千葉雅哉「現代思想入門」(6) 「現代思想の源流―ニーチェ、フロイト、マルクス」

 千葉氏はこの3人を現代思想の源流であるとする。この人選をみるとマルクス?だがそれは後でみるとして、ニーチェフロイトを較べたら断然、ニーチェ>>フロイトであるように思うのだが、千葉氏(あるいは千葉氏をふくむ現代思想の陣営の人)は異様にフロイトに甘いように感じる。フロイトの説が否定されてしまうと現代思想の骨組みが壊れてしまうという危機感のようなものさえ感じる。

 フロイトの説そのそのものは反論不能である。そしてフロイトが自分のたてた仮説を実践した「精神分析」という方法はほぼ有効性を否定されているというのが現状であると思う。

 文学の方面の方々は、いまだにフロイトの説を「真」としているるいは「有効である」としている人が多いと感じる(そして進化論は完全に無視されていると感じることも多い)。
 つまり人間は他の生物と連続した一生物なのか、それとも他の生物とは完全に隔絶した特別な生き物なのか、ということである。
 どうも思想・哲学系の方々は、「人間は他の生物とは完全に隔絶した特別な生き物」と思っている方が多いように感じる。
 わたくしは医者なので、人間も一生物であるとしなければ仕事ができない。もちろん、仕事をしていれば、フロイトのいう「転移」のようなことを経験することだってないではない。
 だからフロイトの主張したことの一部に貴重な洞察がふくまれてことを認めるにやぶさかではない。しかしわたくしはポパー信者なので、あらゆることをすべて説明できるとする理論(ポパーが挙げるのはマルクス主義フロイトの理論)を信奉する人は論破することは不可能であると思う。あらゆる抗弁がそこでは可能なのである。
 ニーチェの論は本人にはもはや批判には反論ができない。だから、それを現在のわれわれの具体的な行動にそれを適応するといっても具体的にどうしたらいいか雲をつかむような話であるが、千葉氏は、ニーチェは「混乱つまり非理性を寿ぐ方向を初めて打ち出したはじめての哲学者」だったという。千葉氏はディオニュソス的なものはアポロン的な秩序とのパワーバランスが重要だというのだが ニーチェはそんな柔なことをいったのだろうか?
 そして、フロイトの論もマルクスの論も(ポパー的見地から見ると)反証不可能な主張である。それだからこそ、マルクスの主張が現実の政治の論としてほぼ否定された現在でも、マルクスの理論に生産性を見出すひとが出てきても何ら不思議ではない。
 なにしろソ連崩壊の後でもそれは「真のマルクス主義ではなかった」「真のマルクスの思想を体現した社会はまだこの地球上のどこにも実現していない」と主張することは依然可能なのだから、不敗の論であることになる。

 ここに、あるフーコー研究者の文が紹介されている」。
 「表象空間から解放され、自身の謎めいた厚みのなかに引きこもることによって、事物は、認識に対して決して完全には与えられないものとなる。そして、そのように表象から一歩退いた場所に措定された事物が、まさにそのことによって、ありとあらゆる認識の可能性の条件として自らを差し出すことになる。自らを示すと同時に隠す客体、決して完全には客体化されない客体こそが、「自らを表象の統一性の基礎として示す」ということであり、ここから、我々は、そうした基礎への到達を目指す「終わりのない任務」へと呼び戻されるのである。」
 もちろん前後の文を読めばもう少し理解できる部分もでてくるのかもしれない。しかしこの文章には学者仲間内でしか通じないジャーゴンと思わる言葉にみちあふれていて、普通のひとを対象として書いたものとは思えない。
 「いままで当たり前と思っていた日常生活の場から一旦離れて、自分という自分にもよく理解できないものとむきあうようになると、同時に他の様々なものも何だかよく理解できないものとしてわれわれの前に現れてくるようになる。事物も以前とは異なる新しい様相をまとっている。そういう体験こそがわれわれが当というような然と思っていた世界の像を一旦すてて、まったく新しいものとして世界を探究していく上での出発点となる。」というようなことなのだろうか?
 これでも何だかよくわからないが、ある深刻な体験をすると世界が今までとは違ったものになるというありふれた話のように思える。しかし、そういう体験なしに、世界への見方を変えろ!というのが現代思想ということになるのだと思うが、「余計なお世話だ! ほっておいてくれ!」というひとも多いのではないかと思う。

 さて、マルクス
 ここでの千葉氏の論じる「マルクス」が、マルクス自身が書き、主張し、そのことを通じて実現しようとした社会とどのようにかかわるのかが残念ながらほとんど理解できなかった。

 以上この章では、虎の威を借りて自分を大きくみせるという方向が現代思想のどこかにあるのではという疑念を強く感じた。

 さて、次章は「現代の精神分析」の方へ。