岩田健太郎「新型コロナウイルスの真実」(6)

 第5章「どんな感染症にも向き合える心構えとは」
 
 この章には、よく理解できないところが多かった。
 「感染症と向き合う上でまず大切になるのは、『安心を求めない』ということです」という主張からはじまる。「安全」というものは現実に存在する、しかし「安心」というのは願望・欲望にすぎないので実在しないものであるという。しかし、こういう議論は「実在」するとはどういうことかという不毛な議論にすぐに陥ってしまうと思う。
 ここで氏は、欧米圏には、そもそも安心という言葉がない、といって強いていえば「peaceful state of maid」であろうかというようなことをいう。しかし、聖書を繙いてみれば、いたるところに安心という言葉は出てくるはずである。これは日本語訳の聖書だからそうなっているというのではなくて、日本語訳がそうなっている以上、それに対応するものがあまねく人間の世界に存在するということである。そして、これは人間だけでなく広く動物の世界にも、またみられるものであると思う。
 岩田氏は「安心したい」というひとには麻薬をうてばいいというようなかなり乱暴なことをいう。この議論を極端にすすめれば、不安をなくすには死んでしまえばいいということになる。生きているからこそ不安もあるのである。岩田氏は安心をもとめるこころは現実を直視しなくなるということをいいたいようである。たとえば、マスクをすることには意味はないが、マスクをしていると多くのひとは安心するらしい。
 不安に思うべきところでは、不安なままでいい。不安に耐えるために大事なのは勇気である、と岩田氏はいう。勇気とは事実を直視できること、そこから逃げないことである、とも氏はいう。しかし、安心という言葉が存在しないのであれば、また勇気という言葉も存在しないことにならないだろうか? もちろん勇気に相当する言葉は世界にあまねく存在する。だから安心とは違って、勇気というのは普遍的なものであるということになるのかもしれないが、勇気も容易に蛮勇に転化する。
 わたくしは生き物に課せられている唯一最大の課題は生き延びるというであると思っている。だから、あらゆる動物は予期せぬ物音を耳にすると身構える。そしてそれが危険を示すものではないことがわかれば、緊張を解く。その緊張を解いた武装解除している状態が安心ということなのだと思う。
 今のわれわれはいつも一種の準武装状態にいるのだと思う(マスクで武装している?)。つまり今のわれわれは平時にはいないのである。「平和とは何か。それは自分の村から隣の村に行く道の脇に大木が生えていて、それを通りすがりに眺めるのを邪魔するものがないことである。或は、去年に比べて今年の柿の方が出来がいいのが話題になることである。」というのは、吉田健一氏の随筆集「文句の言いどおし」の一節であるが、ここでいう平和とは安心という言葉ともどうかで通じるものである。
 次に氏がいうのは「ぶれる」ことを許容すること、そして間違いに寛容であること。である。そして間違いに気づいたらすぐに前言を訂正すること。しかし、不寛容には寛容にならないことといったかなり抽象的な議論である。
 そして、一番大事なのは「知識」を尊重することである、と。

 ここで論が終わるのだが、これが「どんな感染症にも向き合える心構え」とどのように関係するのかがうまく理解できなかった。
 ここでいわれていることの多くは啓蒙主義についてのラフ・スケッチであるように思えるが、あまりに議論が抽象的で、それが具体的に感染症に向き合うこととどのように関係するかが理解できなかった。
 そもそも医療というものがなぜ存在するのかといえば、人間が唯一自分の死というものを意識する動物であるからである。獣医学というのも動物のためのものではなく、食糧増産などのためなどもふくめ、本来人間のためのものである。
 つまり、本来、生き延びるということが課題としてあたえられている動物の一員である人間は唯一未来の自分の死を知る動物であることから必然的に生じる不安をまず抱えている。医学はそれを解消するためにあとからでてくる。としたら医学から不安という要素を取り除くことは原理的に不可能なのではないかと思う。とすれば、安心もまた然りである。
 われわれは蝙蝠にどのような病気が流行っていようがまったく関心をもたない。そこに存在していた病原体が人間にも害をもたらすようになって時にはじめて、それがわれわれの関心の対象となる。
 いまわれわれは風邪という病気にはあまり大きな関心をもたない。インフルエンザだってそうである。今回、新型コロナウイルスが問題になっているは、少なからずそれが命にかかわることが報告されているからである。
 おそらく岩田氏は人間付き合いがあまり得意ではないかたで。腹の探り合いとか足の引っ張り合いといった人間世界のあさましいありさまにほとほと嫌気がさしてきているのであろうと思う。それで、科学という事実に基づく清澄な世界にあこがれるのであろうと思う。しかし、科学のなかでもとりわけ医学は人間のどろどろした部分を否応なしにひきうけざるをえない分野であるので、岩田氏の願いが叶えられる日がくるとは到底思えない。本書が巻末にむかうにつれどこか投げやりで、尻切れトンボになっていく印象が強いのはそのためではないかと思う。
 「どんな感染症にも向き合える心構え」などというのは、ほとんど煩悩の世界を解脱することにより得られた安心立命の境地ともいうべき世界である。
 聖書におけるイエスはほとんど癒すひとでもあるが、今、新型コロナウイルス感染症の世界中での流行について、ローマ教皇がこの疾患が世界から消え去ることを祈ることで、この病気が世界からなくなることを信じるひとはもはやいない。聖職者も病気になれば病院にいく。そして医療にできることは限られていて、そこには魔法は存在しない。
 だからこそ、S・キングが「IT」の巻頭でいうように、「子供たちよ、小説とは虚構のなかにある真実のことで、この小説の真実とは、いたって単純だ――魔法は存在する」(小尾芙佐訳)ということになるのだから、われわれはこれからもあいかわらず物語を読み続けることになうのではないかと思う(もはや小説は読まなくなるのかもしれないが・・)。
 われわれはかつて抗生物質の発見によって、魔法の弾丸を手に入れたと無邪気に信じることができた時代をもつ。しかし、いうまでもなく、抗生物質はウイルスには無効である。そして魔法の弾丸のかわりに「三密を避ける」などというなんとも原始的な対応を21世紀の今日に強制されることになって、われわれはただ面食らっているのである。

新型コロナウイルスの真実

新型コロナウイルスの真実

IT(1) (文春文庫)

IT(1) (文春文庫)