デモクラシー
わたくしは全くの政治音痴なので以下書くことはまったくの見当はずれかも知れないが、デモクラシーという形態が、今、崩壊し始めているように思う。
デモクラシーの前提はわれわれには何が正しいかはわからない、ということだと思う。何が正しいかわからないから、とりあえずその時の多数が支持する見解を暫定的な指針として社会を運営していこう、それがデモクラシーというものだと思う。
しかしもちろんそれに反する見解もあるわけで、優れた個人には真理がわかるとする。
例えば科学の分野では99.999・・・%の人には嘘としか思えないことが“真”であるとされる。相対性理論などはある時期には世界で3人しか理解できないと言われていたこともあるらしい。
量子力学などもそうで、なぜそのようになるのかはわからないがそのような説明をすると世界でおきている事象をうまく説明できるのだとフィンマンさんが言っていた。
そもそも数学というのが人間の頭の中にのみ存在するものなのか、それとも人間などが生まれる前から宇宙に遍在していたものなのかもわたくしにはわからない。
ある時期、科学というものに過大な期待が寄せられていた時期があって、それで科学的社会主義などという言葉も生まれた。優れた人間には世界がどのように発展してきて、これからどうなっていくかを知ることができるという見方が出て来たわけである。
そのような見方の代表者の一人がカール・マルクスで、一人の人間が世界に大きな惨劇をもたらした人の筆頭に挙げてもいいひとではないかと思う。
さていきなり話が飛ぶ。
学校群制度ができる前後の日比谷高校の生徒”薫くん“を主人公にした庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説がある。
東大紛争を時代背景としているのだから(1969年刊)、半世紀以上前の本で、学校群とかその当時は都立日比谷高校が東大入学者のトップだったということはほとんどの方にはなんのことやらであるかもしれない。
ここで言いたいのは、当時の日比谷高校が受験競争のトップ高であるのに、学内ではオーケストラ活動が盛んで、文芸誌の発刊も多数で、受験勉強なんて誰がしているのという顔を生徒がみなしているという、まことに“いやったらしい学校だったということである。
「ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、それを続けるにはそれこそ全員が意地を張って見栄を張って無理して大騒ぎしなければならないけれど、壊すだんになればそれこそ刃物はいらない。・・・芸術にしても民主政治にしても・・・およそこういった知的フィクションは・・・実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない。・・・」
今、世界では、「もうお芝居はやめよう。力こそ正義だ!」という動きが前面にでてきて、デモクラシーという「キザでいやったらしい大芝居」が崩壊しようとしているのではないかと感じる。
もう50年前に書かれたこの本はもう一度読みかえされてもいいのかも知れない。
「赤頭巾ちゃん・・」をふくむ薫くん4部作は、大学での政治学のテキストとして使われることもあると聞く。