S・ピンカー氏のウクライナでの戦争への見解
今回のウクライナでの戦争が始まってから、「21世紀の啓蒙」や「暴力の人類氏」を書いたS・ピンカー氏ならこの事態をどうみているのだろうかと思っていたところ、氏がこの事態への見方についての見解を書いていることをしった。(ボストン・グローブ」に寄稿した「ウクライナ侵攻で世界大戦後の『長い平和』は終わりを迎えるのか」)(「クーリエ・ジャパン」で紹介)
以下その稿について少し考えてみたい。
まず氏は「苦しみ以外には何も生まない戦争を、人間はなぜこうも繰り返すのか。世界大戦で多くの国が「戦争は悪」と認識したはずなのに、戦争が地上から消えたことはない。そして今、国際秩序を大きく揺るがす侵略をロシアは続けている。」と書き出す。
その後の氏の論の展開をみていくと、氏は「ウクライナは正当な国民国家ではなく、ロシア人の歴史、文化、精神と不可分一体」というプーチン大統領の主張こそ反=啓蒙の主張、としていることがわかる。問題はそのプーチン氏の主張がロシア国民に支持されているか、かりに支持されているとしたら、これは国のプロパガンダに洗脳されているのだ、ということになるのだろうか?ということである。
氏は続ける。「私は『暴力の人類史』の2文目で、さまざまな暴力が減少傾向にあるのは間違いないとはいえ、「今後も減少し続ける保証はない」と警告した。そして、その予言通り「ロシアがウクライナに侵攻し、その減少の軌道が残虐的に止められたのだ。」と。
「戦死者が少なくとも年間1000人に達する国家間の武力衝突」を戦争と定義すれば、今回のウクライナ侵攻は、ヨーロッパでは戦後80年以上が経過してはじめて起きた国家間戦争であり(1956年のソ連によるハンガリーの短期侵攻を除けば)、アフリカと中東以外では40年以上ぶりの戦争になる、と。
わたくしが気になるのは、「アフリカと中東以外では」というところで、今回の出来事が広い意味でのヨーロッパ圏でおきたからからこそ、大きな関心を呼ぶことになっているのだろうか?ということである。啓蒙思想の発祥の地でおきている「啓蒙思想」への反旗だからこそ、大きな関心を呼ぶということなのだろうか?
例えばイスラム圏は今の事態をどう見ているのだろう? もしも中国が近隣国に今のロシアと同じことをしかけたら、アジアはまだ遅れているね、しょうがないね、ということで済まされてしまうことはないだろうか?
氏は続ける。「ウクライナは正当な国民国家ではなく、ロシア人の歴史、文化、精神と不可分一体」というプーチン大統領の主張こそ反=啓蒙の主張なのである、と。
さらに「ロシアには民主主義がない。ロシアは「選挙独裁国家」であり、指導者が自国を愚かな戦争へと引きずり込むことを抑止するチェック・アンド・バランスの機能がない」ともピンカーはいう。
「現代では、横暴な統治者を「悪性自己愛者」と診断することも可能だろう。彼らは栄光への飽くなき渇望、エンパシー(共感)の欠如、少しの侮辱にも激昂する過剰な自意識の持ち主である。」と。
また「平和を促進する力の残るひとつは、啓蒙的人道主義だ。」という。また、「究極の善は個人の生命と自由と幸福にあり、政府はこれらの権利を約束する社会契約として設立されたとする理念」である、とも。
「だがプーチンは、「究極の善は民族国家の威信にある」というナショナル・ロマンティシズム(国民的ロマン主義)から頑として離れようとしない。彼のような独裁者らは、それを実現させるのが国家と強い指導者だと考える。そのため、なんとしても覇権を掌中に収め、歴史に刻まれた屈辱を修正することに血眼となる。」と。
「今回の戦争が「長い平和」を覆し、文明衝突の時代へ世界を逆行させるかどうかは誰にもわからない」ともいう。
「そのうち、平和的な抑止力が効果を発揮するだろう。ロシアはいまや世界経済の一部であり、予測を上回る速さで厳しい経済制裁の痛みを味わうはずだ。」と氏はいう。
だが「こうした国際社会からの締め出しで、事態は好転するのだろうか?」とも氏は自問する。「グローバリゼーションはいっときの流行にすぎない」とポピュリスト国家主義者たちがいくら喧伝しても、国と国が不可逆的に相互依存し合う現代の世界では、ひとり自分勝手な行動に出ればただちに制裁を加えられる。一国が抱える課題は地図上に引かれた国境線を尊重しないことがほとんどであり、対処するには国際的に問題を解決する共同社会の一員にならざるを得ない。だから、「人道主義革命の進展に伴い野蛮な慣習がすたれていく流れが逆行することもありそうにない」と。
また「独裁者がいくら服従と権威を押しつけようが、人間らしい幸福のさらにの追求には勝てない。そしていかなる国の指導者も、自らが思い描く歴史の誇大妄想に耽溺するために、市民を砲弾の餌食にする暴挙はますます許されなくなるだろう。」という。
さらに、この事態は一時的逆行だろうか?と自問し、「それを願おう。しかし、ただ願うだけでは何も変わらない。暴力を衰退に追いやった啓蒙のさまざまな力が必要となる。それはたとえば人間の生命を第一とする価値観や、国際協調をもたらす規範や機関で、私たちは今後も、それらを維持促進する努力を続けなければならない。」そういって氏は稿を終えている。
わたくしは、昨年末にすべての仕事から引いたので、ぼんやりとテレビを見る時間が増えたが、上でピンカーさんが言っていることは、そこで喧々諤々論じられていることとあまり変わりないように思う。(テレビで多くのひとが多くのことを語っているが、聞くにたるのは現場の人間、外交などの実務に携わっている人間の話だけで、学者さんの意見、象牙の塔のなかからの見解など、空理空論としか思えないものばかりである。そしてピンカーさんの見解もまた。
一番気になるのは、ヨーロッパの人間対プーチン個人という図式である。ロシアの国民が見えてこない。報道されているとことによれば、ロシア国民のプーチン大統領への支持率はとんでもなく高い。ロシア国民が官製の情報しか知らされていないからだという説明がなされているが、これは単純にプーチン大統領がロシア国民の生活水準をあげたからなのではないだろうか? だから各国からの制裁でまた国民の生活が苦しくなってくれば、ロシア国民もプーチン大統領への支持を続けなくなるだろうとされているようである。
しかし、自分達の生活をよくしてくれたわが大統領を西欧諸国が不当にいじめていると思うと「欲しがりません 勝つまでは」というようなことになることはないだろうか? そうだとすれば西欧側の武器は啓蒙思想ではなくマクドナルドになるではないかと思う。だが。マクドナルドは啓蒙思想の産物だろうか?
「究極の善は民族国家の威信にある」といプーチン氏のナショナル・ロマンティシズム(国民的ロマン主義)はどの程度ロシア国民にも共有されているのだろうか? また日本国民には?
私見によれば、これらを高めるのは貧しさであり、崩すのは豊かさである。個人がしたいことを出来るようになると、ナショナリズムは衰退していく。誰が言っていたか「西欧が求めているのは、ミニスカートを履く自由である。」 要するに「個人がしたいことが出来ること。」
「民族国家の威信」対「ミニスカート」で「ミニスカート」は勝てるのか?
K・ポパーは「寛容と知的責任」という講演で、啓蒙主義の父ヴヴォルテールの思想をこう紹介している。「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれすべては終始誤りを犯しているという洞察から導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」(「よりよき世界を求めて」未来社 1995)
ポパーはまたいう。「もしわれわれが、非寛容な行動もまた許容される権利をもつと認めるならば、われわれは寛容と法治国家とを破壊することになります。これは、ワイマール共和国の運命でした。」
ポパーの文は、ベトナム難民、カンボジアのポル・ポトの犠牲者、アフガニスタンの難民に言及することから始まっている。
一方、今回のピンカー氏の発言では、遅れた非西欧圏でなら仕方がないが、ほかならぬヨーロッパでこういう事態がおきたとは!という落胆が色濃く漂っている。ピンカーさんは、今回のウクライナの戦争が、ほかなならぬ啓蒙思想発生の地のであるヨーロッパ圏でおきたことに衝撃をうけているのかもしれない。しかし、ロシアは果たして西欧圏なのだろうか? 東洋圏ということはないだろうか?
共産主義という思想はヨーロッパ発のものであるが、結局、大国ではソ連と中華人民主義共和国という二国でしか成立しなかった。ということは、専制主義の伝統のもとでしかこの思想は成り立たないということかも知れない。
このピンカー氏の文を読んでいて、一番気になったのが、ウクライナをふくむ?西欧が現在持つ価値観対プーチン氏が個人的に抱く民族主義的価値観の対立という構図である。ヨーロッパという全体的な概念対ロシア大統領という個別的概念の対立。
現在の西欧の主たる構成するメンバーである英独仏は、80年前には現在のウクライナの戦争とは比較にならない凄惨な戦いをしたわけであるし、日本はB29の焼夷弾爆撃投下にも、原爆の投下にも戦争犯罪だ!などとはいわなかった。ひょっとするとこれがなければ戦争をやめることができなかったとありがたかったという思いさえうかがえないでもない。史上もっともうまくいった占領政策といわれる由縁であろう。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文の主語はわれわれ日本人である。「われわれ日本人は過ちを犯した。だから原爆の投下という事態を招いた。アメリカには罪はない。」
いまウクライナの大統領は大いなる賞賛のなかにいる。ウクライナ人の愛国心もまた。しかし、この愛国心がプーチン氏の抱く民族主義的価値観とどう違うのかは極めて微妙な問題だろう。日本とは違い、陸地に人為的に引いた国境線は過去何度も変更されて来たはずである。
栗本慎一郎氏が1981年に出した「パンツをはいたサル」という本がある。そこに「異国人が団体で入ってくると、たとえそれが友好的な人びとであっても、人はすぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんのごとき妖怪と考えてしまう」とある。「古今東西を問わず、人間が起こしたあらゆる戦争は、すべて正義のための戦争であった」と。
栗本氏がいっていることは、人間のしていることは他の動物と変わりはないが、ただ他の動物にはない「過剰」な部分があるということである。
ピンカー氏はもともと進化論を一番の専門領域とする人だから、そんなことは百も承知なわけで、人間を「良心を持つもの」といったアプリオリな定義で見るのではなく、進化の過程で生じた一つの種という観点から見て、それでも「啓蒙」の力で少しずつわれわれの世界を住みよくして行けると考える人である。
わたくしもまたポパーの信者として(「推測と反駁」)また吉田健一の信者として(「ヨウロツパの世紀末」)、ずっと啓蒙の側にいる人間であると思ってきたが、それは村上春樹のいう「壁と卵」での壁にぶつかれば簡単に砕ける卵であって、まことに無力な存在である。
啓蒙の側が言葉によってこれから何ができるのか? わたくしにはただ見てゆくことだけしかできないが、おそらく一番大事なことは今までの生活をそのまま続けていくことなのだろうと思う。守るべき生活がなければ、言葉はすべての力を失うだろうから。