固定ド 移動ド

 片山杜秀さんの「革命と戦争のクラシック音楽史」を読んでいたら、ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」を論じている部分で以下のような記述があった。「とりあえず、第一楽章冒頭の一小節目を見てみましょう。出だしから強烈かつ単純の極みです。ハ短調の主和音を鳴らすのです。ハ短調のド・ミ・ソ、それつまりドとミのフラットとソということです。短三和音です。」
 これがたとえば二短調の曲だったらどうだろうか? 「ニ短調の主和音を鳴らすのです。ニ短調のド・ミ・ソ、それつまりドとミのフラットとソということです。短三和音です。」となるだろうか? 二長調のド・ミ・ソはDF#Aである。その短調の主和音はド・ミのフラット・ソで、D・F・A。
 わたくしは昔から、ハ短調ハ長調ともっとも近親な調で変ホ長調の平行短調であることは、それに比べればずっと遠いという感じを捨てきれないできた。しかしイ短調ハ長調の平行短調であってイ長調の同名短調であることはずっと遠いという感じもまた抱いてきた。
 ピアノの鍵盤はハ長調帝国主義を表している。ピアノであれば、ハ長調の曲は原則黒鍵を必要としない。わたくしの上記の感覚はそのハ長調帝国主義に毒されているということなのだろうと思う。
 横文字表記ではハ短調は、Cmoll あるいはCminorである。このCが固定ド法のドに対応する。つまりこれは絶対表記である。移動ドのドはその曲が何調であるかでどの音かが変わるから相対表記である。
 片山氏の表記の「ハ短調のド・ミ・ソ」という部分のドが固定ドのド、つまりCをあらわすとすると、「ハ短調のド・ミ・ソ」という表記は微妙に変である。「ハ短調の主和音であるド・ミ♭・ソ」とすれば固定ドでの表記として問題ない。
 しかし片山氏の中では、ハ短調ハ長調の同名短調という意識が強く、長調短調の違いは第3音の音高の違いという感覚がきわめて強いとすれば、この本での表記が一番自然ということになるのであろう。
 短調の場合、サブ・ドミナンテが(わたくしの感覚では)ド・ファ・ラのフラットとなり、ドミナンテは長調と同じでソ・シ・レ。それを並べると、ド・レ・ミのフラット・ファ・ソ・ラのフラット・シ・ドというきわめてぎこちない音列となり、実際には上行がド・レ・ミのフラット・ファ・ソ・ラ・シ・ド、下降がド・シのフラット・ラのフラット・ソ・ファ・ミのフラット・レ・ドが自然で、前者を和声的短音階、後者を旋律的短音階と読んだりしているのだと思う。しかし音楽的に重要なのは、主和音と属和音で、実際には属和音はドミナンテであり、もっとも大事な和音なのかもしれないわけで、それは長調でも短調でも同じの和音なのだから、長調短調との違いは第3音の半音の差ということに帰着するとするのだとすると、片山氏の書き方は合理的ということになる。しかし、たまたま片山氏の選んだ曲がハを主音とする曲であったので、それが固定ドでも移動ドでもどちらで構わないことになり、ここでの表記が片山氏のどのような感覚を表しているのかがわかりにくい。
 片山氏は「ハ短調のドレミレ」とかいて「実音ではミのフラット」と書いているので、根音をドと呼ぶという意識で書いているのであろうと思う。
 わたくしも短調長調のミが半音下がったものという感覚を捨てられないでいるので、片山氏の表記に何かわたくしの感覚に近いものを感じて、面白く感じた。しかし、それならば、イ短調イ長調の同名短調と感じるかといえば、それよりもハ長調の平行短調という感じが強いことはうまく説明できない。ピアノの鍵盤の構成にみられるハ長調帝国主義にもまた大いに毒されているのであろう。

革命と戦争のクラシック音楽史 (NHK出版新書)

革命と戦争のクラシック音楽史 (NHK出版新書)