小熊英二「日本社会のしくみ」(2)第一章日本社会の「三つの生き方」

 第1章 日本社会の「三つの生き方」
 最初に「不安な個人、立ちすくむ国家」という2017年に「経産省若手プロジェクト」が作成した文書が紹介されている。随分と評判になったものらしいが、わたくしは知らなかった。これを知っただけでも、本書を読んだ意味があったかなと思う。
 最近、厚生労働省改革若手チームによる「厚生労働省業務・組織改善のための緊急提言」という90ページほどの文章も発表された。「働き方改革」を主導する立場である厚生労働省であるが、その労働環境がいか劣悪であるかを指摘し、様々な改革を提言している。
 こういう若手官僚が様々な声をあげるようになってきているというのも、日本が直面している状況への危機感の表れなのであろう。
 「不安な個人、立ちすくむ国家」では、「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方をした男性は、1950年代生まれで34%であったものが、1980年代生まれでは27%になると予想されることが紹介され、小熊氏は「昭和の時代」でもそういう生きかたは34%に過ぎなかったのだということを指摘している。「経産省若手プロジェクト」のメンバーにもこれは意外だったらしく、もっと高い数字になるだろうと思っていたので「自分たちは分かってなかったんだ」とショックを受けたのだという。
 ではその34%以外のひとはどういう生き方をしているのか? 小熊氏は現代日本の生きかたを、「大企業型」「地元型」「残余型」の3類型にわけて考えることを提言している。
 「大企業型」とは「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方をした人とその家族である。「地元型」とは「地元から離れない生き方」で、ある地方の中高をでて地元の自営業、地方公務員、建設業、地場産業、農業などに従事するものをいう。(小熊氏はあくまでこの分類は理念型であり、現状分析のための補助線であるとしている。)
 地元型:収入は「大企業型」より少ないが、親から受け継いだ家に住み、地域の人間関係にめぐまれ、近隣からの(農作物などの)おすそ分けがあるため支出は少なく、定年がなくずっと働くひとが多い、という類型と小熊氏はする。地元型は上記のように経済力では「大企業型」に劣るが、地域に立脚しているので政治力は持つのだという。
 「大企業型」は定年後の生活に問題があり、地域に地盤がないために育児などに問題が生じがちである。
 よく日本の住宅は狭いといわれるが、それは大都市の住宅、特に賃貸住宅の場合である。従来、日本を論じるときに「大企業型」が前提に議論されることが多かった。それは論じるひとの多くが「大企業型」の生き方をしていたからである。
社会保障制度を考えてみる。日本人は「企業」か「地域」かに所属しているという前提でその制度はできている。厚生年金は「企業」に勤める人を前提にしている。「国民年金」は「地元型」を想定している。
 バブルの余波が残っていた1993年でさえ、年金だけで暮らせるひとは1/3だった。
 「残余型」とは、長期雇用もされていないが、地元にも基盤を持たないものである。「大企業型」と「地元型」のマイナス面を集めたような存在である。
 「残余型」は政治的な声をあげにくい。(地元を持たない「大企業型」のひとであっても、労働組合を通して政治的要求を主張することはできる。)
 日本はこれから「残余型」が増えていくと思われる。それは、今までの日本の制度設計が困難に直面していくということである。
 定住という観点からみた「地元型」は31%~36%くらいである。
 一方、「大企業型」は26~30%くらい。
 日本では20~30%の「大企業型」とそれ以外の格差が開いている。
 非正規雇用が増えているといわれるが、正規雇用の比率はそれほど減ってはいない。しかし非正規雇用は増えている。それは自営業種や家族従業員の数が減っているため雇用労働者数が増えているからである。(自営商店や自営食堂が減って、スーパーや飲食チェーン店が増えている。)
90年代から2000年初頭にかけての「就職氷河期」に遭遇した「団塊ジュニア」は非正規雇用の増大の象徴とされている。その背景には、この時期に高卒が減って大卒が増えているということがある。その大卒者の急増に対して大卒労働市場は一定であったので、結果として大卒就職率が下がったのである。
 1985年ごろに問題とされていたのは、正規雇用者が減るであろうことよりも、団塊の世代では役職者昇進の機会が減るということであった。
 日本ではまず高校進学率が伸び、その後で大学進学率が伸びたということがあるが、それにもかかわらず、最近になっても大学院進学率は伸びていない。それは大学院進学率の増加という現代世界の動向に反しており、そのため日本は世界からみると低学歴の国になってきている。
 日本の就職で評価されるのは大学で何を学んだかではなく、大学入試を通過できたかどうかということにある点がその大きな原因となっている。日本では就職時、存在能力が問われるのであって大学で学んだ専門知識ではない。だから、語学力などは重視されない。とすれば、大学院進学の実績は就職には特に有利にははたらかない。
 なぜ日本では専門的な学問知識が重視されないのかは、次章でくわしく議論される。
 雇用労働者の増加分は、日本では自営業の減少から供給されているが、アメリカでは移民、イギリスでは人口の増加によっている。それは日本が英米よりも遅れて近代化したことの反映である。
 また1970~80年代にかけて、日本では小売店の数が非常に多かった(イギリスや西独の3倍、アメリカの2倍)。それは自民党政権が小規模小売店を一つの支持基盤としてきたことにもよる。しかし80年以降、日本の非農林自営業は減少してきている。この頃から自営業から非正規労働への移行がおきているが、それはまず女性からおきてきている。
 2000年以降、小企業の雇用者が減って大企業の雇用者が増えてきている。
日本の問題は「大企業型」でも「地方型」でもない「残余型」が増えてきていることである。「残余型」の増加は貧困の増加につながるからである。
 日本は「会社」と「村」を基盤に社会が形成されている。しかし、それは万国共通のことではない。日本がそうであるのは日本の大企業の雇用慣行によるところが大きい。大企業は広域から人を集めるし転勤も多いため、終身雇用と地域で暮らすことは両立しにくい。
 大企業と中小企業の労働市場は分断されているし、しかも大企業は中途採用者には封鎖されている。
 それでは、このような日本の労働慣行はどのようにして形成されてきたのか? 第一次世界大戦後の1920年ごろからとするものが多い。
 欧米では、企業の規模よりも、工員か事務職なのかといった職種のほうが収入の決定要因としては大きい。「大企業型」という類型が成り立つのは大企業の正社員であれば、どんな職種であっても収入が保証されるという構造がある場合においてのみである。
 ドーアは、1973年に、ある調査に基づいて、英国ではどんな仕事をしているかと尋ねると、「自分は鋳造工でありどこそこに住んでいて〇〇社で働いている」と答えるのが普通であるが、日本では「○○社の社員である。どこそこの工場で働いて、鋳造工をしている」と答えるのが通例であるとしている。イギリスでは自分のアイデンティティは鋳造工であることにあるが、日本ではどの会社で働いているかにあるのだ、と。
 このような違いがなぜ生じたかを、第2章以下で考察していくことになる。

 大分以前の本であるが山本七平氏の本のどこかで、銀座の老舗の菓子屋の息子が後をつがずに三菱(だったか)の社員になることを選んだ話がでてきて、日本では有名な菓子店の店主よりも有名企業の平社員のほうが世間的な評価が高いのだというようなことが書いてあったのを思い出す。
 山本氏自身は山本書店という一人出版社の店主であり、印刷や製本といった中小の業者とのかかわりの中で長く生きてきたひとなので、氏の労働観は多分にそういう自身の経歴に影響されていると思うが、鈴木正三などというひとを見つけてきて、江戸時代において農業に打ち込むことが仏行につながるとしたということの指摘などは、多分にウエーバーのプロテスタンティズムの精神が資本主義をつくったという説を意識したものであろうが、同時に日本においては会社をその筆頭とする機能集団はそれが共同体へと転化していかないかぎりはうまく機能していかないという 小室直樹氏が「危機の構造」などでいう論とも通じるものがあって、そもそも会社というのが利益の追求を第一にするものではなくて、成員それぞれに生きる意味をあたえる場であることを第一義とするのであり、そういう組織に転化しない限り会社というおはうまくまわっていかないという論などにも通じるものがあるように思う。
 あるいは内田樹さんが「村上春樹にご用心」でいう「雪かき仕事」、何かを作り出すという創造的な仕事ではなく、ただ現状を維持するだけの仕事であっても立派な仕事である、あるいはそれこそが実は肝要な仕事であるとするような見方、あるいは、中井久夫さんが「分裂病と人類」で二宮尊徳などを例としていう「執着気質」の問題(「天道非なり」という見方、われわれが手を入れてようやく自然というのは現状が維持されるのであって、何もしないでいたら自然は見る間に荒廃してしまうという見方(エントロピーの増大?)など、わたくしは様々な日本人論に親しんできて、もっぱらそういう視点から日本人の仕事を考えてきた。
 産業医という立場からいえば「執着気質」の問題、うつ病の背景としての「メランコリー親和型」の性格というのが、日本とドイツ以外ではそもそも医学界でも認知されていない概念である(笠原嘉「精神科医のノート」)という指摘になるほどと思ったものだが、その「メランコリー親和型」も、絶滅危惧種といわれるくらいにこの10年くらいの間にわれわれの周囲から姿を消してしまい、それにかわって「新型うつ」というのが一時騒がれたがそれもまたあまり見られなくなり、現在みられるのは「働く」ということ自体に適応を欠くのではないかと思われる人たちになってきている、そういう場で仕事をしている。
 現在われわれが直面しているのは、そもそも職場にそこが共同体であることを求めていない人たちである。共同体は職場といった実体からネット上といった仮想の空間へと移ってしまったらしい。
 「大企業型」と「地域型」の違いは、働くひとがどこに根を持つかという問題である。最近あまり使われなくなった言葉を使えばアイデンティティの問題である。大企業に勤めながら意識は「残余型」というような人が増えてくると、小熊氏の提唱する「大企業型」「地元型」「残余型」の分類の持つ力は薄れていくかもしれない。

 第2章以下では日本の雇用慣行と他の国の雇用慣行が比較検討される。本書の大きな主張は日本の労働慣行が明治期の官庁制度に根があり、それが軍隊の階級制度と共鳴して「大企業型」の労働慣行を生んだとするものである(第4章)。軍隊組織も広義の官僚組織・官庁組織であるとすれば、日本のマインドはいまだに官優位ということなのかもしれない。それについては第2章以下をみながら考えていきたい。

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

精神科医のノート

精神科医のノート