしたひとである。氏は陸軍で経験した不条理の考察から言論活動をはじめたひとである(「日本人とユダヤ人」はほんのご挨拶、名刺交換といったものであろう。「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」こそが氏の出発点である。そしてそれは後年の「日本はなぜ敗れるのか」まで一貫している。それと同時に「日本資本主義の精神」で紹介されている氏と同業である製本業の中小企業主であるHさんへの無条件の敬愛など、氏の言論は日本の組織のもつ美点と欠点双方への愛憎で引き裂かれている。
 橋本氏は生涯、筆一本で生きたひとで組織には属することがなかったひとだから(それにしては「上司は思いつきでものをいう」のような本を書けるのが不思議であるが)、一人出版社主で小なりといえども企業経営を経験した山本氏とは違うということなのであろう。
 家制度は崩れ、現在夫婦間にあるのは建物としての家だけである。しかし、233ページに『「企業」「会社」という、「赤の他人同士の集合体」』とあるが、上述のように日本の「企業」や「会社」という集合体は、今までのところは、それが赤の他人同士の集合体であるかぎりはうまく機能しなくて、疑似=家となり共同体化して、はじめて機能してきたという歴史を持つ。
 橋本氏は現在のアメリカ、ロシア、中国、北朝鮮での独裁的権力者の出現を「力を備えた一人の指導者」というかつての「家」に由来する幻想からわれわれがまだ自由になっていないためとしている。最終ページのひとつ前の234ページから始まる最後のセンテンスは「いきなり大胆にもこの全部をまとめてしまうと」という文からはじまる。性急でせわしない感じである。本当はもっと詳細な議論をしたいのだが、自分にはもはや時間がないということを感じていたのだろうか?
 E・トッドは『外婚制共同体家族(ロシア、中国型)』の形態をとる地域の分布が共産圏の分布にほぼ一致することを発見することで自分の説に自信をもったということである。ロシアや中国の現在というのは確かにトッドの説を裏付けているように思える。鹿島氏の本によれば、E・トッドはトランプ政権の出現をも予言していたのだそうで、それはアメリカの白人中年の死亡率上昇にみられる『グローバリゼーション疲れ』による当然の結果としているとのことである。鹿島氏はそれに加えて、アングロサクソンの家族類型の特徴である教育に熱心でないことも関連しているのではないかとしている。
 橋本氏は近世に親和性を持つ江戸を肌で理解できる特異な感性をもった稀有なひとだったのだと思う。その感性から日本の近代の歪みというのを理屈でなく身体で感じとることができる特殊な能力を持っていた。そしてその歪んだ日本の近代に対照するものとして掲げられていたのはやはりヨーロッパ18世紀の啓蒙思想に由来する人間像、つまり『平等主義核家族(フランス・スペイン型)』であったように思う。
 橋本氏が指摘する日本の近代の歪みというのは概ね首肯できるものであるとしても、ヨーロッパ18世紀の啓蒙思想が提示した人間像がこれからも長く命脈を保ちうるものであるのか否か、その辺りのことについて、もっと橋本氏の見解をきいてみたかったという気がする。
 

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

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