壁と卵
文学の世界ではかなり権威のある賞であるらしいエルサレム賞というのがあり、2009年には村上春樹が受賞している。村上氏はそれでエルサレムに出かけ、受賞演説をした。しかし、ここではひと悶着があった。というのは、そのころイスラエルからのガザ地区への爆撃が行われており、そういう時期にエルサレムに赴くということは、イスラエルの行為を肯定することになるという意見が広範にあったからである。
しかし、ともかくも。村上氏はイスラエルにいって。受賞スピーチをした。
ここで取り上げたいのは、そのスピーチで村上氏が述べている、氏が小説を書く時に心に刻んでいるというモットーについてである。
「高く堅牢な壁と、そこにぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私は常に卵の側に立とう」
「爆撃機や戦車、ロケット弾、そして白リン弾は、高い壁です。卵は、押しつぶされ、熱に焼かれ、銃で撃たれた非武装の一般市民たちです。これがこの比喩の一つの意味であり、真実です。」
村上氏受賞の大分前の1985年、チェコの作家クンデラも同じエルサレム賞を受賞し、受賞講演を残している。
そこでクンデラは「アジェラスト」という言葉を紹介している。ギリシャ語由の言葉だそうで「笑わぬ者、ユーモアのセンスのない者」を指すのだという。
クンデラはいう。「最近、十八世紀を悪しざまにいう習慣が定着してしまいました。そして、ロシアの全体主義の不幸は、ヨーロッパの、それも特に「啓蒙」の世紀の無神論的合理主義の、その理性万能の信仰であるというあの決まり文句がいわれるようにさえなりました。」 しかし十八世紀はルソーやヴォルテールの時代であるとともに、フィールディングやスターンやゲーテやラクロの時代でもあったのだと。
クンデラはさらに続ける。
「われわれがヨーロッパに抱く夢「個人が尊重される世界」がはかなくもろいものであることはみな知っている。がそれでも「個人の尊重、その私的生活の権利というヨーロッパ精神の貴重な本質は小説の歴史の中に預けてられている」そう言って、氏は講演を終える。
このクンデラの講演と村上の演説はほとんど同じことを言っていると思う。「壁」=「アジェラスト」、「卵」=「個人」。
またクンデラは「セルバンテスの不評を買った遺産」という別の文で、小説=不確実性の知恵、とぃっている。また、《「個人のかけがえのない唯一性」という、大いなる幻想》ということも言っている。
小説というのは小人の説であり、ギリシャの神々のような英雄譚と対立するものである。
1800年前後からの約250年前後、われわれは啓蒙の時代を生きてきた。
昨今、ロシアの「笑う」ことのあまりないようにみえる大統領がヨーロッパ啓蒙への嫌悪を露わにして行動を始めている。その帰結はまだわからないけれども、啓蒙の時代への信仰が絶対的なものではなくなりつつある時代に、われわれはいま遭遇しているのかも知れない。
9・11もまたイスラム世界の、啓蒙の時代への嫌悪を表わしていたように、わたくしには思える。
イスラム世界の根にあるものの一つは男性の女性への恐れであるのではないかと思う。だからこそ男は髭をはやし、女はヒジャーブで頭を覆う。
一方、その当時(そして今でも)西欧世界では女性がほとんど裸同然の格好で平気で街を闊歩している。イスラムの教えの側から見れば頽廃の極致であり、ソドムの街はもはや焼き払わねばならない、ということになるのかも知れない。
西欧世界は卵が壁に勝てることもあるかもしれないという神話のなかでこの何世紀かを生きて来た。村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」に収められた「かえるくん、東京を救う」はその寓話だろう。
庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」のなかで薫くんはこういう。「ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、それを続けるにはそれこそ全員が意地をはって見栄を張って無理して大騒ぎしなければいけないけれど、壊すだんになればそれこそ刃物はいらない・・・・」
ソ連が崩壊した後、フクヤマの「歴史の終わり」のような、今後の世界は西欧の価値観が支配するようになるだろうが、それはニーチェのいう「末人」の世界、凡庸で退屈な世界であろうという方向と、ハンチントンの「文明の衝突」のような、今後の西欧文明はイスラム圏のような異質の文明との衝突を迎えるようになるだろうという二つの方向が示されたように思う。
しかし、西欧が自身で反啓蒙の方向に先祖返りしていくという方向はあまり想定はされていなかったように思う。
わたくしは戦後すぐに生まれた古い人間なので、ロシアというとまずドストエフスキー、あるいはその「カラマーゾフの兄弟」をおもい出してしまう。あるいはトルストイの「戦争と平和」。
竹内靖男氏はその「世界名作の経済倫理学」で、「カラマーゾフ」特にその「大審問官」の章を論じて、「共産主義はローマ・カトリックの世俗版である。前者は人間を羊に変えて救済し、後者はパンで救済しようとする」といっている。
ロシアの現大統領は、国民がたとえ飢えようともロシア正教に帰依することができれば、もっと言えばロシアの大地との結びつきを回復さえできれば、それでよしとしているのではないかと思う。
一方、クンデラは「個人の尊重、その私的生活の権利の擁護」というヨーロッパ精神の貴重な本質を擁護するために小説を書く。
戦車対ミニスカート。もちろん、ミニスカートが戦車に勝てるわけはないが、「啓蒙」は敢えてそれが可能であることもあるかも知れないという知的フィクションの下に、最近の200年以上を生きてきた。
「愛国心はならず者の最後の逃げ場(サミュエル・ジョンソン)」なのかも知れないが、それなら、今は、ならず者同士が争っていることになるのだろうか?
わたくしは1947年生まれで、戦後啓蒙の時代を生きてきた人間として、1991年のソ連崩壊を自分が生きてきた時代での最大の出来事と思ってきたが(私的な体験としては1968年前後の経験)、まさかこの年になってこのような時代に遭遇することになるとは思ってもいなかった。
文献:
「心をゆさぶる平和へのメッセージ なぜ、村上春樹はエルサレム賞を受賞したのか?」 2009年 ゴマブックス
ミラン・クンデラ「小説の精神」 1990年 法政大学出版局
村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」 2000年 新潮社
庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」 1969年 中央公論社
℉・フクヤマ「歴史の終わり」 1992年 三 笠書房
ハンチントン「文明の衝突」 1998年 集英社
竹内靖男「世界名作の経済倫理学」 1997年 PHP新書