本日の朝日新聞朝刊の記事

 今朝の朝日新聞朝刊の「日曜に想う」という欄に編集委員の大野博人という方が「壁崩壊30年 マルクス未完の問い」という記事を書いている。そこでは、ベルリンにありマルクス・エンゲルス全集(MEGA)を刊行中の財団が紹介されている。このMEGAは1970年代のソ連東ドイツを拠点に刊行が始まったのだそうであるが、「30年前のベルリンの壁開放とその後の共産主義独裁体制の崩壊」で事情が一変し、マルクス主義は「体制イデオロギーとして批判・憎悪・冷笑の的」となったため、一時、刊行継続が危ぶまれる事態となったが、国際的な研究者の協力により何とか続けていくことができることになったのだという。その再出発時の方針は脱イデオロギーであり、カントやニーチェのような思想家の一人としてマルクスも扱おうというものであった、と。そして、近年のグローバル化によって生じた不平等への不満や将来への不安への対応を考えるとき、再びマスクスが参照される頻度が増えてきているのだという。
 現実の政治世界では従来の左翼政党は各国で衰退し、ポピュリスト政党が台頭してきている。このMEGAが完成するのはもう10年くらい先であるらしい。「完結するころ、問いに答えは見つかっているだろうか。政治は教条主義を遠ざけることができているだろうか」という文章でこの記事は結ばれる。
 
 この記事を取り上げたのは最近ここにわたくしもベルリンの壁崩壊について短い記事を書いたからで、そこに書いた壁崩壊後のマスクスの思想への多くの人の反応への違和感のようなものをこの記事にも感じたからである。
マルクスがカントともニーチェとも違うのは、この地上にマルクスの考えを根底において建設されたことを標榜する国家が現実に建国されてそれが1922年から1991年まで実に70年もの間存続したということである。
そうであるなら、一番の問題はある考え方が現実の国家運営に適応された場合にいかなる問題がおきるかということであって、マルクスという人間が実際にどう考えていたかということではない。「30年前のベルリンの壁開放とその後の共産主義独裁体制の崩壊」で事情が一変してマルクス主義は「体制イデオロギーとして批判・憎悪・冷笑の的」となったとあるが、その批判・憎悪・冷笑が正しかったと考えるか否かである。
そこのところがこの記事では完全にスルーされてしまっている。現在の状況を決して是認しない、として現状を批判していく、その現状批判の見方として現在でもマスクスの思想は決して色褪せていないということがおそらく大野氏は言いたいことなのであろう。
しかしマルクスが画期的であったのは、それまでの哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。として、肝心なのは、それを変革することである、とした点にあったはずである。
大野氏の言っていることは解釈である。しかし、社会は変革されなければならないのか? もっといえばその手段として、プロレタリアートが独裁する国家が作られなければならないのか? あるいはソ連70年の歴史にみられた様々な悲惨や誤謬を顧みて、そのようなプロレタリアート独裁国家は決して構想されてはならないのか? そのような構想への動きは体を張ってでも阻止しなくてはならないのか?という、わたくしからみれば一番肝要であるように思える点に、大野氏はあえて目を向けないようにしているように思われる。
 マルクスの議論が未完だったとか、リーマン・ショック後、さまざまな思想家が将来社会ビジョンを語るときにマルクスを参照することが増えているなどというのは枝葉末節のことであると思う。
 このMEGAは既刊67巻で、最終的には110巻ほどになり、完成まで後10年以上かかるのだそうである。そのような書作集を作ることを企図すること自体が一種のマルクスの神格化であると思う。
 われわれはある時期、ある思想に依拠して国家を構築するという壮大な実験をおこなったわけである。その実験の帰結を詳細に検討することのほうが、マルクスが読んだ本への書き込みまで網羅する全集を作ることよりはるかに重要であると思うのだが。
 わたくしが中学生のころ、学校の図書館には何十巻もの「レーニン全集」とか「スターリン全集」があった。これも一種の神格化だったのだと思う。
 今、堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」を読んでいるのだが、昭和前期の暗い時代に出てくる名前はむしろマルクスではなくレーニンである。あの時代の若者に、ロシアにプロレタリアート独裁を標榜する国家が現実にできて実際に運営されているということがいかに大きなインパクトを持っていただろうかということを感じる。
 それに比べると、この朝日新聞の記事はいかにも軽い。