本棚の整理 (1)吉田健一 補遺

 今日、丸の内の丸善で本棚を見ていたら、未見の吉田健一関連の本を二冊みつけた。川本直氏ら編の「吉田健一ふたたび」という本と、青土社刊の吉田健一「時間」である。
 「吉田健一ふたたび」は、その「はじめに」で、吉田健一の生前に健一と交流があった篠田一士清水徹高橋英夫、長谷川郁夫、角地幸男らの世代を第一世代、リアルタイムで吉田健一を愛読した池澤夏樹柳瀬尚紀四方田犬彦丹生谷貴志松浦寿輝らを第二世代とすれば、物心つく以前に吉田健一が亡くなっていたり、氏の存命中にはまだ生まれていなかった世代である第三世代のよる吉田健一論であることが宣言されている。事実ここに執筆しているひとたちはわたくしがまったく知ることのない名前ばありである(ある会に長老として参加したという富士川義之氏をのぞく)。わたくしはこの分類では第二世代ということになるのだろうか?
 まだ拾い読みをしただけであるが、ざっと見たところでは第二世代が示したような新しい健一観は提示されていないように感じた。Ken'ichi Yoshida Revisited と副題がある。健一訳「ブライズヘッドふたたび」のもじりなのであろう。健一ファンにとっては、この翻訳はほとんど吉田健一著という感じなのである。
 「時間」は、新潮社刊の単行本と講談社刊の文庫本がすでにあるので、なぜこれが刊行されたのかはよくわからないが(2012年11月と大分前の刊行であるが、しらなかった)、肝はおそらく松浦寿輝氏の解説が付されていることである。(単行本は既に入手困難で、文庫本は新字新仮名ということがあるのかもしれないが。)
 松浦氏の解説の終わりのほうに、「能天気なエピキュリズムの楽天性ほど吉田健一の世界から遠いものはない」とある。「能天気なエピキュリズムの楽天性」というのは、「吉田健一ふたたび」がいう第一世代。特に篠田一士氏などの健一観を指すのではないかと思う。
 わたくしが気になるのは、丸谷才一氏や池澤夏樹氏の健一論はどこに位置するのだろうかということである。丸谷氏や池澤氏は日本の私小説的風土へのアンチとして吉田健一を持ちあげたのではないかと思うので、どちらかといえば第一世代に近い吉田健一観をもっていたのではないかという気もする。
 「時間」の最後のほうに「変化」も刊行されていることが告示されている(やはり解説は松浦寿輝氏)が、これは今日は書店にはみあたらなかった。
 

吉田健一ふたたび

吉田健一ふたたび