千葉雅也 現代思想入門(7) 精神分析
第5章はそのはじめに「現代思想の前提としての精神分析」という項がおかれている。そして現代思想がわかりにくい原因の一つはラカンの精神分析が現代思想の前提になっているにもかかわらず、それがとてもむずかしいからだ、ということがいわれる。精神分析批判という方向もふくめて精神分析の胸をかりるかたちで現代思想は成立しているという側面がある、と。
千葉氏は自分の立場を、1)精神分析の意義をある程度認めながら、2)その外部を目指すような欲望理論を持つ、という姿勢としている。
その外部を目指すというのが微妙な点で、精神分析を超えるということなのか? 精神分析では説明しきれない、あるいはまだそれが手をつけていない分野に進出するということなのか?曖昧である。
「精神分析は人間精神についての一つ仮説であり、実践的には有用であることが当事者から報告されている」と氏はいう。
わたくしは、精神分析を臨床の場で行った場合の有効・無効・有害の比率は、1;5:4位ではないかと思っている。せめて有効率が3割くらいはないと臨床の場で精神分析をおこなうことは倫理的には許容されないのではないだろうか?
そもそも現在の日本で精神分析治療はどの位行われているのだろう? (健康保険では認められてはいない治療法だから統計を取ること自体が難しいと思うけれど、そもそもその費用は相当に(法外に?)高いのだそうで、この治療費の交渉?から精神分析治療は始まるという話も聞いたことがある。)
いずれにしても、精神分析は明らかに現在の医療においては異端的なあるいは辺境的な治療法である。
精神分析は医療への応用という点では見るべき成果をだせなかったが、それにもかかわらず、われわれの人間理解について重要な示唆を与え続けている、とでも考えたほうがいいのではないだろうか?
内科臨床医からみると現在日本の精神疾患の動向として感じるのは、1)統合失調症患者をみることがほとんどなくなった。2)ヒステリー患者をここの20年から30年まず見ることがなくなった。3)古典的なメランコリー親和型鬱をみることが非常にすくなくなり、わたしは鬱ですといって外来にくるひとの大半は単にやる気がしないというだけの病気でもなんでもない人が多い、というようなことである。
以前からヒステリーは精神分析により改善することが多いとされていたと思う。そうすると実地臨床では、精神分析の出番はほとんどなくなり、「本当の自分を知りたい」などという趣味的なお金持ちをその主な対象にしているのだろうか?
わずか50年ほどで精神科疾患患者の様態が大きく変わるということは、精神疾患が深く社会の変化と関係していることの証左であると思うけれど、同時に精神疾患をどうみるかという視点の混乱(ひとによっては進歩というのかもしれないが)がとても大きいのだと思う。
精神疾患は「心」の病気か?「体」の病気か?というのが今でも精神科での大きな論点である。「精神」というのも所詮は脳という臓器の働きのことであって、その証拠に脳内伝達物質を増やしたり減らしたりする効能のある薬の投与で多くの精神疾患は改善するではないかというのが「体派」の主張で、現在の日本の精神医療での多数派であると思う。
わたくしは「体」派の精神医学というのが大嫌いで、脳内伝達物質なんてもので精神(こころ)が解ってたまるものか?という古い人間である。それは自分が文学青年のなれの果てあるからであると思うし、そうであるなら、文学への志向を持つ千葉さんとも近いところも大いにあると思う。
わたくしが読む日本の精神科医の本はまず中井久夫さんのものである(その「西欧精神医学背景史」や「分裂病と人類」などは、その見識の広さに茫然としてしまう。その氏にしてギリシャの詩人やヴァレリーの詩を翻訳刊行するというのは氏が文学青年の尻尾を引きづっているわけで、ヴァレリーのいう「弱さ」の証左であるように思えて、こちらとしてはうれしくなってしまう。
あとは、岸田秀さんであり、あるいは計見一雄氏である。
岸田氏は「ものぐさ精神分析」1977年」で「詩人のなりそこね」などという年少時に書いた詩?などまで公表しているので、やはり文学青年を根っこに持つ心理学者だと思う。
わたくしの記憶に一番残っているのは、伊丹十三氏が岸田氏らとともに発刊した「モノンクル」という雑誌で1981年創刊の毎月刊行の精神分析を前面にだした雑誌だったが、6号で挫折している。まあモノンクルなどというフランス語をタイトルにするあたりが高級志向をあらわにしていて、読者層を読み損ねたということかもしれないが、とにかくこういう一般誌が刊行されるくらいには精神分析的な見方が日本のその時点での状況と何らかの接点を持っていたということなのだろうと思う。
それで、伊丹氏の「女たちよ!」「再び 女たちよ!」「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」なども読んで、精神分析的なものの見方というのを教えられたように思う。ここで氏が男というものは毎日他の男との闘い、馬鹿にされてたまるか!といった構えで日々を送っているとしていたのだが(三島由紀夫もどこかで同じようなことを言っていた)、どうも自分にはそういう傾向はないなと思ったことを記憶している。そういう場面に遭遇したら「お先にどうぞ」でずっと生きて来たように思う。これは女性的傾向なのだそうである。(以前読んだ男脳・女脳といった本には自己採点チェックというのがあって、これでもかなり重度の?女性脳と採点された)。
「他人の足をひっぱる」ということがさっぱり理解できなかったらしい吉田健一を教祖にしているわたくしとしては、この男性脳・女性脳という視点は「精神分析」を考える場合にかなり重要なファクターになるのではないかと思っている。
計見一雄氏は精神科救急という修羅場にずっと携わってきた人であるが、氏の「現代精神医学批判」(平凡社2012)は「からだに触ってください」と副題されている。
「まえがき」に「心はどこにあるか」として「頭と胸のどちらにあるか?と氏の若いときに看護師の卵に聞いたところ、1/3が胸としたという話が出てくる。プラトンの魂の三分説では、気概の座は胸にあるとされていると思うが、この1/3の人は「こころ」とは気概のことだと思っているのかもしれない。さらにプラトンは欲望の座を腹としたと思うが、「臍から下には人格がない」などということではないにしても、現代の哲学は理性より気概や欲望のほうを重視する方向へと進んでいるのかも知れないと感じる。
計見氏の本では臨床の場での患者さんとのやりとりが紹介されているが、そこでは、患者さんの症状である体重の減少、食欲の低下、不眠、かりに寝られても朝起きてもおききられない、などはすべて患者さんの「身体」の不調であるということを指摘している。
あなたは「からだ」の病気である。これらは「日夜リズムの乱れ」の症状であって、脳にある「歩調取り装置」の故障によるので、やはりからだの異常です、と。
氏は「精神の実在などは信じていない」という。「鬱は心の風邪」という薬屋さんのキャッチ・コピーの効果で抗うつ薬の投与量は飛躍的に増えた。しかし大事なことは「肉体の回復です」という。
ここで紹介されている患者さんは、この本は10年ほど前に書かれたものなので、今ではなぜかあまり目にすることのなくなった「メランコリー親和型」のうつと思われるが、患者さんが目の前にみえた場合、とりあえず原因がなにかではなく、現在の症状に対応することが大事であることは内科でも精神科でも代わりはないと思う。
わたししが計見氏を信頼できると思うのは、氏がわたくしの敬愛する吉田健一氏の「時間」からの引用を多くしていることで、「現代精神医学批判」では「我々がどれだけ生きてゐるかはどれだけ現在の状態にあるかで決る。・・・我々が生きてゐると感じる時には現在の状態にある」の部分、「脳と人間」では「時間」の冒頭部分と50ページあたりのかなりの部分。氏は「この本は人間にとっての時間についての、重要なことはすべて述べられている書物である。私にとっては一種畏敬の感情の対象である。読者子は全編を読まれんことを願う。」と言っている。
そして吉田氏がいう時間をわすれるが時間は正確にたっていくというような感覚が決定的に失われるのが精神分裂病なのである、としている。
1990年刊行の「吉田健一頌」という本があって、そこに丹生谷貴志氏の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙なタイトルの論が収載されている。そこに中井久夫さんの「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という論文が紹介されていている。丹生谷氏の論のタイトルは中井氏の論のタイトルそのものであるのだが、ここでの吉田健一観は、その以前にあった篠田一士さんあたりの「健全な生活者」の文学という見方、あるいは丸谷才一さんなどの従来の日本の貧相な私小説とはことなる「大人の文学者」による成熟した文学という方向とはことなる、もっと切実でわれわれの生きている現実に対応する文学者という見方で、わたくしには教えられることが多かった。じつは中井さんの名前も恥ずかしながらこの本で初めて知った。
計見氏は、「精神病理学の議論にはフッサールの現象学に始まり弟子のハイデガーが嗣いで以降の超難解哲学をマスターしないと、議論できないような風潮が我が国の精神科医の間に強い。」としている。
わたくしが千葉氏の論を読んでいて強く感じるのもそのことで、ヨーロッパの伝統にはプラトンのイデアの哲学からキリスト教の「罪」の意識が常に根底にあるわけで、それを一切欠く、「あなたは罪人だなどといわれても「きょとんのきょん」である日本人にはその必要性はほとんどないはずであると思うのだが・・・。
さて、千葉氏は「20世紀になって脱秩序的なもののクリエイティティビティが言われるようになった」という。しかしクリエイティブであるということに価値をおくという考えこそが20世紀の病であり、そういう方向から身を引くというのが21世紀の方向ではないかとわたくしは思っているのだが、現代思想は今までとは違うクリエイティブの創造を目指すようなのである。
精神分析は「人間は過剰な動物」だとする。過剰な犬とか過剰な鳥などというのは意味をなさないから、現代思想では人間と人間以外の動物を峻別するのであろう。
それは言語の有無によっておきる差異である、と千葉氏はいう。犬や猫や鳥は言語を持たないであろう。ということは、人間は特殊ということで心臓病や肝臓病は犬にでも猫にでもあるだろうから、精神疾患がもしも人間にだけに起きるとすれば、すべての疾患は人間にだけでなくすべての動物におきるという医学の根本的な前提に反することになり、精神科医療が医療の行為のなかで非常に特殊なものとなってしまう。それは現在の医療の動向に根源的に反することになるから、現在の精神科医療においては「体派」が優勢になっているのだと思うが、それで「心派」は追い込まれて「難解な哲学」に逃げ込んでいるのではないかと思う。
批判に対して、「もうちょっとラカンをきちっと読んでから出直してこい!」などといっていると、専門外の人間を排除した閉鎖した蛸壺内での議論になっていってしまうのではないだろうか?
千葉氏は人間と人間以外の動物は言語を持つかどうかによって区別されるとする立場をとるという。「人間は認知エネルギーを余している」 精神分析の用語での「欲動」の過剰。「欲動」の可塑性。これらはすべて「本能からの逸脱」であると。
といった議論のあとでラカンへと話が進む。想像界・象徴界・現実界と言ったラカン独自の用語。それがカントの「純粋理性批判」に類似するとか、「鏡像段階」がどうとか、「創造力のリゾーム的転回と言語的分節性」がどうとか・・・ここら辺はまったく理解できなかった。ラカンという人は平易に語ろうとする意志をまったくもたない人であることだけはよくわかった。
ところでソーカルらの「知の欺瞞」で最初にとあげられている個人がラカンである。
ラカンのある講演が紹介されている。
「このメビウスの帯の図形は主体と客体=患者を構成する結び目の原点における一種の本質的刻印の基礎と考えることができます。この対応は、みなさんがはじめに思うよりもはるかによく成り立つのです。というのも、みなさんはこのような刻印を受容するある種の面を探すことができるからです。かの全体性の昔からの象徴である球が不適当であることは、おわかりになるかもしれません。トーラス、クラインの壺、クロスカットはこのような切断を受け入れることができます。そしてこの多様性は、精神病の構造について多くのことを説明するので、大変重要なのです。もしも主体=患者をこの基本的な切断で象徴できれば、同じようにしてトーラス上の切断は神経症の主体=患者に対応し、クロスカットの上のそれは別の種類の精神病に対応することが示されるのです。」
わたくしのような数学に無知なものからみても、これはまったくの戯言である。ここに書いてあることからは、統合失調症、躁うつ病、神経症といった精神疾患が完全に独立したものとして考えられているとおもわれるが、その根拠はまったく示されていない。
こんな戯言を神妙な顔をして聞いて一生懸命に理解しようとしているお弟子さんは気の毒としかいいようがない。これではある種の宗教団体での教義伝達の儀式と少しも変わらないように思う。
ということで、わたくしにはラカンというのは唯の「はったりの人」としか思えない。だれの話か忘れたが、ラカンの講演をきいたとき、ラカンは弟子にささえられ気息奄々といった風情で会場に入ってきたのだが、講演が終わって会場をでてしばらくするとすたすたとラカンが階段を下りてきたのだそうである。その人はラカンを「食えない人」といっていた。
このあとルジャンドルというきいたことのない人が紹介されるのだが、省略。
168ページあたりに「否定神学的」という言葉が出てくる。日本の現代思想ではと書いてあるが、否定神学というのは長いキリスト教の教義論の中で出てきたものだと思うので、それとの関係をしめさないと、日本人が作った概念と誤解されるおそれがあるのではと感じた。どうも「現代思想」にも「日本の現代思想」という分派があるらしい。なんだかややこしい。
多分、ラカンには言いたいことがたくさんあるのだろうが、それを説明する言葉を見つけられなくて、仕方なく数学の語彙を借りたのであろう。もしもわれわれがラカンを理解しようとするならば、新しい語彙を発見することをめざすべきで、難解な数学を理解する方向を目指すなどというのは、迷路に迷い込むばかりであろう。
わたくしは哲学においては明晰を目指すべきであると思っている。いくらカントの哲学が難解であってもそれは明晰を目指していないということではないはずである。
そしてラカンにおいて、その難解を何とか排除すると後にはほとんど何も残っていないということも十分ありえるのでないかと感じる。