千葉雅也「現代思想入門」(3)デリダ

 わたくしはデリダをまったく読んでいない。
 千葉氏は「二項対立という見方では捉えられない具体性に向き合うというのが現代思想の一番の根幹であり、そういう考え方を打ち出したのがデリダである。それを現代思想では二項対立の「脱構築」と呼ぶのだ」とする。(「二項対立」というのはある種の観念論だと思うけれど、「脱構築」というのはもっと「具体的なもの」に焦点をあてるということなのだろうか?)

 フランス現代思想を理解するには「差異」がキーワードになると氏はいう。二項対立の場では差異を重視し、ズレや変化を重視するのが現代思想の大方針なのである、と。(これもよくわからない。差異が認識されるからこそ二項対立が生まれるのではないだろうか? 千葉氏は「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくというイメージでとらえてほしい、というのだが、「仮固定的」などというという日常の言語では全く用いられない、いわば現代思想業界でのジャーゴンのようなものをいきなり持ち出してきて、さらに「脱構築」などという業界用語がそれを追い打ちするのだから、この本が現代思想についての初心者を対象にしたものという千葉氏の主張がにわかには信じられなくなる。

 さて、「デリダにおいては、「話し言葉」(声)と「書かれたもの」の二項対立がすべての根底に想定される。そこでマイナス側におかれるものを本当にマイナスなのかと考えるのが「現代思想」の行き方で、それを「転倒」と呼ぶ」とされるのだと。「転倒」というのは「ひっくり返る」ことであって「ひっくり返す」のは「転倒」ではないと思うだが・・・。どうも用語の選択がわからない。フランス語で読めば理解できるのだろうか?

 「今までマイナス側に置かれていたものに光をあてて本気でそれを再評価することで、世の中を開放的にする。それがデリダの目ざした方向である。」と千葉氏はいう。
 この見解自体は理解できないことはないけれど、「正統」と「異端」ということで言えば「異端」は「正統」があればこそ存在できるのだと思う。それとも現在においては「ポストモダン思想」が「正統」になったということなのだろうか?

 ここまで千葉氏の主張を書き写してきたが、正直なんのことやらよくわからないところが多い。
 いままでの思想界で正統とされてきた見解にわざと逆張りしていくというのがポストモダン的な行き方ということがいわれているように思えるのだが、そういうのは「二流」の人がすることで、デリダというひとがそんなことに満足した人とはわたくしには思えない。
 デリダは西洋の伝統的な思考法を根底から覆すことを目指した人なのだろうとわたくしには感じられる。「位階序列を転倒させる」といっているのだから。
 ポストモダンという場合のモダンとは西欧近代のことを指すのだと思うが、それが「自由・平等・友愛」などということではなく、「不自由・不平等・敵対」というきわめて息苦しい状況に本人さえも気がつかないうちにいつのまにかなってきている、それを打破して本来の西欧近代の理想をとりもどそうというのがポストモダンの根源的な志向であると思うが、それは逆にいえば「自由・平等・友愛」という目標についてはモダンの人もポストモダンの人も共有していることを暗黙の了解として前提にしていることでもある。
 しかしそういう西欧の(甘い?)理想を強権で否定していくような動きが公然化してくるようなことがあれば、それに対抗するものとしてはポストモダンの思想は弱いということは間違いないと思う。

 千葉氏は、二項対立においてプラス(強い側)とマイナス(弱い側)で、後者の味方となる論理を考え、両者が拮抗し、相互が依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けを留保した状態を作り出すというのが脱構築の作業であるとする。「プラス」を崩すことで、世の中をより開放的にできるというのがデリダの思想の根っこにあるものだ、と。
 さてここからがわからなくなるのだが、デリダは、
 直接的な現前性 本質的なもの パロール
 間接的な再現前(性の誤植?) 非本質性なもの エクリチュール
という区分けをしたという。ここにパロールだとかエクリチュールだとかがいきなりでてくるのが学者さんの困ったところで、話されたこと、書かれたもの、とでもしなければいけないと思う。そうしないと素人さんは逃げ出してしまう。
 わたくしはパロールなどときくと、ソシュールを連想してしまう人間なので驚かないのだが(昔、丸山圭三郎さんのソシュール論などをかなり真面目に読んだことがある。「ソシュールの思想」など)、実際、本書ではすぐにソシュールへの言及があった。46ページに全く説明なしにパロールエクリチュールという語が導入されるというのは本書が現代思想に素人である人にむけて書かれたという主張を裏切るものとなっていると思う。

 いずれにしても、デリダの思想は「他者のほうへ」。これはデリダの独自の考えではなく、レヴィナスなどにもみられるとして、デリダレヴィナスの比較論が始まるのだが、本書に想定されている読者はレヴィナスの名など聞いたことおなく、その本などまず読んでいないだろうから(わたくしもレヴィナスのお弟子さんの内田樹さんの本を読んだことがあるだけで、レヴィナス自身の著書は一つも読んでいない)、どうも本書が想定している読者というのがよくわからなくなってくる。

 ここで「本当の大人」とはという話題が論じられているが、ポストモダン思想というのは、あえて子供の視線でいくという方向ではないかと思うので、これもよくわからなかった。

 以上、よくわからないまま、デリダの項を終え、次はドゥルーズへ。
 
ソシュールの思想 (丸山圭三郎著作集 第I巻)