読んできた本(5)福田恆存

 福田氏の本を読むようになったのは、前に書いた通り吉本隆明が薦めていたからであるが、最初に読んだのは当時新潮社から刊行されていた「福田恆存評論集」の1と2におさめられていた「芸術とは何か」と「人間・この劇的なるもの」で、特に後者に驚いたように記憶している。
 評論集1は昭和41年11月刊行となっており、2も同じ日付となっている。「人間・・・」は昭和30年に発表されたものらしいから、わたくしが八歳のときである。一方、評論集の刊行が昭和41年だから、東大に入学した年の秋である。
 「人間・この劇的なるもの」はサルトルの「嘔吐」からの引用で始まる。そこで主人公の女友達が語る「特権的状態」という言葉をめぐって論が進む。
 そこで語られているのは、「私たちは私たちの生活のあるじたりえない」ということなのだが、一方「私たちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」ということもいわれる。自由というのは人間を幸福にするものではなく、日常性も同様である。「演戯によつて、ひとは日常性を拒絶する」のであり、「自由の原理は私たちに快楽をもたらすかもしれぬが、けつして幸福をもたらさぬ」とされる。
 それまで読んできた小説の世界とはあまりに異なる言説であり、ただただ驚いた。要するに「個人」のつまらない日常の話ばかり読んできたところに、いきなり「全体」をつきつけられてびっくりしたのであろうと思う。
 しかし、昭和41年本評論集が刊行されたころの福田氏は第六巻に収められた「平和論に対する疑問」(昭和30年刊)のほうで時の人であったのではないかと思う。
 この「平和論に対する疑問」で洞爺丸転覆事件について論じている部分が未だに忘れられない。(まだ本州と北海道がつながっておらず、青函連絡船という船で青森から函館をつないでいた時に、台風で洞爺丸という連絡船が沈没した事件であるが。これに材をとったのが水上勉氏の「飢餓海峡」である)
 氏はいう。「もつとも笑止だつたのは、この間の洞爺丸転覆事故のときです。私たちは次の日の朝刊ではじめて事件を知りました。だが、驚いたのは、その最初の事件の報道と同時に、著名な「文化人」数名の転覆事故についての意見が掲載されてゐたことです。・・・かれらは「堂々たる卓見」を吐いてゐました。あるひとのごときは、海の事故は、船長の指揮さへよろしきを得、救命具をつけてゐさえすれば、・・かならず助かるものだなどという珍無類の意見を述べてゐる。・・・だが、「運がなかたった」といったひとはひとりもありませでした。・・・それにしても、かれらは、「自分にはよくわからない」とか「その問題には興味がない」とか「いままで考へたこともないから、にはかに答へられない」とか、さういつた返事をなぜしないのでせう。」
 もう文化人という言葉はとっくに死語になっていると思うが、今ならテレビのコメンテーターであろうか?
 あらゆることに解決策があるはずだという考えが日本の「(世界の?)共通の了解事項になってきているのかもしれない。
 これは養老孟司さんがいう「都市主義」の問題である。「ああすればこうなる」で、あらゆるものが操作可能であるという考えが今ではいきわたってきていて、なんだか人間が一生物ではなく神様に近い特別な存在になってきているようである。

 それに対して福田氏が提示したのが、一種の「天」というようなつかまえどころがない人間をこえる何かであったように思う。
 晩年の氏はエリオットの詩劇「カクテル・パーティ」や「長老政治家」のような世界をめざしていたのではないかと思う。
 しかし、氏が晩年主宰していた劇団「雲」や「欅」がその目的に叶うものだったのかどうかというと、それがよくわからない。
 わたくしは氏が書きかつ演出した芝居を一回だけ見たことがある。「億万長者夫人」で三百人劇場で見たのだと記憶する。単行本は昭和43年刊だから、おそらく本郷に進学した頃である。
 冒頭、A「お客です。」 B「お客様と言ふんだ。「です」ぢやない。「ございます」-「お客様でございます」-さもなければ「お客様がいらつしやいました。」 A「お客様でいらつしやいました。」 B「畜生。それでも大学生か?」・・・
 どう考えても、ここは客席から笑い声がきこえなければおかしいとところでる。しかし、客席からはせきとして声がない。何の反応もない。ようするに演じる俳優同士のセリフの受け渡しの間が悪く、会話がはずまないのである。
言っては悪いが学芸会とまでいわないとしても、ゼニがとれる以前の段階なのである。いくら福田氏が理想を語っても現実がこうだとなあ、と思った。なんだか氏がとても気の毒な感じがした。わたくしは観なかったが、「解つてたまるか!」はプロ?が演じたので、観ればもっと楽しめたかも知れないと思う。

 「蛸と芝居は血を荒す」というのが誰の言葉か忘れたが、芝居の世界というのはなかなか大変な世界のようである。(わたくしとしては、氏の戯曲としては「キティ颱風」などの初期のもののほうが面白いと思う。)

 「解つてたまるか!」などのような今では死語である「進歩的文化人」をからかう作品や評論において福田氏の筆はもっとも冴えていたのかもしれない。とはいっても、否定という作業は所詮虚しいものである。もっと肯定的な方面では、氏は初期の「芸術とは何か」「人間・この劇的なるもの」を越えるものをついに残せなかったような気がする。

 今となっては、もう記憶がはっきりしないところがあるが、氏の本を集中して読んだのは教養学部の2年のころであったと思う。そして本郷に進んで暫くして東大闘争(紛争)がはじまるわけであるが、当時の学生運動というのは、マウンティング合戦のようなところが大きかったので、そういうものの虚しさを説いていた福田氏の本をその前に読んでいたことは、このころの自分の周囲の様々なことに対峙するのに随分と支えになったように思う。